しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「沈没」で死ぬ ~戦場の死~

2022年02月09日 | 昭和16年~19年
「海没」死とは、艦船の沈没による死者のことをいう。
とくに、徴用した貨物船を改装した輸送船の場合、
対空・対潜装備をほとんど欠いていたことに加え、
船倉を改造した狭い居住空間に多数の兵士を文字通り押し込めていたため、
雷撃などを受けて沈没する際には、一度に多数の犠牲者を出すことになった。
海陸軍、軍属の総計358.000名にも達しているという。


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ドイツのUボートの脅威にイギリスやアメリカは護衛空母を建造し,Uボートの活動を封じ込めることに成功した。
「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館 2007年発行


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ダンピール海峡の悲劇

日本軍は東部ニューギニアに増援部隊を派遣し防御要地として固めることにした。
昭和18年3月3日、第5師団の輸送船が米豪軍機120機の襲撃を受けて全滅するという、「ダンピール海峡の悲劇」が起こった。
事態が緊迫するなか、山本五十六連合艦隊司令長官は自らラバウルに向かい、作戦指導することにした。
4月18日、山本はブーゲンビル視察に赴くが、米軍の待ち伏せで撃墜された。

米軍の「蛙飛び作戦」
米軍は、制圧した飛行場からの飛行機進出距離いっぱいの場所に次の狙いを定めて制空権を奪い、また次に進む。
その途中飛び越した日本軍の部隊はいちいち制圧する手間を省き、補給を絶って放置しておいたのである。

日本軍がニューギニアに投入した兵力は16万とも18万ともいわれるが、
その9割が死亡するという悲惨な戦場になった。
日本はここで国力を使い果たし、以後の戦いではなすすべもなく敗れていく。



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「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行

昭和20年9月4日、時の東久邇宮稔彦首相は、
敗戦の最大原因は、船舶が極度に損耗したこと、と要約し述べている。
日本が船舶の護衛(シーレーンの保護)を軽視していたことは、現在では定説になっている。
いわゆる総力戦に対する認識が浅くて、戦争とは出先のチャンバラ(艦隊決戦)で決着がつくものだと思い込んでいた。

米軍は、海上交通網の破壊こそが、日本屈服の有効な手段であると確信した。  


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ねずみ輸送(米軍名・トーキョーエクスプレス)

一木支隊の先遣隊が全滅後、日本軍の兵士の輸送や物資の補給は著しく難易度が上る。
日本軍が船で島に近づこうとしても、島から半径280kmが敵機の行動範囲内になっている
輸送船が島に着く前に沈められてしまう。
海軍の面々は頭をひねった。それが、「ねずみ輸送」だ。
闇夜に、人に気づかれることなく、素早く動き回るねずみのごとき輸送方法。
軍艦のなかで最もスピードのある駆逐艦を使って秘密裏に輸送を行おうというのだ。

8月24日朝、第一回のねずみ輸送が行われた。
駆逐艦4隻、日本海軍の拠点だったトラック島を出発した。
ところが、なんと初回でつまずいてしまう。
アメリカ海兵隊の艦上爆撃機に発見され、28日午後およそ20機から猛攻を受ける。
兵士、砲、弾薬が海の底へ沈み、完全な失敗に終わった。

「ガダルカナル悲劇の指揮官」 NHK取材班 NHK出版  2020年発行


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昭和18年6月ごろから米軍は新型の電池式魚雷を採用しはじめた。
この効果はたたちに現われた。
民間商船、陸海軍の喪失量が急増した。
タンカーの喪失で石油が激減、国力の崩壊は時間の問題といえた。

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海上護衛総司令部

海上交通の護衛と対潜水艦作戦を統括指揮する司令部。
昭和18年11月15日設置。司令長官は及川古志郎大将。
米軍の攻撃によって喪失する船舶は急増の一途をたどり、
資源輸送に大きな支障をきたした。
これに対処するため設置されたが、
配属された艦船はわずか30数隻に過ぎず、
増え続ける米潜水艦の攻撃の前では、全くその任を果たせなかった。

「昭和二万日の全記録6」  講談社 平成2年発行


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名投手沢村の戦死

昭和19年12月2日、日本プロ野球史上最高の快速球投手といわれた元巨人軍の沢村栄治が、応召で南方へ向かう途中、
米軍の潜水艦による攻撃を受け、輸送船もろとも東シナ海の海中に沈んだ。
27歳だった。
沢村は二度の応召で肩を痛め、マラリアの発病にも悩まされた。
昭和19年三度目の応召を受け戦死したのである。

「昭和二万日の全記録6」  講談社 平成2年発行




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対馬丸事件
(Wikipedia)

事件に至るまで
1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いが終結し、
これを受けて政府は、沖縄県知事宛てて『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ』との命令を通達した。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となった。


8月21日18時35分、対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛を受けて長崎へ向けて那覇を出港する。
対馬丸には民間人および那覇国民学校の児童と介添者を合わせた1,661名、上海から転送中の乾繭1,775梱とゴマ1,000梱を乗せていた。
また、当時の乗組員は86名であった。他の2隻も疎開者を乗せていた。
8月22日、22時10分米軍潜水艦から魚雷を受ける。
西沢船長は「総員退船」を令し、脱出した者の中にも舷側が高すぎたため、恐怖から海に飛び降りることができなかった者が大勢いた。

暁空丸、和浦丸と護衛の蓮、宇治は全速力で姿を消していった。
犠牲者の遺体の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いたため、現地には慰霊碑が建立されている。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、漁船に救出された。最も長い人は10日間の漂流を強いられた。
最終的に乗員・乗客合わせて1,484名が死亡した。一方で、生き残った児童はわずかに59名だった。

事件前後から終戦まで
対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。


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コメント (1)
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