しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ソ連軍急襲「占守島」の激闘

2022年02月17日 | 占守島の戦い
占守島の戦いは、それを記した本のどれもが、戦車で戦った連隊長と、札幌にあった方面軍司令官の英雄視した話が多い。

この門田隆将の本は軍使だった長島大尉のインタビューが中心になっている。
彼の本に限らないが、もう10年早く記録に着手すれば「占守島の戦い」は多くの事実が残ったであろう。
今となっては濃い霧に覆わたままで、本当のところはよくわからない気がする。

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「占守島の戦い」は、戦後何かの理由で隠されていたのだろうか?
それとも全員シベリア送りのため世にでなかったのだろうか、
いや昭和31年といえば生きている人は、全員が復員している。

知識人・荒垣秀雄が、そして朝日新聞社が知らないはずはない。
不思議だ。


「天声人語」 1956(昭和31)年8月9日  荒垣秀雄

11年前のきのうきょう、日ソ中立条約はまだ有効だった。
それを反古にしてソ連は、無抵抗の日本人を満州の野にけちらして、
参戦わずか一週間で”戦勝国”となった。
ソ連の兵士は血一つ流さずに、千島も何もとってしまった。


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「太平洋戦争最後の証言」  門田隆将 小学館  2011年発行
ソ連軍急襲「占守島」の激闘


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真っ先にソ連軍と交戦したのは、村上少佐が率いる独立歩兵大隊の約千名である。
占守島を一望できる四嶺山で激しい戦いが始まった。
明けて8月19日になっても戦闘はつづいた。
村上隊長は旅団本部に打電した。
「四嶺山は全員玉砕する」
だが、旅団本部は、村上大隊の玉砕を許さなかった。
「玉砕は許さない。撤退を命ずる」。

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千歳台にいた竹下少佐が率いる大隊は銃撃戦を開始したがソ連軍戦闘機から波状攻撃でばたばた死者が出た。
大隊本部の竹下大隊長が負傷した。

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戦車聯隊の池田連隊長
連隊長は両軍が撃ち合っている四嶺山へ進んだ。
ソ連の猛火はすさまじく、装甲の薄い日本戦車は貫かれていった。
池田連隊長は最前線で戦死した。
戦車隊の戦死者は95名を数えた。

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第91師団の堤師団長は停戦交渉の軍使を派遣する決意をした。
第73旅団の杉野巌旅団長の作戦指導補佐の長島厚大尉が命じられ、
8月18日午後2時ごろ20名弱で出発した。
満90歳を迎えた長島本人は述懐する、
「戦闘は激しく、私たちは白旗を掲げ、走ったり、ほふく前進を繰り返して、敵弾の中を進みました」

「上陸指揮官のアルチューフィン大佐に停戦文書を手渡しました」
ソ連軍軍使6名を連れた長島たちは2時間後第73旅団の司令部に戻った。
長島がソ連軍の軍使を杉野旅団長に紹介した。
「本日午後3時に竹田浜において、日本側高級軍使と会いたい」
ただちに電話連絡によって堤師団長にそのことが伝えられた。

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それから、紆余曲折を経て両軍の間で停戦が合意したのは、その三日後の
昭和20年8月22日のことである。
それまで日ソ両軍の衝突は各所でつづいたが、この日午後2時、
ソ連警備艇のキーロフ号にてソ連軍カムチャッカ防衛区のグネチェコ司令官と堤第91師団長との間で合意された。


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南北朝正閏論

2022年02月17日 | 令和元年~
”南北朝正閏論”は、
南北朝のいずれが正統かの論議で、下記の4論がある。
南朝正統論
北朝正統論
両統対立論
両統並立論
戦前は都合のいい物語が重視で、戦後は歴史学が重視されているが、皇室の歴史だけに自由議論とは言えないように見える。

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「時代小説で読む日本史」 末国善己  文芸春秋社 2011年発行

帝国大学国史科初代教授・重野安績

1875年から国家主導による修史事業の責任者になった重野は、
西洋から輸入された歴史学に触れ、政府の方針とは異なる主張を始める。
複数の資料を比べ、その資料が信頼できるかを検証する実証主義を重んじるようになった。
「大日本史」を批判し、児島高徳を空想上の人物と断じた。
1893年編纂事業は文部大臣により停止が命ぜられた。


南北朝正閨論争

明治天皇は北朝系の天皇だが、明治政府は天皇親政を実現させた御醍醐天皇が起源となる南朝を正統としたかった。
つまり南北朝を論じる限り、万世一系という国是を論理的に説明することが難しいのだ。
1911年国会で問題になった。
南北朝の正当性を議論することはタブー視され、これが『太平記』の神格化を強めていくのである。


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大楠公御殉節・七生報国 

兵庫県神戸市・湊川神社
(「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」と互いに誓いあい、兄弟刺しちがえて、その偉大な生涯を閉じられたのでした)

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建武中興六百年記念祭

1930年代にはいると、国民精神の高揚が叫ばれるようになり、
特に建武中興や南朝、天皇の忠臣・楠木正成の神格化が本格化する。

1934年が後醍醐天皇が建武と改元してから600年、
1936年が楠木正成が湊川で戦死してから600年、にあたることから
全国各地でほぼ2年にわたって様々な式典が行われた。
尊王思想を徹底させる記念祭は神職会が推進したが、その背後には政治家や軍部の強力な支持があったとされている。
同じ1934年1月には、斎藤実内閣の中島久万吉商工大臣が、雑誌「現代」に、
天皇を裏切った逆賊・足利尊氏を擁護する論文を発表したことが国会で問題となり、辞職に追い込まれている。
ここからも、当時の南朝礼賛の熱狂が見て取れるだろう。


後醍醐天皇悪玉論

後醍醐天皇は殷の紂王のように「君の徳」から外れた暗遇な指導者とされている。
『太平記』の巻一には、
「年十七八なる女の、みめかたち優に、膚殊に清らかなるを二十余人」集め
「すずしの単衣ばかりを着せて、酌を取らせ」ては「遊び戯れ舞ひ歌う」パーティを開いていたと記述されている。

後醍醐天皇=悪玉論を覆したのが、1657年からはじまった水戸光圀編『大日本史』である。
尊王思想を軸に歴史解釈で執筆された『大日本史』は、『太平記』が虚実ないまぜの軍記”物語”であるにもかかわらず、そのすべてを歴史的事実として採用。
後醍醐天皇から始まる南朝を正統とした。
『大日本史』は、儒教、国学、神道による国家運営を是とする水戸学を生み出し、幕末の尊王運動にも影響を与えることになった。



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(2018.3.9 東京都千代田区)


戦後
(Wikipedia)

第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。
ただし、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。

また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、
足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」(悪者を意味せず、幕府等の権力に反抗した者をさす)としての性格が研究されるようになり、
後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇専制を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。

網野善彦は職能民など非農民層に着目し、
南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。



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