しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

呉要塞・高烏砲台

2021年04月29日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市警固屋8丁目 高烏台
訪問日・2021年年4月26日  



対象はロシア艦船と思えるが、軍都・広島と東洋一の軍港呉を敵艦から守るため、
出入り口の関門海峡と豊予水道に要塞を造り、さらに周辺の広島湾や呉湾にも要塞を構えた。
大正時代には無用となり廃止されたが、一部要塞は太平洋戦争で高射砲基地として復活した。


高烏砲台跡は戦時中復活したが、敵機に対する戦果はなかったのだろう。




(高烏砲台跡)




高烏砲台跡
(現地案内板)

明治19年(1886)、呉港に鎮守府設置が決まり、陸軍は広島湾と呉軍港を敵艦から守るため、
明治29年(1896)~36年(1903)にかけて周囲の島や山などに呉要塞(のち広島湾要塞)を建設しました。

山頂に八咫烏神社がある高烏山にちなんだ高烏台にも明治35年に砲台が完成しました。
高烏砲台は広湾から呉湾に進入しようとする敵艦を攻撃するためのものでした。

高烏砲台は実戦に使われることはなく、その後も沈黙したまま大正15年(1926)に廃止されました。
その後、
高烏砲台は海軍に引き継がれ、昭和期に入って高角砲設置されました。

戦後は廃墟となっていましたが、昭和36年に、この一帯は音戸の瀬戸公園として整備されています。






(兵舎跡)




旧高烏砲台 兵舎
(現地案内板)

この建物は、明治29年から陸軍が呉(広島湾)の防護のため砲台を整備した際、
高烏砲台の兵舎として建てられた建物です。
高烏砲台は、軍港として軍事的に重要な施設でもあったので、後に海軍に移管されました。
昭和20年8月の終戦後、兵舎は興廃しましたが外壁は現在も残存しています。
兵舎を含む高烏台砲台に使われている石は、
建物の位置から南西側の公園内の斜面から産出された花崗斑岩であることがわかっています。
この兵舎についての記録は残されておらず、
詳細は不明ですが、明治時代の石造建物としての形態を残しています。





(兵舎跡・手前の海が呉湾、奥が広島湾)



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