西条柿で有名な、広島県西条町(現・東広島市)出身のO君が同じ下宿にいた。
ある秋の日に、帰省した西条からお米を持って帰ってきた。
「焚いて食べよう」と言ったが3畳の部屋にあるのはニクロム線の電熱器だけだった。
彼は、たまにお湯を沸かしたり、即席ラーメンを作っていた。
下宿の同級生3人で食べることになったが、おかずもない。
それで、30円の漬物を一袋買った。
ご飯は、電熱器で炊くので時間がかかった。
やっとご飯は焚けた、電熱器で炊いたご飯は初めてだった。
茶碗についでご飯を食べた。
それは、かつて経験したことのない、おいしいおコメだった。
おかずは漬物だけだったが、それで十分で、
いいおかずがあると、おコメのおいしさが隠れると思った。
とにかく、おいしいおコメだった。
あまりの美味さに感激したわれわれに、彼は気をよくしたのか、翌週にまた西条の実家に行って、帰ってきた。
こんどは、マツタケを籠いっぱいに持って帰った。
当時でさえ、カンナで削ったような薄いマツタケしか食べることはなかったが、
こういう豪快な量といい、大きさといい、形といい、匂い・香り、すべが揃った、
イヤ、揃い過ぎたマツタケは驚きしかなかった。
そのマツタケも同じ下宿の3人で焼いて、ふーふー、いいながら何日間か食べた。
一切れの大きさは、言うまでもなかった。
西条のおコメがおいしことを、食べて、とことん知った私は、
以後、晩酌のお酒は「西条の酒」と決めた
それから数十年間、日本酒はずっと「広島の酒」を飲んでいる。
父の世代(大正)は酒と言えば、日本酒。
祖父の世代(明治)は酒と言えば、日本酒と焼酎。
祖父は無類の酒好きだったが、100年の生涯は焼酎いっぽん。毎晩晩酌をしていたので、(安酒の)焼酎以外ムリ。
ついでながら祖父はタバコも大好きだった、93才まで刻みタバコの”ききょう”を吸っていた。老齢で家族から無理やり禁煙となった。
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母は”女の一生”の時代背景があり、酒を飲むことはなかった。
しかし私が帰省した時は、まっさきに熱燗をして迎えてくれた。
その時、母は熱さ加減を確認するかのように一口お酒を口に入れた。
それを横目で見ながら、母は本当はお酒が好きに違いないと思っていた。
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(父の話)
酒
ビールは飲みょうらんかった。
”酒”と言えば焼酎と酒じゃ。
青年団がビールを飲み始めた。
若い人が飲みょうただけで、年よりは酒じゃ。
談・2000・12.24
昭和37年実家で、新築祝いを一晩つづけた際も、ビールを見た記憶は無い。
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初めて「酒」を飲んだ記憶というのは何時頃だったか?
兵隊へ行く前じゃったのう。
検査が済んで当選して、その時(祝いの)酒をぼっこうのんだ。
それから飲むようになった。それまでは(あまり)飲むようなことはなかった。
談・2002年9月15日
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(戦後は酒が無いので)
配給じゃあ、足らなんだ。
それじゃけいのう、弟方へ行ってアルコールをもらようた。
ウチにゃぁ、薬局があったけいのう。(福山の実弟が薬局)
死んだおじいさんは好きじゃったけいのう。
それじゃけい、アルコールをもろおて、それを薄めて飲みょうた。
(終戦後ものが無い時は)メチールゆんは飲みょうたけど、工業用のエチールゆんがあったんじゃ。
そりょお飲んで死んだもんもおる。
(海軍飛行場跡地=現・JFE西日本福山製鉄所 2019.5.12)
ココは野々浜の飛行場があるところに、朝鮮人がおって、せいらが焼酎をつくりょうた。そりょを買いに行ったことがある。
朝鮮焼酎ようた。
ちょっと臭ぃけど。
好きなものはそいつを買おてもどりょうた。臭え。
芋焼酎ようた。
談・2000・10・8
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酒を飲む
酒を飲むのは。
田植えの済んだ後とか。
収穫の秋とか。
春と、秋と・・・年3ぺんくらいかのぅ。
金を出して飲むんじゃけいのう。(お金をだすほど余裕はないという意味か?)
談・2002・9・23
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焼酎は一斗樽で
為乗からウチの爺ちゃん(作者の祖父・酒が好きだった)は一斗樽でもってきょうた。
一斗じゃ多いかろう。それじゃけい、
夜燈の亀さん、定一っつぁん方、・・三人で、三つに分きょうた。
入れ物を持って来て、それでウチのお爺さんがキレイに分きょうた。
談・2001年7月23日
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清酒
正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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