ガダルカナル
昭和17年12月31日、大本営はガダルカナル島奪回を断念した。
戦闘における死者2万人、一説にはそのうち1万5千人は餓死であった。
日本軍の敗因は、それ以前に、
この島に進出すること自体が作戦線を伸ばし過ぎて補給・輸送を困難にするという点が見落とされていた。
制空権を喪失し、輸送を妨害され兵力はもとより装備も食料も送り込めない状態にされてしまった。
ポートモレスビー(東部ニューギニア)の攻略
昭和17年3月日本軍は東部ニューギニアに進出し、陸路でポートモレスビーを攻略することになった。
これは無謀に過ぎる作戦だった。
陸路はほとんどジャングルに覆われ、越えようとする山系は標高2.000mにおよんでいた。
8月18日南海支隊8.000人が、ブナに上陸。
行軍は苦難を極め、補給も不足がちで、病人や死者が続出する。
9月16日ポートモレスビーまで50キロの地点に迫るが、補給困難とみて、23日撤退を命令した。
ふたたびジャングルと高峰を戻り、11月にブナに帰り着いた者はわずか300人であった。
米軍の「蛙飛び作戦」
米軍は、制圧した飛行場からの飛行機進出距離いっぱいの場所に次の狙いを定めて制空権を奪い、また次に進む。
その途中飛び越した日本軍の部隊はいちいち制圧する手間を省き、補給を絶って放置しておいたのである。
日本軍がニューギニアに投入した兵力は16万とも18万ともいわれるが、
その9割が死亡するという悲惨な戦場になった。
日本はここで国力を使い果たし、以後の戦いではなすすべもなく敗れていく。
・・・・・
「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行
『餓死した英霊たち』
ブーゲンビル島の作戦失敗で、何とか行き帰った兵士たちは、
体力が消耗しているのに食べるものは何もなかった。
そこで、銃を捨て、鍬をとって、荒れ果てた耕地や密林の開墾につとめた。
その間、補給された食料は、4月に米100g、5月に60g、6月以降は皆無で、
他は一切現地物資を利用するしかなかったという。
兵士たちの中には、住民がわずかに所有している食物を、半ば強制的に取り上げるものも出てきた。
そして、
「木の芽、草の根、食べられるものはすべて食した。
海の魚をとりたくても敵機が絶えず哨戒するし、爆薬は将来の作戦を考えればこんなことに供用はできなかった。
小川の魚はすぐにとりつくされた。蛋白質の給源は「トカゲ」であり、蛇であり、鼠、「バッタ」の類に及ばざるを得なかった。
調味料として,塩を夜間、海水を煮て作った。」
無謀な作戦と食糧補給がなかったことで、実に多くの兵士を餓死や栄養失調に陥らせた大平洋戦争。
ガダルカナル島は餓島と呼ばれた。
本土の食生活も悲惨だったが、前線の兵士たちにとって、戦場は飢餓地獄さながらであり、大本営と作戦責任者の罪は大きい。
・・・・
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行
ガダルカナル島
昭和17年12月、ガ島の米軍は5万人を投入。
飛行場は3つに増えた。
野外映画劇場も設けられ、日本軍の目の前で海水浴を楽しみながら、夜の”東京急行”(輸送船)攻撃を待つ有様となった。
これにたいして日本軍は、
飢え、マラリア、赤痢に倒れ、第17軍参謀長の高崎少将は悲電を大本営に送った。
ーーー
今や打つ続く糧秣の不足、ことに12月2日以後わずかに木の芽、ヤシの実、川草のみによる生活は、第一線の大部をして戦闘を不能に陥らしめ、
歩行さえ困難なるもの多く、一斥候の派遣も至難となれり
ーーー
この電報は、むしろ控えめでさえあった。
大本営の撤去命令を伝達に行った参謀中佐は、
骸骨の如く衰え死体もろくに埋葬されないガ島の惨状に
「地獄とはこういう場所か」と、嘆いた。
撤去は昭和18年2月3日~7日にかけて無事駆逐艦20隻で終了したが、
投入兵力33.600人、うち
戦死者8.200人、
戦病死11.000人。
戦病死のほとんどは補給不足にもとずく栄養失調または熱帯性病気によるものだった。
(山中に残された日本軍の水筒)
・・・・
硫黄島
水や燃料を蓄えた500本を超えるドラム缶が運び込まれ、
水も、燃料も、そして食料も、最も豊富に備蓄されている地下壕が南方空だった。
兵士が3ヶ月間自給できると、兵士たちの間でも噂されていた。
が、蓄えはたちまち底をついた。
地下壕の奥に堆く積み上げられていたのは、戦死した兵士の亡骸だった。
さらに、力尽きて死んでいく負傷兵も、増え続けた。
高温で、むせ返るような壕の中で、死体の山は強烈な腐敗臭を発していた。
生き残った兵士は、泥水をすすり、ウジ虫を口に入れてしのぐ日が続いた。
「泥水にウジがわいていたら、ありがたかったですよ。
毒物もはいってない。
それに、泥水をウジごと一緒に飲んじゃえば、食料も同時に腹に入れることになるわけですから」
食料は、自分たちで調達するしかなかった。
爆弾で吹っ飛ばされたパパイヤの木の根っこを見つけ、まようことなくかじりついて胃に収めた。しかし、すぐに木の根すら見当たらなくなった。
「炭を食べたんです。
炭が食べられるとか、食べられないとか、そういうことを考える前に食べるんです。
ほかにないんですから。
本当に今でも涙が出てきます。」
「硫黄島玉砕戦」 NHK取材班 NHK出版 2007年発行
・・・・・
インパール
佐藤師団長が去った翌日、
牟田口司令官は将校全員を集めて声涙共にくだる誹謗をした。
「佐藤師団長は、軍令に背きコヒマ戦線を放棄した。
食うものがないから戦争はできんといって退却した。
これが皇軍か。
皇軍は食う物がなくても戦をしなくてはならんのだ。
食う物がない、兵器がない、弾丸がないなどとは戦いを放棄する理由にならん。
弾丸がなければ銃剣があるじゃないか。
銃剣がなくなれば腕で行くんじゃ。
腕がなくなったら足で蹴れ。
足もやられたら口で噛みつけ。
日本男子には大和魂があるということを忘れるな。
日本は神州である。
神州は不滅である。
毛唐の奴バラに負けるものか」
哀れは、インパール作戦に散った将兵である。
第31師団 戦病死11.500名
第15師団 戦病死12.300名
第33師団 戦病死12.500名。
「昭和史7太平洋戦争後期」 研秀出版 平成7年発行
・・・
「白骨街道」の地獄図
インパール作戦では、約10万人がインパールに進行し、うち、
約3万人の兵士が死んだといわれている。
その死亡率の高さは驚異的である。
とりわけ悲惨なのは、
犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、栄養失調、マラリア、赤痢などで体力を消耗し、退却途中に倒れたことである。
とくにチンドウィン川の川西方のカボウ谷地は日本兵の死体で埋め尽くされ、
「白骨街道」と呼ばれた。
「雨露を避けるために、樹間に天幕を張って、数名の兵が寝込んでいるので、様子を窺ってみると、その内の半数は既に息絶えて死んでいるのである。
後の半数は死んだ兵と肩を並べて生きているものの、既に歩む気力はもろろん、もの言う元気もなく、そのまま息絶えるのを待っているかのように見えるのである」
「死体はポツンと、ただ一体だけ横たわっているようなことはなく、
一体の死体があるところには数十の死体がつづいていた。」
雨期最盛期の、最も凄惨な敗走を強いられた部隊の記録は残っていない。
それは戦闘部隊のほとんどが死んでしまったからではないかと推測している。
「昭和二万日の全記録6」 講談社 平成2年発行
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昭和17年12月31日、大本営はガダルカナル島奪回を断念した。
戦闘における死者2万人、一説にはそのうち1万5千人は餓死であった。
日本軍の敗因は、それ以前に、
この島に進出すること自体が作戦線を伸ばし過ぎて補給・輸送を困難にするという点が見落とされていた。
制空権を喪失し、輸送を妨害され兵力はもとより装備も食料も送り込めない状態にされてしまった。
ポートモレスビー(東部ニューギニア)の攻略
昭和17年3月日本軍は東部ニューギニアに進出し、陸路でポートモレスビーを攻略することになった。
これは無謀に過ぎる作戦だった。
陸路はほとんどジャングルに覆われ、越えようとする山系は標高2.000mにおよんでいた。
8月18日南海支隊8.000人が、ブナに上陸。
行軍は苦難を極め、補給も不足がちで、病人や死者が続出する。
9月16日ポートモレスビーまで50キロの地点に迫るが、補給困難とみて、23日撤退を命令した。
ふたたびジャングルと高峰を戻り、11月にブナに帰り着いた者はわずか300人であった。
米軍の「蛙飛び作戦」
米軍は、制圧した飛行場からの飛行機進出距離いっぱいの場所に次の狙いを定めて制空権を奪い、また次に進む。
その途中飛び越した日本軍の部隊はいちいち制圧する手間を省き、補給を絶って放置しておいたのである。
日本軍がニューギニアに投入した兵力は16万とも18万ともいわれるが、
その9割が死亡するという悲惨な戦場になった。
日本はここで国力を使い果たし、以後の戦いではなすすべもなく敗れていく。
・・・・・
「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行
『餓死した英霊たち』
ブーゲンビル島の作戦失敗で、何とか行き帰った兵士たちは、
体力が消耗しているのに食べるものは何もなかった。
そこで、銃を捨て、鍬をとって、荒れ果てた耕地や密林の開墾につとめた。
その間、補給された食料は、4月に米100g、5月に60g、6月以降は皆無で、
他は一切現地物資を利用するしかなかったという。
兵士たちの中には、住民がわずかに所有している食物を、半ば強制的に取り上げるものも出てきた。
そして、
「木の芽、草の根、食べられるものはすべて食した。
海の魚をとりたくても敵機が絶えず哨戒するし、爆薬は将来の作戦を考えればこんなことに供用はできなかった。
小川の魚はすぐにとりつくされた。蛋白質の給源は「トカゲ」であり、蛇であり、鼠、「バッタ」の類に及ばざるを得なかった。
調味料として,塩を夜間、海水を煮て作った。」
無謀な作戦と食糧補給がなかったことで、実に多くの兵士を餓死や栄養失調に陥らせた大平洋戦争。
ガダルカナル島は餓島と呼ばれた。
本土の食生活も悲惨だったが、前線の兵士たちにとって、戦場は飢餓地獄さながらであり、大本営と作戦責任者の罪は大きい。
・・・・
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行
ガダルカナル島
昭和17年12月、ガ島の米軍は5万人を投入。
飛行場は3つに増えた。
野外映画劇場も設けられ、日本軍の目の前で海水浴を楽しみながら、夜の”東京急行”(輸送船)攻撃を待つ有様となった。
これにたいして日本軍は、
飢え、マラリア、赤痢に倒れ、第17軍参謀長の高崎少将は悲電を大本営に送った。
ーーー
今や打つ続く糧秣の不足、ことに12月2日以後わずかに木の芽、ヤシの実、川草のみによる生活は、第一線の大部をして戦闘を不能に陥らしめ、
歩行さえ困難なるもの多く、一斥候の派遣も至難となれり
ーーー
この電報は、むしろ控えめでさえあった。
大本営の撤去命令を伝達に行った参謀中佐は、
骸骨の如く衰え死体もろくに埋葬されないガ島の惨状に
「地獄とはこういう場所か」と、嘆いた。
撤去は昭和18年2月3日~7日にかけて無事駆逐艦20隻で終了したが、
投入兵力33.600人、うち
戦死者8.200人、
戦病死11.000人。
戦病死のほとんどは補給不足にもとずく栄養失調または熱帯性病気によるものだった。
(山中に残された日本軍の水筒)
・・・・
硫黄島
水や燃料を蓄えた500本を超えるドラム缶が運び込まれ、
水も、燃料も、そして食料も、最も豊富に備蓄されている地下壕が南方空だった。
兵士が3ヶ月間自給できると、兵士たちの間でも噂されていた。
が、蓄えはたちまち底をついた。
地下壕の奥に堆く積み上げられていたのは、戦死した兵士の亡骸だった。
さらに、力尽きて死んでいく負傷兵も、増え続けた。
高温で、むせ返るような壕の中で、死体の山は強烈な腐敗臭を発していた。
生き残った兵士は、泥水をすすり、ウジ虫を口に入れてしのぐ日が続いた。
「泥水にウジがわいていたら、ありがたかったですよ。
毒物もはいってない。
それに、泥水をウジごと一緒に飲んじゃえば、食料も同時に腹に入れることになるわけですから」
食料は、自分たちで調達するしかなかった。
爆弾で吹っ飛ばされたパパイヤの木の根っこを見つけ、まようことなくかじりついて胃に収めた。しかし、すぐに木の根すら見当たらなくなった。
「炭を食べたんです。
炭が食べられるとか、食べられないとか、そういうことを考える前に食べるんです。
ほかにないんですから。
本当に今でも涙が出てきます。」
「硫黄島玉砕戦」 NHK取材班 NHK出版 2007年発行
・・・・・
インパール
佐藤師団長が去った翌日、
牟田口司令官は将校全員を集めて声涙共にくだる誹謗をした。
「佐藤師団長は、軍令に背きコヒマ戦線を放棄した。
食うものがないから戦争はできんといって退却した。
これが皇軍か。
皇軍は食う物がなくても戦をしなくてはならんのだ。
食う物がない、兵器がない、弾丸がないなどとは戦いを放棄する理由にならん。
弾丸がなければ銃剣があるじゃないか。
銃剣がなくなれば腕で行くんじゃ。
腕がなくなったら足で蹴れ。
足もやられたら口で噛みつけ。
日本男子には大和魂があるということを忘れるな。
日本は神州である。
神州は不滅である。
毛唐の奴バラに負けるものか」
哀れは、インパール作戦に散った将兵である。
第31師団 戦病死11.500名
第15師団 戦病死12.300名
第33師団 戦病死12.500名。
「昭和史7太平洋戦争後期」 研秀出版 平成7年発行
・・・
「白骨街道」の地獄図
インパール作戦では、約10万人がインパールに進行し、うち、
約3万人の兵士が死んだといわれている。
その死亡率の高さは驚異的である。
とりわけ悲惨なのは、
犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、栄養失調、マラリア、赤痢などで体力を消耗し、退却途中に倒れたことである。
とくにチンドウィン川の川西方のカボウ谷地は日本兵の死体で埋め尽くされ、
「白骨街道」と呼ばれた。
「雨露を避けるために、樹間に天幕を張って、数名の兵が寝込んでいるので、様子を窺ってみると、その内の半数は既に息絶えて死んでいるのである。
後の半数は死んだ兵と肩を並べて生きているものの、既に歩む気力はもろろん、もの言う元気もなく、そのまま息絶えるのを待っているかのように見えるのである」
「死体はポツンと、ただ一体だけ横たわっているようなことはなく、
一体の死体があるところには数十の死体がつづいていた。」
雨期最盛期の、最も凄惨な敗走を強いられた部隊の記録は残っていない。
それは戦闘部隊のほとんどが死んでしまったからではないかと推測している。
「昭和二万日の全記録6」 講談社 平成2年発行
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