場所・福岡県朝倉郡筑前町高田・三井郡大刀洗町 筑前町立「大刀洗平和記念館」
訪問日・2016年2月15日
大刀洗は東洋一の飛行場といわれた時代があったが、戦後は、その多くが民有地化され
飛行場の跡形は点在するにすぎない。
こちらは「第五航空教育隊正門」、
これより前にある「大刀洗平和記念館」に入館する。
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記念館の最大の売り物は”ゼロ戦”。
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「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行
大刀洗飛行場跡
最大規模を誇った陸軍航空隊の一大拠点
大刀洗飛行場は大正8年(1919)10月に完成、
中国大陸へ向かう飛行隊の中継基地としての役割が期待された。
大正14年には聯隊に昇格した。
以後、数多くの飛行機が立ちより、ここから中国大陸で起こった数々の事変に出撃していった。
昭和に入ると、偵察機に加えて戦闘機も配置され、昭和12年1月には九州関係飛行集団の司令部が設置された。
同年、太刀洗航空機製作所、大刀洗航空支廠発足。
昭和14年、日本最大規模の第五航空教育隊が開隊し、飛行養成所の色彩も濃くなった。
太平洋戦争が進展するにつれ、将兵や軍属のほか、修理・部品製造などに従事した女子挺身隊や動員学徒をあわせて、
1万人あまりが常駐する大所帯となっていった。
大刀洗憲兵分遣隊跡のレンガ塀。
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慰霊塔左の白い塔は「慰霊塔」その場所は「時計台跡」、
時計台は陸軍当時は隊員のランドマークだったそうだ。
右は「西日本航空発祥地」、初めは軍でなく、民間の飛行場だった。
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陸軍飛行第四連隊の門跡、後に陸軍飛行学校の門になった。
昭和14年には日本最大の航空教育隊である第五航空教育隊が開隊し、帝国陸軍の重要拠点となった。
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監的壕、軍用機の射撃訓練の着弾を観測する。
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「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
陸軍大刀洗飛行場跡
点在する東洋一といわれた航空隊の遺構
旧陸軍大刀洗飛行場は、1919年(大正8)、当時の大刀洗村、三輪村、馬田村にまたがって、その広大な平野部の地形と気流の安定していることが着目され、
陸軍飛行第四大隊として開隊した。
当初は偵察が主な任務で、久留米第12師団の歩行部の支援を行った。
1925年には台湾飛行第8聯隊も駐屯し、定員1.500名の日本最大の飛行聯隊基地となった。
1937年の盧溝橋事件を契機に中国大陸への全面侵略の火ぶたを切った日中戦争では97式戦闘機が使用され、皇民化政策の一環として朝鮮人航空兵による初飛行も行われた。
1939年には、第5航空教育隊が開隊し、日本最大の航空教育隊となった。
15年年戦争末期には、全2.571機による菊水作戦と称した沖縄決戦の特別攻撃隊が編成され、
知覧、鹿屋、新田原などを中継基地として、多くの特攻隊員がアメリカ艦隊に体当たりして非業の死を余儀なくされた。
東洋一の航空機の補給基地となった大刀洗飛行隊に対する二度にわたる爆撃は激烈を極めた。
合わせて180機のB29による空爆により兵隊や住民が犠牲になった。
大刀洗飛行隊跡には遺跡・遺構が風化に耐えて散在する。
その数は30か所を超える。
東洋一の飛行場跡は広大で、
大刀洗飛行隊跡には遺跡・遺構が風化に耐えて散在する。
その数は30か所を超える。
30か所を巡るにはバイクの他に事前の十分な下調べが必要だ、そう思うほど広い。
・・・・
甘木線・大刀洗駅(写真・左)
駅舎の右、飛行機が空を飛ぶように展示した民間の記念館。
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甘木線は大刀洗飛行場の軍用線として敷設された。
今はカラフルな色の車両が運行されている。
訪問日・2016年2月15日
大刀洗は東洋一の飛行場といわれた時代があったが、戦後は、その多くが民有地化され
飛行場の跡形は点在するにすぎない。
こちらは「第五航空教育隊正門」、
これより前にある「大刀洗平和記念館」に入館する。
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記念館の最大の売り物は”ゼロ戦”。
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「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行
大刀洗飛行場跡
最大規模を誇った陸軍航空隊の一大拠点
大刀洗飛行場は大正8年(1919)10月に完成、
中国大陸へ向かう飛行隊の中継基地としての役割が期待された。
大正14年には聯隊に昇格した。
以後、数多くの飛行機が立ちより、ここから中国大陸で起こった数々の事変に出撃していった。
昭和に入ると、偵察機に加えて戦闘機も配置され、昭和12年1月には九州関係飛行集団の司令部が設置された。
同年、太刀洗航空機製作所、大刀洗航空支廠発足。
昭和14年、日本最大規模の第五航空教育隊が開隊し、飛行養成所の色彩も濃くなった。
太平洋戦争が進展するにつれ、将兵や軍属のほか、修理・部品製造などに従事した女子挺身隊や動員学徒をあわせて、
1万人あまりが常駐する大所帯となっていった。
大刀洗憲兵分遣隊跡のレンガ塀。
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慰霊塔左の白い塔は「慰霊塔」その場所は「時計台跡」、
時計台は陸軍当時は隊員のランドマークだったそうだ。
右は「西日本航空発祥地」、初めは軍でなく、民間の飛行場だった。
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陸軍飛行第四連隊の門跡、後に陸軍飛行学校の門になった。
昭和14年には日本最大の航空教育隊である第五航空教育隊が開隊し、帝国陸軍の重要拠点となった。
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監的壕、軍用機の射撃訓練の着弾を観測する。
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「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
陸軍大刀洗飛行場跡
点在する東洋一といわれた航空隊の遺構
旧陸軍大刀洗飛行場は、1919年(大正8)、当時の大刀洗村、三輪村、馬田村にまたがって、その広大な平野部の地形と気流の安定していることが着目され、
陸軍飛行第四大隊として開隊した。
当初は偵察が主な任務で、久留米第12師団の歩行部の支援を行った。
1925年には台湾飛行第8聯隊も駐屯し、定員1.500名の日本最大の飛行聯隊基地となった。
1937年の盧溝橋事件を契機に中国大陸への全面侵略の火ぶたを切った日中戦争では97式戦闘機が使用され、皇民化政策の一環として朝鮮人航空兵による初飛行も行われた。
1939年には、第5航空教育隊が開隊し、日本最大の航空教育隊となった。
15年年戦争末期には、全2.571機による菊水作戦と称した沖縄決戦の特別攻撃隊が編成され、
知覧、鹿屋、新田原などを中継基地として、多くの特攻隊員がアメリカ艦隊に体当たりして非業の死を余儀なくされた。
東洋一の航空機の補給基地となった大刀洗飛行隊に対する二度にわたる爆撃は激烈を極めた。
合わせて180機のB29による空爆により兵隊や住民が犠牲になった。
大刀洗飛行隊跡には遺跡・遺構が風化に耐えて散在する。
その数は30か所を超える。
東洋一の飛行場跡は広大で、
大刀洗飛行隊跡には遺跡・遺構が風化に耐えて散在する。
その数は30か所を超える。
30か所を巡るにはバイクの他に事前の十分な下調べが必要だ、そう思うほど広い。
・・・・
甘木線・大刀洗駅(写真・左)
駅舎の右、飛行機が空を飛ぶように展示した民間の記念館。
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甘木線は大刀洗飛行場の軍用線として敷設された。
今はカラフルな色の車両が運行されている。
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