場所・愛媛県松山市 松山城
「戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行
加藤嘉明は、加藤清正・福島正則らとならんで、賤ヶ嶽の七本槍のひとりにかぞえられた武勇の将だが、
演技臭やハッタリがなく、若くして老成した感がする。
関ケ原役の功によって嘉明は伊予松山20万石から会津40万石の大封に加増されたが、嘉明はこれが不服だったらしい。
加藤家は、子の明成の代に会津42万石を没収されて断絶のうき目を見た。
【加藤嘉明】
三河の出身で、早くから秀吉につかえ、賤ヶ嶽七本槍の功で3千石を与えられ、天正13年淡路で1万5千石、
朝鮮の役では水軍として出動。
慶長2年には巨斎島で敵船を奪取した。
関ケ原役後、伊予松山城を築く。
後会津42万石に転封。
寛永8年(1631)没す。69歳。
撮影日・2011年7月14日
「戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行
加藤嘉明は、加藤清正・福島正則らとならんで、賤ヶ嶽の七本槍のひとりにかぞえられた武勇の将だが、
演技臭やハッタリがなく、若くして老成した感がする。
関ケ原役の功によって嘉明は伊予松山20万石から会津40万石の大封に加増されたが、嘉明はこれが不服だったらしい。
加藤家は、子の明成の代に会津42万石を没収されて断絶のうき目を見た。
【加藤嘉明】
三河の出身で、早くから秀吉につかえ、賤ヶ嶽七本槍の功で3千石を与えられ、天正13年淡路で1万5千石、
朝鮮の役では水軍として出動。
慶長2年には巨斎島で敵船を奪取した。
関ケ原役後、伊予松山城を築く。
後会津42万石に転封。
寛永8年(1631)没す。69歳。
撮影日・2011年7月14日