しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

(昭和20年)八月十五日「負けたら殺される」

2021年08月15日 | 昭和20年(戦後)
祖母が亡くなるまで、家には天皇・皇后の写真を掲げてあった。
戦前に購入したご真影だが一時(終戦直後)は、どこかに隠していたそうだ。アメリカ軍に持っているのを見つけられたら、「何をされるかわからん」と心配していたようだ。

父は岡山の軍にいたが、仕事で近くの県庁(当時は天神山)に行くことが多く、
8月になると、県庁の人から「負けるよ」と教えてもらっていて玉音放送の内容は事前に知ってした。

作家・五木寛之さんが書いている、終戦前に政府・軍人の高官が、市民に知らせることなく自分たちだけ逃げたのは日本人として情けない。
満州でも、同じように市民から脱出するマニュアルがあるにも関わらず、現実は「最後に逃げる人」が「最初に逃げた、しかもこっそり」と。
今でも国家のエライ人の言うことを、どこまで信じていいのか、よくわからない。





(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)


「美星町史」 美星町史編集委員会 山陽印刷  昭和51年発行

終戦の時
国民の生活は日増しに苦しくなり、疲労と飢えにあえぎながらも「負けたら一人残らず殺される」という宣伝がされて一段と緊張を増した。
山野で働いているものも田畑を耕作しているものも、戦場のようなすさまじい音を耳にすることがあり、夜は遠くの空が真っ赤に染まり、どこかが焼けていることを感じた。
ついに昭和20年8月15日をむかえた。
丁度その日、私どもの周囲に「降伏せよ」と印刷したビラが飛んできた。
母が「戦争が終わったら電灯が点けられるかなあ」といった。
外へは出せない悲しみの一つ、それは妊婦の苦しみであった。
妊産婦は栄養もとれず、特に動物蛋白源は何一つなく、煮干しさえ一週間に一度、食べるか食べないかの生活、胎児の順調な発育等は望むすべもない。



・・・・

「勝央町史」 勝央町  山陽印刷 昭和59年発行

戦後の混乱
やがて進駐してくる外国軍隊についての恐怖心は相当なものであったようだ。
「男子はキンを抜かれる。娘は慰安婦に供出させられる」などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。
また「戦争に関係ある書類は焼却せよ」という上からの指令があって関係のない書類まで焼き捨てた役所や学校も多く、これが戦時中の記録をなくした大きな原因になった。



・・・・

「奥津町史 下巻」 奥津町 平成17年発行

敗戦

正午の時報に続いて和田信賢放送員がマイクに向かい、
「ただいまより重大なる放送があります。
全国聴取者の皆様、ご起立願います」
続いて下村宏情報局総裁がマイクに向かい
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくもおんみずから大詔を宣(の)らせたもうことになりました。
これより、謹みて玉音をお送り申します」。
詔書は次のとおりである。
  朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ(以下略)

当時国民学校4年生の少年は、玉音放送の内容は解らなかったが、
大人たちは一様に虚脱状態で「ついに敗れた」と教えてくれた。いち早く母に知らせたら「やれやれ、これで安心できる」と一言つぶやいた。
墨汁で塗りつぶした教科書を用いて5年生になった。


・・・・


(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)

「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

玉音放送を聴く
当時・ピョンヤン一中学校の1年生。

敗戦の直前には、四十を過ぎた父親までが「教育召集」といって、召集されたのにはびっくりしました。
兵隊に行くのは若い人たちばかりだと思っていたら、いい年をした学校教師まで引っ張りだされたのですから。
それでも一般の国民は「神風」を信じていたのです
漠然と信じていたんです。
「神州不滅」と子どものときからたたき込まれていましたから、この国が負けるなんて絶対あり得ないと思っていました。
8月15日に「今日は大事な放送があるから」と、学校の先生に言われて、校庭に集合したときは、
まさか日本が敗れるなどということは想像もしていませんでした。
それが玉音放送だったのです。
校庭に全員集合して、ラジオから流れる雑音の混じった放送を聞きました。
あ、これでもう苦しい作業はしなくていいんだ。
何か長い夏休みが始まるような、開放感のような、空しさのような、ポカンとした空白感がありました。
そしてこの後、何が来るのかまったく予想もつかない不思議な感じでした。
父は「神州不滅」を信じていた教師でしたが、本当に茫然自失で、
どう判断していいのかわからずに立ちすくんでいました。


ところが戦局の情報を把握していた人は事前からうまく対応していたようです。
敗戦の時にはすでに、
軍部の上層部の家族や、財閥、高級官僚の家族は、山のように家財道具を積んで、ピョンヤンから南下していたようです。
上の人たちは、列車が動いている間にソウルへ、内地へ向かっていたのです。

やがて朝鮮人たちの民主組織などが、どんどん活発になってゆき、身の危険を感じるような雰囲気でした。
軍歌がまったく聞かれなくなったのは、やはり驚くべき変化でした。



(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)

・・・・


「革新と戦争の時代」  井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行 

15日正午、ラジオから玉音放送が流れた。
次いで、
同夜のラジオと16日の新聞各紙で終戦に関する内閣告論が発表された。

軍人・軍属を中心に終戦に、抗議・絶望、あるいは敗戦責任を負っての自決が相次ぎ、
その数は軍人・軍属だけで600名を超えた。

大本営は16日午後4時、全部隊に対して停戦命令を発した。
停戦は、おおむね滞りなく実施されたが、ソ連軍の侵攻が続いた満州・樺太ではなお一週間も戦闘が続いた。

無条件降伏が正式に布告されたのは9月2日のことである。

8月15日午後、鈴木内閣は敗戦責任をとって総辞職した。
木戸内大臣は平沼と協議の上、皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を後継首班として、近衛文麿に後援を求めることにした。
16日、東久邇宮に天皇の組閣命令が下った。




(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)




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「露営の歌」~死んで還れと励まされ

2021年08月15日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
笠岡市西本町のの古刹・威徳寺に生まれた音楽評論家長田暁二さんは、”露営の歌”は
「軍国歌謡の最大傑作の一つと称された」と記述されている。

管理人が幼いころ、戦争は終わっていたが、近所の年上の男の子は「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら遊んでいた。
よほど大ヒットし、国民の愛唱歌となっていたのだろう。

映画やテレビでも、村の神社や駅や港での出征兵士を送るシーンでは、決まったようにこの歌が画面に流れる。





「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。

露営の歌


提灯行列も旗行列も、子どもにとっては、お祭りに似た面白い行事だった。
出征兵士は神社で武運長久を祈ってから、駅で電車に乗る。
この時、
駅頭で決まって歌われるのが、『露営の歌』だった。


勝ってくるぞと勇ましく・・

勇壮というよりは悲壮だ。
二番以下の歌詞になると,歌詞そのものにも悲壮感がみなぎってくる。
そのためかどうか、一番の歌詞のみ繰り返し歌っていた。 

ちなみに四番と五番は、

思えば今日の戦いに

戦する身は予てから

一緒によく歌ったもう一つの軍歌は、
『日本陸軍』

天に代わりて不義を討つ 

出征兵士の見送りに小学生がぞろぞろついていくことは、特別な時以外、次第に見られなくなった。
特別な、というのはその小学校の先生の応召の場合である。
つまり、それだけ出征は日常的になってきていた。
普通の出生は、家族と近所の人たちの見送りだけで、あとは、
かっぽう着にたすきをかけた国防婦人会の人たちが、線路際に並んで、日の丸の小旗を振る程度になった。
電車はあっという間に走りすぎてしまう。
出征兵士が、普通の乗客と同じ電車に乗っていくことが、子どもの私には不思議でならなかった。






「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

露営の歌

支那事変は、
「暴戻支那の膺懲」が合言葉であった。
連日新聞の紙面は戦争記事で埋められ、”暴支膺懲(ぼうしようちょう”の強硬論で統一された。
新聞の戦争支持ぶりは熱狂的であった。

支那事変から大東亜戦争の間に、最も愛唱されたのが「露営の歌」。
歌詞は一番から終番まですべてに「死」の影が揺曳していた。

露営の歌  作詞:薮内喜一郎  作曲:古関裕而


勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える
果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜
馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草まくら
夢に出てきた 父上に
死んで還(かえ)れと 励まされ
醒(さ)めて睨むは 敵の空

思えば今日の 戦闘(たたかい)に
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

戦(いくさ)する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
ないてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんの命が 惜しかろか


東京日日新聞の「進軍の歌」懸賞募集の第2席の詞について選者の一人北原白秋が、
「優れている、もし曲がつくなら」と発表された。

満州から帰途の船内で古関裕而は依頼の電報を受けた。
山陽線の各駅ですでに見られた光景で、武運長久の旗をなびかせたり、日の丸の旗をふるリズムの中で、
ごく自然に作曲してしまった。
十五年戦争下の最高の傑作とされる「露営の歌」は、発売二か月後、前線の兵士が合唱する風景が夕刊に報道された。




(岡山駅)



「千田学区地域誌」 福山市千田学区町内会  2008年発行

召集と出征
体験・男性 大正15年生れ

 
突然、赤紙が届きました。
入隊に際しては、町内の人々や婦人会の方々など大勢の見送りで、壮行会をして頂き、私は次ような挨拶をしたのを思い出します。
「男子の本懐、これにすぐるものはございません。
入営した暁には、一意専心、軍務に勉励し、皆さまの万分の一にも報いる覚悟でございます。
皆さま方におかれましても、銃後の守り、よろしくお願いします。
”今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出立つ吾は”
では、行って参ります。」
昭和20年初め、19歳で大坂の聯隊に入営する前日、日の丸の旗を振りながら、
福山駅まで坂田の方の見送りを受けました。

私は家族と隣人たちに「武運長久」の寄せ書きをしてもらった日の丸の旗を肩にかけて出発しました。
福山駅では、出征する仲間が多くいて、日の丸の旗がうちふられ、
「天に代わりて不義を討つ忠勇無双の我が兵は・・・」
「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国をでたからにゃ 手柄たてずに死なりょうか・・・」
の大合唱。
大勢の見送りを受けました。
ぼくの姿を見つめていた母の姿が思い出されます。
息子を戦場へ送る母が、人前で泣くのは許されなかった時代でした。






「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

露営の歌

日支事変が勃発すると各新聞社等のマスコミは挙って,沢山の時局歌・愛国歌を募集選定した。
「露営の歌」は毎日新聞の公募入選2位の作品。
北原白秋が「2席に上手く曲が付けば第二の「戦友」になるとコメントしていた。
古関裕而が作曲、
コロンビアの第一線男性歌手を総動員、中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章が歌唱、大衆は飛びつき発売後半年で60万枚を売るレコード界の新記録を作る大ヒットになった。
軍国歌謡の最大傑作の一つと称された。
「死んで帰れと励まされ」の文句に人気が出て仕舞ったのである。


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「湖畔の宿」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
動画サイトの「湖畔の宿」では、50代の高峰三枝子が歌う前に、
本人が、次のように曲を紹介している。

特攻隊慰問に唄った歌
「日の丸の鉢巻きをきりりと結んだ特攻隊員が、こぶしをぎゅっと握り締めて、一生懸命に私の湖畔の宿を聴いてくださいましたかたがた、今でも目にちらついております。
夜明けともに飛び立っていってしまう、二度と還ることのできないかたがた。
「湖畔の宿」は、戦争のつらい思い出とむすびついて、私の心から離れることはありません。」




東条首相「湖畔の宿」を所望

昭和18年に入って相次ぐ悲報に、国民の気持ちは沈む一方だった。
だが日本が米・英・蘭などと開戦した理由は、欧米各国からアジア解放であったから、
なんとか隠蔽しなくてはならなかった。
5月31日の御前会議で、占領下のインドネシアやマレー半島は日本領土に編入され、ビルマとフィリピンに「独立」政府がつくられ、
さらにインド仮政府も結成された。

そして11月5,6日には、これら諸政府代表を東京へ招いて、大東亜会議なるものを開催したのだった。
東条英機首相の晴れの舞台であった。
実はこの時、東条は遠来の客を歓迎する晩餐会に、女優高峰三枝子を招いて、「湖畔の宿」を歌わせたのだという。

孫の東条由布子さんの『祖父東条英機』の中に、次のように書かれている。

祖父は高峰三枝子さんの歌が大好きで、タイの首相の歓迎晩餐会でも高峰さんは「湖畔の宿」を歌った。

高峰三枝子の自伝を読むと、
「湖畔の宿」を所望したのはビルマのバーモウ長官だったと述べている。
退廃的につき発禁を喰った軟弱な「湖畔の宿」を歌った経緯は↓

東京は空襲にさらされる日々が多くなりました。
ちょうどその頃のことですが、大東亜省からの電話で
「東条閣下が、ぜひ「湖畔の宿」を聞きたいとのこと・・」と連絡がはいりました。
湖畔の宿がビルマですごく流行していて、日本の兵隊さんが愛唱しているこの歌を、長官がぜひ聴きたいと東条首相に懇望されたのだそうです。
あの歌はお国の指示で発禁になったはずなのに、それを国の首相から唄ってほしいと言われたのは本当に驚きました。

由緒ある料亭に招かれて行ったが、灯火管制課、部屋は黒布を張りめぐらされていたという。

電灯はついていましたが、人の顔がかすかに見える程度の明かりです。
東条首相のにこにこ顔と、頭にターバンを巻いたバーモウ長官がうつりました。
そこで灰田勝彦さんのギター伴奏で、「湖畔の宿」「純情二重奏」「南の花嫁さん」の三曲を歌いました。
唄い終わって家に帰る時にいただいたお土産は、もう私たちの手に入らなくなったお砂糖やチョコレート、お米などで、
そのありがたかったこと。

「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行






「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行
湖畔の宿

昭和15年のヒット曲に、有名な高峰三枝子さんの『湖畔の宿』があります。
戦意高揚でアドレナリンがどんどん分泌していくような時代に、こういうさびしい、
センチメンタルな歌が大衆の間で支持されたことがおもしろいと思います。
また、軍部や当時の支配層が、こうゆう歌を頭から「そんなのはだめだ。もっと元気な歌にしろ」と弾圧しなかったことも不思議です。

「湖畔の宿」 作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一

山の淋しい 湖に
みずうみに ひとり来たのも 悲しいこころ
胸のいたみに たえかねて
昨日の夢と 焚きすてる
古い手紙の うすけむり

水にたそがれ せまるころ
岸の林を しずかに往けば
雲は流れて むらさきの
薄きすみれに ほろほろと
いつか涙の 陽が堕ちる

ああ、あの山の姿も、湖水の水も、静かに静かに黄昏れて行く、この静けさ、この寂しさを抱きしめて、わたしはひとり旅をゆく、誰も恨まず。
みんな昨日の夢とあきらめて、幼児のような清らかなこころを持ちたい、
そして、そして、静かにこの美しい自然を眺めていると、只ほろほろと涙がこぼれてくる。

ランプ引きよせ ふるさとへ
書いてまた消す 湖畔のたより
旅のこころの つれづれに
ひとり占う トランプの
青い女王(クイーン)の 淋しさよ







(榛名湖 2017.9.8)



(Wikipedia)
曲は1940年の2月には完成していたが、戦時色がないとの理由でレコード会社が難色を示し、発売は晩春頃となった。
その後、前線の兵士からのリクエストに応じる形でラジオ番組では高峰にこの曲を歌わせるようになり、最終的には内地でも大ヒットしたという。
曲はヒットしたが、感傷的な曲調と詞の内容が日中戦争戦時下の時勢に適さないとして、まもなく発売禁止となった。
しかし前線の兵士には人気があり、慰問でも多くのリクエストがあったという。




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「明日はお立ちか」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
この歌は母を唄っているのではないかと、自分で一人思っている。
たぶん、日本中の女性が家族を兵隊として送り出すときはこの歌と同じ気持ちだっただろう。
それが妻であれば、まだ嫁ぎ先の家族や地域も不慣れ、残されて家事や農作業や子育てもいっさいが身に降りかかる。
不安と、その日から始まるであろう激務に、夫の見送りは晴れの日の真逆であった悲しい歌のような気がする。


「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

明日はお立ちか

戦争は激化の一途を辿っていた。
働ける男性は赤紙一枚で、いつ召集されるかわからない。
銃後に残されるのは妻や子、母や姉妹、老幼の男たちの様相が濃くなった。

しかし、召されて征くのは大和男児の晴れ姿ではないのか。
この別れの悲しみを秘めて、夫や子の無事を祈る女ごころを歌った「明日はお立ちか」が、
小唄勝太郎の美声で流れるようになったのは開戦から数か月後である。

「明日はお立ちか」

明日はお立ちか お名残り惜しや
大和男児(おのこ)の 晴れの旅
朝日を浴びて いでたつ君よ
拝むこころで 送りたや

駒の手綱を しみじみとれば
胸にすがしい 今朝の風
お山も晴れて 湧きたつ雲よ
君を見送る 峠道

時計みつめて 今頃あたり
汽車を降りてか 船の中
船酔いせぬか 嵐は来ぬか
アレサ夜空に 夫婦星






(戦地慰問の小唄勝太郎)




「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

明日はお立ちか

当時、大変人気のあった小唄勝太郎に『明日はお立ちか』という曲があります。
この歌を聴くと、ああ、こういう気持ちに支えられて男たちは戦場に向かったんだなあと、
当時のことを思いだします。
見送る女性たちもこんな気持ちで手を振って、夫や恋人を戦場に送り出したのかと、
深い感慨を覚えますね。
いい歌ですが、罪深い歌だとも思いますよ。


「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

明日はお立ちか
ビクターから発売された軍国歌謡の秀作。
表面的には応召の夫を戦地に送り出す若妻の気持ちを心強く詠いながら、裏面では哀れ深い女心の嘆きと感傷をさり気なく詩情豊かに詠い上げている。
この歌詞の中には”軍”という文字も”戦””兵”という文字も一字も出てないが、一番で”大和男児の晴れの旅”と間接的に歌い、その後も”拝む心で送りたや”と歌い終わらせている。
二番の”お山も晴れて湧き立つ雲よ”の辺りも生かされていて,如何にも軍国妻らしい凛々しさを思い浮かばせる。
三番は一転して“汽車を降りたか船の中船酔いせぬか嵐は来ぬか”と真に夫を思う若妻らしい気の遣い様を描いている。

この頃になると町でも村でも一家の働き手を戦争に取られ、生活の重荷は総て主婦の肩に伸し掛かかって来た。
強くなければ生きて行けず、女性ももてる力のことごとくを発揮して”御国のため”と、戦争協力を強制させられた。
男性を赤紙一枚で戦場に狩り出し、悲しみの心も”名誉”に置き変えて、
何の感傷も批判も口に出すことが許されなかった時代、
大衆の心のはけ口となってこの唄がヒットして行った。




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「若鷲の歌」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
若鷲の歌は、まちがいなく当時の少年たちを大空へ駆り立てるほどの影響があったに違いない。
予科練にいったおじは
「まだ子供じゃった。入ったら隔離された塀の中で教育される。
世間の事はまったくわからない」と言っていた。
純な少年を”命惜しまぬ”少年に変えるのは、国家にとってたやすいことだったようだ。


「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

予科練の歌
私たちのような子どもでも『予科練の歌』などを聴いているうちに、いつのまにか自分たちも一日も早く少年飛行兵になりたいと考えるようになりました。
『予科練の歌』は「七つボタンは桜に錨」と勇壮ないい歌ですが、ただ元気がいいだけではなく、叙情的でセンチメンタルなところがあって、大衆の心の琴線に触れるのです。
そんなことで、国民の思想が無意識のうちにどんどん戦争の方へ向いていく。
歌の持つ力は大きいものだとつくづく思います。




(おじ=母の弟=松山予科練)



「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

若鷲の歌(予科練の歌)
太平洋戦争の戦局が不利に傾き始めた昭和18年、海軍は航空隊甲種予科練習兵(通称・ヨカレン)の大募集を始めた。
戦意昴揚映画「決戦の大空へ」、その主題歌「予科練の歌」として親しまれ18年9月コロンビアから霧島昇、波平暁男の歌唱で発売した。
作曲は古関裕而で「露営の歌」「暁に祈る」とともに、古関の3大名作軍歌のひとつにあげられている。
制服が7つ釦になったのは昭和17年からで、戦後までに20万人以上の飛行兵を養成し巣立っていった。
西條は「ぼくは流行歌、軍歌の如き歌謡は、芸術品でなくとも、これらは百万人の人間を動かす力があるのだ。
そういう点で男子一生を賭ける仕事として価値がると信じたのだ」と書いている。





「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

若者を駆り立てた「若鷲の歌」

「若鷲の歌」は、戦時下に生まれた五指に入る傑作歌謡だった。
西条八十、古関裕而が霞ケ浦航空隊に一日入団の体験を生かしてつくったもの。

映画とその主題歌に刺激されて、甲種飛行予科練習生を志願する中学生が激増した。

若鷲の歌

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい






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終戦前後の坪生村、「名誉の戦死おめでとうございます」

2021年08月13日 | 昭和20年(終戦まで)
三度目の応召される前、岡山県の農業指導員をしていた父は、城見村役場に在籍していた。
その時、「戦死広報」をもって大冝の戦死者宅まで持っていったことがあるそうだ。
終戦後、その”戦死者”は、無事に生きて帰ってきた。父はそのことをよく覚えていた。
戦死で訪問した際「おめでとうございます」は、言えない、言ってない、と話していた。
しかし、そうゆう言葉を言う人が当時いただろう事は認めていた。




「戦争の時代」 つぼう郷土史研究会 青葉印刷 平成7年発行

 坪生村書記

私が坪生村書記として村役場に就職したのは、昭和18年8月、応召で欠員ができた。
当時は村長、助役のほか6名であったと思う。
当時坪生村に電話があったのは、役場のみであった。
坪生からも次々と召集令状を受け応召者が続出した。
神森神社で壮行式を行い、歓呼の声に送られて、参道の一本杉のところからバスで召集地へ向かった。

昭和19年後半ともなると、予備役として残っていた年長者にも召集令状がきた。

戦死の公報が来たのを、助役より届けるように命を受けた。
「名誉の戦死おめでとうございます、というんだぞ」と教えられ、広報を届けた。
家族の方が涙される姿が痛々しくてやりきれない気持ちで、
命を受けた通りに言いながらも、もらい泣きしたものである。



昭和19年後半ごろから、航空燃料がないということで肥え松の根を掘り出し松根油を造るということで、肥え松の根をこっぱにして、蒸し器で蒸して油を取り出していた。
また、松の樹脂を取れということで、生松に、ゴムの樹液を取るように木に斜めに切り傷をつけ、缶を吊るして松ヤニを取っていた。


(松根を掘る「戦争中の暮らしの記録」 暮らしの手帳編)


昭和20年10月になると、
学徒等が訓練に使っていた三八式の銃および短剣を焼却処分ということで、小学校の校庭で差銃を組み、在郷軍人旗とともに焼却した。
その後、豪州兵がジープで坪生にも巡回してくるようになった。
ジープは,神森神社の石段を平気で登っていったのには驚きいった。




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防空監視哨(岡山県新庄村)

2021年08月13日 | 昭和16年~19年
先に北木島・バックリ山の防空監視哨を書いたが、
岡山県北の新庄村の監視哨も勤務形態はほぼ同じ。

国民学校高等科を卒業後、青年学校へ行っている男女(村で一番若い青年団)が6人一組で山に登り、24時間勤務して、翌日交代する。


「新庄村の暮らしと俗信」  立石憲利 2020年発行

昭和18年に新庄防空監視哨ができた。
監視員は、のべ30人で交代で行う。
6人が一昼夜を、三交代で1時間おきに2人ずつが監視する。
監視員は新庄村と美甘村の者で、5日に1日ずつ任務についた。
朝8時から翌朝8時までで「異状なし」などと申し送りをして帰る。

通称「宝田の監視哨」と言っていた。宝田の山頂付近にあったから、現在の道の駅の裏山。

私は監視哨ができてから、出征する昭和20年3月まで2年半ほど監視員をしていた。
飛行機の識別などは、監視哨手帳があって、機体や標識、方位などが記されていて、それによって行った。
監視哨には、監視舎と聴音壕とがあった。
聴音壕のあとは、現在も残っている。
監視舎は4間*2間くらいの小屋で、寝泊りができる畳の部屋があり、炊事場があった。
壕は深さ3mほどのコンクリートの円筒になっていて、高さ60~70cmの台があり、その上に立って勤務した。









円筒の外側は30cmの空間があって、飛行機の音がよく響くように作られた。
その音で飛行機の飛来を知った。
監視哨は哨長が1人で伍長以上の軍人、退役軍人だった。副哨長は1班に1人ずつ。
監視員は、青年学校に行っている者が中心で、
2年生までは3週に2回、3年生以上は3週に1回の勤務だった。
監視業務をするとき以外は、学校に行ったり、百姓をしたりした。
監視員はお互いによく知っていた。哨長が、人選をしたと思う。
監視哨の管理は警察がしていた。
警察へは電話がついていて、すぐに連絡が取れた。




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産婆さんは大忙し

2021年08月12日 | 昭和16年~19年
管理人が生まれる当時は、
お産は家でする。妊婦は産気づくまで畑で仕事をする。
陣痛になったら産婆さんを呼ぶ。
このころ、生まれてくる子が多く、産婆さんは西に東に大忙しだった。

茂平の産婆は、同級生Aくんのお母さんがしていた。
茂平の人は、後年病院でお産をする時代になってからも”産婆さん”と感謝を込めて呼んでいた。
茂平の産婆さんは、自身に幼子が3人いた。
そして、
茂平や城見の婦人会の役員、
茂平婦人消防団の団長も長く務めた。
妻であり、母であり、産婆さんであり、農業をし、地域の役をして、
寝る間もなく茂平や城見地区に貢献された。

産婆さんは高齢で亡くなられたが、生前、産婆の話を一度も聞いたことはない。
書籍で、その苦労を偲ぼうと思う。


「戦争中の暮らしの記録」 暮らしの手帳編  昭和55年発行



静岡県・産婆
支度
「お腹が痛くなったから来てください」と迎えをうけて行き、
すぐ生まれるもの、二日、ときには三日がかりで生まれるものもあった。
お産をたのまれると、支度が大変だった。
お産道具を入れたカバン。
ふろしき包。この中には赤ちゃんの着物、じゅばん、おむつ。産婦さんの腰巻も入っている。汚したときの取りかえ。

綿花
一番不自由したのは綿花で、
配給の綿花では一週間使うほどあるなしで、ずいぶん気を付けて、無駄のないよう使った。
はじめは大きく切って使い、汚れたのは川で血液を洗い流し、クレゾールで消毒し、さらに煮沸して二度も三度も使う。
分娩が長引くと、つい綿花もたくさん使う。ゆかたの古いのや晒の古いのを、きれいに洗って20cm角くらいに切って揃えて消毒し分娩中の綿花代用にした。

夜のお産
夜のお産はまたみじめ。
電灯に黒い布をかけ、光が漏れないように雨戸を閉め、光がもれないように雨戸を閉める、産婦は「う~んう~ん」、
「そーれ、いますこし、そーれ」と、掛け声をかける私も、汗びっしょり。
電灯のある家はまだよい方で、物置やはなれに疎開してくる人たちは、電灯のないところが多かった。提灯をぶらさげるが、かんじんのところがよく見えない。
はだかろうそくを2~3本立て注意しながら、やっと産声を聞いたこともある。


東京都・産婆
燃料に困る
生めよふやせよの徹底した時代で,たくさんのお産を扱っていました。
戦が激しくなるにつれ、物資不足は目立ち、その中でも
ガス、水道の時間制限と、薪炭等燃料の配給不足は、じつに困りました。
産湯にも差支えるようになりました。
漬物桶をこわし、お湯を沸かした話もありました。漬物桶は、漬けるものがないので、不必要だったのです。

空襲警報中のお産
警報中のお産には困りました。
少しでも光が漏れると警防団員から注意されますので、
窓には暗幕、お産は押入れの中でローソク1本の光を頼りに、その光をさらに黒い傘を開いておおい、いうにいわれぬ苦労がありました。





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空襲化の育児

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
母は母乳がよく出る人だった。
管理人は5歳ころまで吸っていた。
母は子を3人産んだが、すぐ近所の赤ちゃん二人にも乳をあげていた。
しかし、その赤ちゃんは二人とも戦時中の物資・食糧不足の時代を生き抜くことができず死んでしまった。



「神国日本のトンデモ決戦生活」 早川タダノリ  合同出版2010年発行

空襲化の育児

乳児の栄養面について、「代用乳(無乳栄養)の作り方と与え方」(主婦之友・昭和19年10月号)、
丁寧に指南。炒った米・小麦・大豆などの粉に鰹節・魚・イナゴ・サナギなどのタンパク質と乾燥野菜、砂糖、塩をお湯で溶いたもの。
「戦時下妊婦の使命」「敵米英の母に勝て」と役にたたない精神論も遺憾なく発揮している。





空襲が本格的に始まる直前には、
「子供を被害から逃れさすことばかりが防空ではありあせん。
戦場に育った子供でなければ経験し得ない、生々しい戦いの体験を、将来国の強兵として戦場に立つ時の基礎に、立派に活かしていこうではありませんか。
戦争を怖がらせてはならない、盲目的な平和思想を抱いてはさらにならない。
空襲をも戦時下の精神鍛錬の鉄床として活用する、この母の心構えこそ『子供の防空』の根底をなすものであると信じます」(主婦之友・昭和19年8月号)
と無責任に説教してもいた。
もはや、負け惜しみを通り越して倒錯の域に達している。

こんな「空襲体験」をおしつけられた母親も赤ん坊もたまったものではなかったろう。

 
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「産むな 増やすな 国のため」

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
「貧乏人の子だくさん」
明治、大正、昭和初期、日本人の大半が貧乏人だった。どこの家庭も子だくさんだった。
「産めよ増やせよ国のため」
戦時中は、未来の兵士を増やし、そして死んでもらうために、多くの子供(5人以上)を産むことが国民の義務とされた。
「ベビーブーム」(団塊の世代)
終戦後、食うや食わずで娯楽のない時代、夫婦の唯一の娯楽として性行為があり、日本中に妊婦の人があふれた。
世が落ち着くと、ベビーブームは終わった。

近年まで、日本は子だくさんの時代がつづいたが、
「産むな増やすな国のため」と半ば強制的に断種された人たちもいた。



「熱風の日本史」 井上亮 日本経済新聞社 2014年発行 

「悪質な遺伝子」の根絶をめざす優生学は社会的ダーウィニズムの影響を受けたもので、20世紀初頭から世界的に流行する。
日本の優生政策に大きな刺激を与えたのが昭和8年、ナチス・ドイツによる断種法制定だった。
「劣悪者」が人口に占める比率が増加すると、人口の質が低下すると考えられた。
「国民の体力向上=強兵養成」を主張していた陸軍の要請を受けて昭和13年に厚生省が誕生。優生課が設けられる。
昭和15年3月国民優生法が帝国議会で可決。
「悪質な遺伝子」を持つ者への優生手術、すなわち断種の規定が設けられた。
ほかに本人や祖先に遺伝的な障害・疾患を持つ者の結婚を規制した。

断種対象者は全国で約30万人と見積もられていた。
昭和22年法が廃止されるまでに実施された断種手術は538件(男217,女321)にすぎない。
これは強制でなく、任意としたためだった。
国家が多産奨励に傾斜していったのも、非人道的な断種法を骨抜きにした。

ところが優生法とは無関係に断種手術を強要されていた人々がいた。
ハンセン病患者である。
昭和6年の「らい予防法」で全患者の隔離政策が推進された。
療養所では結婚の条件として「任意」の断種手術が非合法に行われていた。
昭和24年~平成6年までに強制的不妊手術は1万8.000件で、戦前をはるかに上回っている。

アメリカ
世界でもっとも断種法が普及していた国はアメリカだった。
対象者は精神病患者や知的障害者で、性犯罪者にまで広げられた。
32州で1937年時点で2万5.000人以上に不妊手術が施された。
1940年代までには、カナダ、メキシコ、デンマーク、スウェーデン、ノルェーなどの欧州各国も断種法を制定した。
ドイツ
第二次大戦が始まると断種を中止。
精神病患者、障害患者などを抹殺する「安楽死計画」を実施し、十数万人が殺害されたという。

優生思想はファシズムと結び付けられて考えられがちだが、民主主義国家にも受け入れられていた。
人間の尊厳を社会がいかに実現すべきなのか、考える必要がある。








「ビジュアル日本の歴史 116」

産めよ増やせよ国のため

1940年(昭和15年)11月3日、「明治節」の祝日に、厚生省は全国10.336の優良多子家庭を表彰した。
厚生省は前年より「人的資源」確保のために多産奨励を打ち出しており、今回の表象はそれを浸透させる目的で行われた。
選ばれる家庭の条件は、同一父母のもとで満6歳以上の子どもが10人以上育てられ、しかも子どもも両親も健康かつ性行善良であること。
都市部では大正時代から晩婚少子化傾向があり、選ばれた家庭の大半は農村の中・上流家庭であった。
政府が「産めよ増やせよ国のため」と大奨励したため、翌年日本の出生数と婚姻件数は大きく増加する。
しかし、
その裏では「不良な子孫の出生を防止」する国民優性法(1940年公布)のもと、障害者やハンセン病患者の断種手術も行われていた。





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