しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

加藤嘉明

2021年04月16日 | 銅像の人
場所・愛媛県松山市  松山城


「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

加藤嘉明は、加藤清正・福島正則らとならんで、賤ヶ嶽の七本槍のひとりにかぞえられた武勇の将だが、
演技臭やハッタリがなく、若くして老成した感がする。

関ケ原役の功によって嘉明は伊予松山20万石から会津40万石の大封に加増されたが、嘉明はこれが不服だったらしい。
加藤家は、子の明成の代に会津42万石を没収されて断絶のうき目を見た。











【加藤嘉明】
三河の出身で、早くから秀吉につかえ、賤ヶ嶽七本槍の功で3千石を与えられ、天正13年淡路で1万5千石、
朝鮮の役では水軍として出動。
慶長2年には巨斎島で敵船を奪取した。
関ケ原役後、伊予松山城を築く。
後会津42万石に転封。
寛永8年(1631)没す。69歳。








撮影日・2011年7月14日





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中島知久平

2021年04月16日 | 銅像の人
場所・群馬県太田市 金山城跡


日本100名城の「金山城」に登城したら、城跡からスバルの工場や北関東の平野や市街地が見渡せた。
そこに銅像が建っていた。
中島飛行機(戦後・スバル)の創業者中島知久平の像だった。









群馬県太田市のHPより

飛行機王中島知久平




知久平は、尾島町押切の農家の長男として明治17年(1884)に生まれ、
18歳の時に軍人を志して上京し、海軍機関学校を卒業、海軍の軍人となり、大正6年(1917)3月に退官した時は機関大尉でした。
海軍時代の知久平は、軍人としての職責を全うする傍ら、アメリカ・フランスで航空機産業の視察・研究を重ね、折からの大戦で大艦巨砲主義を排し、飛行機の重要性を説くようになり、
「飛行機を大空に飛ばす」という自身の夢を現実化することになりました。

知久平は、大正6年5月、海軍を待命のまま尾島町前小屋の養蚕農家の借家に「飛行機研究所」の看板を掲げ、
退役が決定した同年12月に、太田町の大光院東の洋館に研究所を移転し、本格的に飛行機の研究・製造を開始しました。
当初は、なかなか飛ぶ飛行機の製造は叶わず、大変苦労しましたが、大正8年2月、四型6号機を完成させました。
飛ぶ飛行機の完成です。以後、陸・海軍からの大量受注により、中島飛行機は飛躍・発展を遂げ、その生産量・技術とも日本の航空機生産業界の頂点に立ち、
太田は「飛行機の町」として広く知られるようになりました。


また、知久平は昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、
昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任するなど、
中央政界において、その実力をいかんなく発揮しました。

昭和24年(1949)10月、東久邇内閣での同僚である松村謙三と談笑中、病を得て倒れ、65歳の生涯を閉じました。




撮影日・2017年9月28日


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本多忠勝

2021年04月16日 | 銅像の人
場所・愛知県岡崎市   岡崎公園




「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

本多忠勝
「家康に過ぎたる」合戦の勇者

本多平八郎忠勝は、徳川譜代の武功派として四天王のひとりにかぞえられた典型的な戦国武将である。
史書の伝える忠勝は、
「若年より軍におもむくこと、およそ50余度におよび、
武功すぐれておおしといえども、
いまだかつて創をこうぶることなし」
という勇将である。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」、これもよく知られている。


三方ヶ原の合戦の時、忠勝は25歳であった。
徳川軍大敗北の殿軍の大役をつとめることになった。
のちに武田方の初鹿野伝衛門が回顧して語っている。
「・・・その時、殿軍の忠勝を追撃しようとしたが、
蜻蛉切の槍を片手でふりまわし、鬼神のような形相で睨みつけられると、全身が総毛だって、手も足も出なかった」


後、桑名15万石に封ぜられた。







撮影日・2014年10月10日



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