硫黄島
「硫黄島玉砕戦」
日本兵が投降したがらない理由は、
「敵国の捕虜になった兵隊は”国賊”扱いされて、戸籍謄本なんかも赤くバッテンが書かれてしまう、そういう教育を受けていた」
国を裏切ったも同然で故郷の血縁者までもが”売国奴”の非難を浴びることになると、兵士は固く信じ込んでいた。
「後ろから銃で撃った人間がいたんですよ」、
味方の銃弾を背後から受けて命を落とす、彼らもまた記録のうえでは硫黄島で”玉砕”した戦没者になる。
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「硫黄島玉砕戦」
「仲間が戦死すれば、最初のうちは、ちゃんと火葬にして供養してやりたいとも思いましたけど、焼いて煙なんか出したら、敵に見つかるだけですからね。
死体は邪魔にならないように積み上げておくだけ。
そして、積み上げる前には、死んだ兵隊の持物をみんなあさっていました。」
陰鬱な地下壕の生活は、いつしか兵士たちに自分が”人”であることを忘れさせていた。
「もう、”畜生”です。
日本の兵隊が死んだからって、頭の中には『何かモノを持っていないか』という考えが先にくるんです』
日本軍は、戦う相手や敵を、「鬼畜」であると教え込んだ。
しかし、硫黄島からの生還者たちは、極限の戦場を生き抜いた己の生きざまを表す言葉として口にする。
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お母さん
死んでいく瞬間に、最後の一言を発する人も少なくなかった。
多くの兵が申し合わせたように、「おっかさん」という言葉を残して死んだという。
「私が見た中では『天皇陛下万歳』と言って死んだ兵隊は、あまりいませんでしたし、
最後に『お父さん』と言った兵隊も、一人もいなかった」
「水」といって死んでいく兵士も、数えきれないほどたくさんいた。
手が届く最後の願いともいえたが、しかし、その願いが聞き入れられることは、ほとんどなかった。
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「殺してくれ」
「あれだけの酷い火傷を負って、医療設備も何もないんですから。
見ている方は、放っておいても三日もすれば死んでしまうと思います。
そういう瀕死の兵が、わあわあ騒いだり、大きな悲鳴をあげたりすれば、
『うるさいから殺しちゃおうか』って、反射的に銃を向けることもあった。」
銃で撃って命を絶つ-------。
それを望んだのは、じつは多くの負傷兵自身であった。
兵士に耐え難い苦痛を与え、生き抜く気力を奪っていった。
「名前も階級もわからない。
陸軍か海軍かもわからない。
全身に火傷を負った見知らぬ兵隊が『殺してくれ、殺してくれ』言うて訴えたんです。
何を尋ねても、とにかく『殺してくれ』」
「もう、どうしていいのかわからなくなります。
でも、結局は、苦しませるよりは死なせてあげようという気持ちになるんです」
「硫黄島玉砕戦」 NHK取材班 NHK出版 2007年発行
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アッツ島の玉砕
昭和18年5月30日、大本営は「海征かば」の曲とともに山崎保代部隊長に率いられた二千数百名の陸海軍守備隊が「玉砕」したことを発表した。
国民は「全滅」でなく「玉砕」の道を歩んだ守備隊を武士道の鑑であり、
捕虜となることを潔しとしない軍人精神の発露であると賛美した。
「日本の歴史14」 研秀出版 1973年発行
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初の玉砕、アッツ
昭和18年5月11日米軍が上陸。
日本守備隊2379名は、5月末まで陣地を死守。
砲弾や弾薬を使い果たして、
5月29日未明生き残りの約1.000名が総攻撃を敢行。
捕虜29名の他は全員散華した。
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ギルバード諸島
昭和18年11月20日、米軍は中部太平洋ギルバード諸島に進攻してきた。
孤立無援のタワラ守備隊(海軍陸戦隊ほか4.800名)は猛烈な爆撃と艦砲射撃を受けたのち、全員壮烈な玉砕をとげた。
タワラ戦のあと、生き残った日本守備兵は”生きて虜囚の辱めを受けない”ため、小銃を頭部に当て、足の親指で引金を引いて自決した。
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サイパン玉砕
マリアナ諸島の戦略的重要性はいうまでもない。
一たび日本がこれを失うことになれば防衛内線はたちまち破綻を生じ、
国防上の生命線が脅威をうけることは明白であった。
米軍兵力は、
空母15,戦艦7,巡洋艦13,駆逐艦58,潜水艦13,計107隻の他、
護衛空母14,旧式戦艦7など計551隻の遠征部隊を加え、合計658隻であった。
上陸軍は78.000名がサイパンとテニアンに、56.000名がグァムに向けられた。
サイパン守備の日本軍は、合計32.000名(陸軍24.000名、海軍6.700名ほか)で、
海軍は南雲中将、陸軍は斎藤中将が指揮であった。
6月15日サイパンに上陸した米軍は、6月27日タポチョー山を占領し、
日本軍は11日間に戦闘員の約8割を失った。
木の根をかじり、かたつむりを食べて抗戦し、
7月6朝、斎藤将軍は南雲中将とともに自決。
7月7日,約3.0000名の日本軍はバンザイ突撃をして死地に身を投じた。
7月9日、マルビ岬にはまだ多数の男女市民がいた。
市民たちは黙々と断崖から身を投げた。
ある父親は3人の子供をかかえながら身を投じ、
女たちは手をとりあって崖から海中へ身を躍らせていった。
日本軍ほとんど全員玉砕し、捕虜は1.800名たらずだった。
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テニアン
昭和19年7月24日、米海兵隊が4万名が上陸。
日本守備隊8.000名は玉砕した。
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グアム
陸軍13.000名、海軍7.000名が13日間の砲撃に堪えたが、
反撃する備砲は大半が使えなくなっていた。
8月10日、日本守備隊はほとんど玉砕した。
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ペリリュー島の奮戦
昭和19年9月15日連合軍は上陸。
日本軍は夜間斬込作戦で対抗した。
連合軍は鉄条網と、日没とともに照明弾を打ち上げ真昼のようにし、
少しでもあやしいものを見つけると機関銃射撃を集中した。
抗戦70日、
生ある限りジャングルにひそんで最後まで闘い、
「通信断絶のため本日をもって以降連絡期し難きも、御了承を乞ふ。
日本の皆さんさようなら」。
戦後の昭和22年34名が収容された。
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メレヨン島
全く孤立無援ととなったメレヨン守備隊は、
現地自活のため農耕と漁労を続けた。
しかしサンゴ礁の土壌と不備な漁具では、兵士たちの生命を保持する食糧を得ることはできず、ついに全島ネズミ、トカゲ類も貴重な栄養源となった。
さらにアメーバ赤痢など風土病がまん延し、総員6.800名のうち5.200名が悲劇の島の土となった。
「昭和史7太平洋戦争後期」 研秀出版 平成7年発行
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