しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

醤油を作る

2022年02月28日 | 農業(農作物・家畜)

家の土間の隅に醤油を絞る木製の道具があった。
その木製の機械から、ぽったんぽったん醤油が落ちて(絞りだされて)いた。
その醤油で母は料理をしていたが、
お客がある時は、買った一升瓶の醤油を使っていたような気もする。
遠い昔の想い出になったが、醤油が落ちる音はよく覚えている。

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ひしお 

(母の話)

何処の家にもおおきな瓶にいっぱいつくっとった。
昼からは
ひやのエンダにおきょうた。日に当たるとこ、日のあたるとこへおきょうた。

九月になれば麹ができょうた。
昔は自然の温度だけでしょうた。

談・2000・12.24


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(母の話)

小麦を植え、大豆を植え
麹を作り。
彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。
長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。

その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。
空臼で搗きょうた。

実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。
おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。

どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。
途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。

醤油を搾る。
麹を1年寝かして、塩と水をいれて、混ぜくるんじゃが。せいから搾る。
辛ぃ醤油ができるんじゃ。

二番醤油
せいからまだ、おばあさんはもったいない言ぅて塩を(更に)混ぜて二番醤油ゆうのをつくりょうた。
一回使ぅた麹を、それをもう一回使う。塩と水を足して。


(父の話)

麹は作る人によって上手なウチがあった。
一番醤油は味がええ。
二番醤油は辛いばあじゃった。味がねぃ。

2002年5月26日



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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
醤油

原料は小麦、大豆、塩である。
醤油一斗作るのに小麦一升、大豆一升、水五升、塩五升である。
樽に仕込みかきまぜる。よく溶けたころ、醤油搾り袋に入れてフネで搾り、
それを釜で炊いて食用の醤油とする。


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「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行
 
小麦

小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。


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養蚕業その④笠岡の製糸業

2022年02月28日 | 農業(農作物・家畜)
養蚕も、そして製糸業も、昭和恐慌で大打撃を受けて後は
縮小をつづけ昭和30年ごろに消滅してしまった。

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(笠岡市分庁舎 2022.2.25)

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「笠岡市史・3巻」

笠岡の製糸

現在笠岡市役所分庁舎が建てられている所は、明治5年笠岡製糸場が建設された歴史的場所である。
その製糸場は士族授産事業として作られたものである。

小田県権令矢野光儀は殖産興業を図るため「蚕事の儀は御国産第一の業」として養蚕を奨励し、製糸の有望性に着目し、県の士族授産の方策として製糸場の設立を考えた。
明治5年小田県は福山士族の子女を製糸練習、男を器械公作練習として4人東京に派遣、スイス人に蚕糸製造を習得させた。
県為替方の島田組に命じ製糸場を設けさせた。
島田組は政府から融資を受け、小田県庁の東方に土地を購入し洋風建物の笠岡製糸場を建設することになった。

翌明治7年4月、開業式を盛大に行い60名を収容し事業を開始した。
華々しく新築開業した笠岡製糸場の、その後の経営は不振であり、明治7年12月島田組倒産により事業は停止されてしまった。
明治9年9月、笠岡村や深津村の人ら11名が笠岡製糸場の土地、建物、器械を1500円で払い下げを受け蚕糸製造を再開した。
事業再開後は、繭が安く・輸出価格が高い年は利益が出た。
明治13年「山陽製糸社」を創設し、山陽地方の製糸業を連合して生糸を改良し、輸出することを図った。
これによって笠岡製糸場の名声が高まり、広島・愛媛ほかから製糸工女の伝習を受けるため、入社するものが数十名に及び、製糸業の改良に実績を上げている。

大正時代、
賃金は年9回払い、平均10円80銭で地方としては一流であった。
就業時間はだいたい12時間、朝6時半から夕方6時半。8時頃までの夜業は普通。
休業日は年間40日、祭り・盆・正月にまとめてとる。男子職員にはほとんど休みはなかった。
大正7年、工女による5日間のストライキあり。
大正9年、糸況が悪化。大正11年に井原の「中備製糸株式会社」と合併、その笠岡工場となった。

昭和7年、
解散し笠岡に一時代を飾った山陽製糸は歴史を閉じた。

中国情勢の変化、アメリカを中心とする輸出の低迷と糸価が暴落。
人造綿糸(レーヨン)の出現が引き金になったものと考えられる。


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「井原市史Ⅱ」

製糸場

後月郡・小田郡の製糸場は、最初原料繭を遠くから調達する割合が高かったが、養蚕業が次第に発達すると、自郡および周辺地域からの原料繭調達になっていった。
そして昭和初期には、小田郡は養蚕産業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。

昭和2年の岡山県内の春蚕繭取引方法としては、乾繭取引(9.8%)、正量取引(28%)、特約取引(35.5%)、市場取引(3.7%)があげられる。
小田郡は、時価取引が60%、正量取引30%とつづいた。
後月郡も、時価取引45%、正量取引20%他であった。
特約正量取引とは、郡是製糸がはじめた、蚕種を養蚕農家に配付し、繭を買い上げて支払う。


中備製糸

明治26年(1893)に設立された中備製糸株式会社は、その後順調に発展する。
大正2年、創業20周年記念祝賀会が開催された。
女子従業員のための裁縫などの夜学校を開始した。
職工数は大正7年には237人まで増加した。
大正11年には350釜となった。

原料繭は県外から次第に県内、やがて井原の周辺地域中心になった。

損益状況は、かなりの変動がみられる。
繭の不出来、糸価の低落、経済一般。
第一次大戦で乱調子。
大正15年から生産調整。昭和4年以降は赤字続き。
昭和7年に解散した。
昭和初期、多くの製糸場が倒産し、郡是・片倉を頂点とする大手製糸会社への集中がすすんだ。

購繭時期には、井原の中備製糸の前には、繭を売りに来たり、運んできた農民たちで大変賑わった。
製糸女工たちは給料で井原の商店で買物をし、商店の経営を潤した。
昭和7年の解散時には、
「農村並びに商店街も不況にあえぐ折柄、いっそう不況が深刻化するであろう」と報じられた(山陽新報)。


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製糸業
昭和初期には
小田郡は養蚕業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。

「矢掛町史」


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「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行
昭和9年 大暴落した繭価
レーヨンの進出と生産過剰に原因


養蚕は、すぐに換金できることから、農家の重要な副業だった。
しかし生産過剰とレーヨンの進出により、アメリカ生糸市場の不況が加わり、繭価は大暴落した。
養蚕農家の多くは借金を抱えることになった。
長く輸出品の第一位であった生糸は、9年に綿織物にとって替わられた。

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