しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

御真影と空襲

2022年02月11日 | 昭和16年~19年
かつて日本では、人命よりも写真の方が、比較にならないほど大切な時代があった。

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空襲下の御真影(ごしんえい)・深柢国民学校

空襲下の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には市内中学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。

空襲時の悲壮な状況を、市の中心部にあって最も災害のひどかった深柢(しんけい)国民学校についてみる。
6月28日、空襲は熾烈になりつつあった。翌29日未明の空襲、数発の焼夷弾で全校舎は一瞬炎に包まれ、運動場も油脂の飛沫で一面火の海と化していた。
学校の御真影は当日の宿直員井上訓導がガッシリ背負った。
勅語謄本と持ちにくい市役所の御真影箱は小堀・近藤両訓導が交替で持つことにした。
防空壕からいっせいに飛び出して西門に走った。
西も東も燃えている。南だ、4人一丸になって駈けた。
前方の見通しがきかない。煙の中を眼をつむって駈けた。
防火用の水で喉をうるおした。前も横も焼夷弾が落ちている。
道路べりに腰を落としてすすり泣く娘、息絶えた老人にすがって泣く家族、幼児を抱いて避難する婦人。
ふっと家族を思った。空襲は止んだ。

「岡山県教育史 続編」


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引野国民学校
福山市「引野町誌」

これは「引野町誌」に長くその心根(こころね)を書き残さねばならぬと思われることがある。
高等科1年生であったF君とS君は警戒警報が発せられると学校へ向けて一目散に走り出していた。
いざという時のために御真影奉安殿の防護を命ぜられていたからである。
家から500mも駆けだしたところ突然閃光がして大地が照らしだされ、次の瞬間立ち昇る真紅の火焔、「宇山がやられたぞ」という間もなく「グワッ、ザーザー」という音がして無数の火焔が降り注いできた。
思わず身を伏せ、一瞬気を失ったがまた駆け出し、燃え上がっている無数の焼夷弾の火柱を見ながら学校を目指して走ったが、学校は既に火の海であった。
後日分かったことであるが、校舎から離れた場所にあった奉安殿は被災を免れ、御真影は4月4日に竹尋国民学校に疎開されていたという。



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岡山空襲と御真影

岡山空襲と「逃げるな火を消せ」
岡山空襲による被害があまりに大きかったことで、防空訓練ではB29の空襲を防ぎきれないことが実証された。
空襲の現実に即した防空対策が必要となり、
岡山市では1945年7月4日に竹内市長名で市民に具体策が示された。
1・家庭物資は必需品を残し市街地外へ移転せしめること。
2・各家庭防空要員(男女)は必ず居残り、老幼者はできるだけ市街地外へ転出すること。
3・防空用水は直ちに3倍に増量、バケツ何でも水を入れる物を用意すること。
4・各家庭で物入壕を至急に掘り、大火事となり施すに手段なき場合の必需品を入れて土を被せて置くこと。
5・町内会・隣組では防空監視哨をつくり、監視員を置き、敵機襲来の状況を正確に伝達し、避難誘導に務めること。
6・初期防火に敢闘、特にふきんに広場のある場合は徹底的に防火に務める尾こと。
また、
灯火管制を怠った者に対する警防団員や隣組員の注意は厳しくなり、警察官も目を光らせ一人の不心得者もいないように看視した。
暑くても薄着無用、
ゲートルは水兵式ものがよい、
防空頭巾に汗止めを、
飛行機から地上を眺めると白色のものが一番目にはいるので白い衣料は危ない。
白または白色に近い壁・屋根・土塀などは都市・山間部を問わず早急に対空迷彩を実施するよう呼びかけられた。

迷彩にはコールタールがよいが入手困難なので松根油採取時の廃澤・煤・松炭などを布海苔に混ぜて塗れば相当の効果があるとされた。
いれがない場合は泥土を塗り、絶対に小型機の目標にならないよう指示され、県下のすみずみまで迷彩が督励された。

軍部は焦土となった岡山市の道路を利用して本土決戦のため軍用機の発着場を計画した。
瓦町から大雲寺町に至る道路の北側を拡張して滑走路とし、
別に京橋を戦闘機の不時着陸場にする計画であった。
7月1日から突貫作業が行われた。
このとき、
京橋の南側の石の欄干は柱頭をもがれてしまった。

「岡山県史 近代ⅲ」


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戦艦大和・死闘約二時間

伊藤長官、有賀艦長、茂木航海長、花田掌航海長らが艦と運命をともにした。
第九分隊長服部大尉は、御真影を捧持(ほうじ)して私室に入り、
なかから鍵をかけて写真に殉じた

「太平洋全史」  亀井宏  講談社 2009年発行


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戦後の御真影
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「岡山県史」
終戦後、天皇の巡幸に関し
天皇の巡幸が小学校であれば、天皇到着以前に次の物を必ず撤去するよう通達が出た。
二宮金次郎像
和気清麻呂像
奉安殿
忠魂碑
御真影
原型をとどめないように撤去すること。


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「笠岡小学校百年誌」
 笠岡小学校編 昭和48年発行
昭和21年1月11日 御真影を地方事務所へ奉還

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「金光学園百年のあゆみ」
金光学園 
終戦直後の指令・金光中学校
1月12日、両陛下の御真影全部を奉還することになって、都窪浅口地方事務所へお移し申し上げた。

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海軍航空隊
福山市大門町「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行
8月15日重大放送あり、終戦となりたことのみ判明す。

松島飛行長は隊内にありし御真影、軍人勅諭其の他貴重な書類全部を、下堀宅内庭の西北すみにて焼棄せりしという。

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吉田村小学校沿革史
昭和21年1月1日 奉安殿御聖影奉還式。
昭和21年1月11日 御真影奉還
昭和21年6月1日 勅語謄本返却

奉安殿・御真影・忠霊塔・忠魂碑・二宮金次郎像・和気清麻呂などの胸像撤去も実に厳しく行われた。
撤去の程度は、置地の形跡を留めない状態になること。

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笠岡市史4巻
御真影は、
「昭和21年1月11日に城見国民学校他4校が御真影を地方事務所に奉還した」、
奉安殿では、
「笠岡女子国民学校が21年8月27日に奉安殿と学校神社、新山国民学校は21年10月10日撤去。」
教育勅語は
「笠岡東小が昭和23年8月24日返還」となっている。


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今日は「建国記念日」ではなくて、
「建国記念の日」
”の”の字がはいる。

昭和42年に制定されたが、当時は
紀元節の復活ということで、国会では保革の政党が争った。
しかし、
国民は賛成・反対でもなく、無関心派が多かったような記憶がする。
たぶん、学生もサラリーマンも”祝日=休日”が増えるので、内心喜んでいたのだろう。



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四大節のうちの「紀元節」

2022年02月11日 | 昭和16年~19年
義母の話
談・2022.2.6
(義母は昭和5年12月生まれ。後月郡芳井町にある分校と本校に通った。
分校には御真影も教育勅語もなかった、ようだ)

紀元節の日は、分校でなく本校に行っていた。
3時間かけて(遊びながら儀式が始まる時間までに)本校に行っていた。
その日は1時間くらいで終わり、終わるとすぐ家に帰っていた。

問・昭和21年の紀元節はあったのだろうか?
学校に行っとる間は、紀元節はあったような気がする。

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父母の話
談・2000.6.10

父・教育勅語は式典の日に全員で読んでいた。
母・読むんじゃあのうて、覚えささらりょうた。

(これは学校の違いでなく、父と母のちょとした時代差だと思える)


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「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

式のために登校した四大節

元旦・紀元節・天長節・明治節が四大節。
国民全員が仕事を休んで祝意を表す日だった。


各学校は登校して祝賀の式をあげ、これを祝った。
授業はなく午前中に帰宅したが、家は祝日とは関係なく、いつもの農作業が待っていた。

式は10時ごろから始まるので、こういう日はたっぷり遊んでから集団登校した。
四大節には共通した式次第があった。
「君が代」の国歌はなぜか必ず二回つづけて斉唱。
御真影の奉拝、
勅語の奉読、
の三つとも厳かに行なわれた。

式場には正面には臨時の仮御殿が設けられ、
奉安殿から移した御真影が安置してあった。
両陛下の写真は、拝礼の間は扉が開いていたので、薄絹のベールを通して拝むことができた。
勅語の奉読が終わり、みんなやれやれの気持ちでほっと息つく間もなく、
校長の長い長い話が始まる。

紀元節

一年でも最も寒さの厳しい頃であった。
校長から神武天皇の話を聞いた。
こういう話は種が一つだから、毎年同じ話の繰り返しになり、
そのうえ話下手ときたからちっとも面白くはなかった、
天皇の日本建国については、大いなる誇りをもつようになった。
天皇の東征についても、本当にあった話として受けとめた。






教育勅語




「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

学校では校長以下全員が、この勅語の扱いについては丁重を極めた。
子ども個人は、その内容を考えるようなことはなく、感動もなければ疑問も感じなかった。ただすらすらと暗誦できることの方が先決だった。

フロックコートに身を正した校長が壇上にすすむと、
タイミングよく次席が白手袋の略礼装で,勅語の納まった白桐の細長い箱を、
うやうやしく三宝にのせて式場にはいってきて、校長の前の卓上に静かに置いて退く。
校長はこれに最敬礼し、やおら桐箱のなかから白絹に包まれた勅語の謄本を取り出し、
会場に向かって捧げ持つと「最敬礼」との号令がかかり、参加者一同が最敬礼でかしこまる。

奉読の間,咳一つするにも気がひけたが、青はな垂らしの子供たちが、いちばん苦手とするのがこの時で、
垂れ下がる鼻水を吸い上げる音がだんだん激しくなるころ「ギョメイギョジ」で奉読が終わる。

勅語を無事読み上げた校長は、緊張から解放された安堵の表情に変わり、白絹を巻く手元のふるえはもうなかった。
勅語の奉読については、どこの校長も独特のくせ節回しに近いものを持っていて、
いともおごそかに恰好をつけて奉読していたが、万一、
公式の場で読み違えるようなことがあったら、それはもう確実に進退伺いの必要があった。



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「福山市史・下巻」

学校行事の変化

昭和初年までの学校行事は、
入学・卒業式のほか祝祭日・諸記念日(陸海軍記念日など)などが中心であったが、
その後漸次軍国主義的傾向が強まり、柳条溝事件前後からは戦時色あふれる行事がふえている。
まず昭和4年には、
紀元節が第一回の建国祭として祝われ、いままで以上の意味をもたされることになり、
「八紘一宇」のスローガンのもと盛大な祝典が挙げられ、軍国主義教育の出発点となった。
翌5年には教育勅語渙発40年記念式が行われ、
昭和6年には新しい「御真影」が下賜され、各学校でその奉戴式がいっせいに挙行された。
それにともなって、奉安殿の新・改築や国旗掲揚台の新設が行われた学校も少なくない。
いずれも軍国主義教育のシンボルとされたが、
とりわけ「御真影」は重視され、校舎や学籍簿、さらには教員・生徒の命よりも大切に扱われた。

昭和20年の空襲で「奉安殿と渡廊下を残して全焼した」深津国民学校では、
「奉安殿に保管中の教育勅語詔書類は宿直教官の護衛により安全に待避された」と特筆されている。


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