村八分
1953年/近代映画協会・現代ぷろだくしよん
監督:今泉善珠
脚本:新藤兼人
音楽:伊福部昭
出演:中原早苗、藤原釜足、英百合子、乙羽信子、山村聡、日高澄子、山田巳之、菅井一郎、殿山泰司、久松保夫、横山運平
<静岡県下上野村村八分事件を取あげたもので「原爆の子」を製作した近代映画協会に現代ぷろだくしよんが協力している。製作は、「原爆の子」の山田典吾に絲屋寿雄の共同。脚本は「千羽鶴(1953)」の新藤兼人、監督は「原爆の子」の第一助手新人の今泉善珠。(中略)静岡県選出参院補欠選挙の発表の日、朝陽新聞静岡支局へ富士山麓の野田村の一少女から、同村で行われた替玉投票の事実を訴えた投書が舞い込んだ。支局長は吉原通信部の本多記者に、早速この事実の調査を命じた。本多は野田村在の吉川一郎の娘、富士原高校に在学する満江がこの投書の主であることを確めたが、これを知った同村ボス山野の手配で厳しく口どめをされた村民たちからは何一つ手がかりを得ることが出来なかった。しかし、根気よくこの村へ通っている間に、本多は一老人の口から竹山集落の違反の端緒をつかみ、村役場で確証を握った上、このことを記事にして支局へ送った。これが朝陽新聞に報道され、司法局がこのため活動を開始したと知って村民は色を失い、その反動が、投書の主満江一家の上にふりそそがれた。>(映画.com)
1952年に起こった静岡県上野村村八分事件。この実際の“事件”の翌年に新藤兼人の脚本によって映画化された作品。50年代前半という時代背景もあって左翼を色濃く感じさせる描写になっているものの、これは現代にも通じるホラーでもある。
村役場を巻き込んで投票の棄権防止運動と称して投票に行けない人々の投票券を集め不正投票を行った村の有力者、それを告発するために新聞社に投書する少女、そして不正投票を取材し記事にする新聞記者。現状維持という村の正義、不正を告発するという個人の正義、そして「間違っていないんだからとにかく正義」というメディアの正義。それぞれがそれぞれの“正義”に従って事件は動き始める。何てったって不正投票は悪いのだから、それに関わった弱い、貧乏な村民は“理不尽”に晒されて、糾弾される。罰金も課される。ここで有力者、村役場、村民たちが「ごめんなさい」すれば、この話も終わってしまうわけだが、弱い村民たちの不満と悪意のはけ口は、結局不正の本質ではなく、すぐ隣にいる一番弱い“正義”に向かっていく。村民の“日常”は現状維持と強固な思考停止によって成り立っている。
村民たちによる一家への村八分は新聞記者が全国に報じ、さまざまなメディアが村に集まってくる。
そんな中、取材に訪れたラジオ局のアナウンサーが村民に直接訊く。ここが、ある意味クライマックス。
「この村で起こった村八分について皆さんのご意見を聞かせて頂きたいと思います。お爺さん、あなた吉川満江さんについてどうお考えをお持ちですか?」
「おらっち、何も考えちゃいねえ」
「あなたは吉川さんの家を八分なさらないんですか?」
「何にも考えていねえだ」
「どうもありがとうございました。それではこちらの娘さんにひとつ…」
「嫌だよォ!」
メディアによる「外の目」に晒された村民たちは最初怯え、そして開き直り、最終的にはお互いの意志を確かめ合う(束縛し合う)ように集団の中で囁く。
さらに恐ろしいことに無責任な正義漢である新聞記者は村民たちが囲む中、少女の母親をマイクの前まで引っ張り出す。「みんなに何をされたのか言え」と。今となってみればそもそも投書の少女の所在を村役場に問い合わせたり、この新聞記者の行動は責任重大だと思うのだが、ここまで来ると無邪気な正義のホラーである。
物語は「お姉ちゃんは間違っていなかったんだわ!」ということで実に左翼風に、ポジティブに(一応の)ハッピーエンドを迎えるわけだが、60年経っても問題は投げ出されたままなのではないか。
オレたちの中にも拭い去れないムラ=田舎がある。60年経っても解消されないのか、60年経って蘇ってきたのかはわからない。
1953年/近代映画協会・現代ぷろだくしよん
監督:今泉善珠
脚本:新藤兼人
音楽:伊福部昭
出演:中原早苗、藤原釜足、英百合子、乙羽信子、山村聡、日高澄子、山田巳之、菅井一郎、殿山泰司、久松保夫、横山運平
<静岡県下上野村村八分事件を取あげたもので「原爆の子」を製作した近代映画協会に現代ぷろだくしよんが協力している。製作は、「原爆の子」の山田典吾に絲屋寿雄の共同。脚本は「千羽鶴(1953)」の新藤兼人、監督は「原爆の子」の第一助手新人の今泉善珠。(中略)静岡県選出参院補欠選挙の発表の日、朝陽新聞静岡支局へ富士山麓の野田村の一少女から、同村で行われた替玉投票の事実を訴えた投書が舞い込んだ。支局長は吉原通信部の本多記者に、早速この事実の調査を命じた。本多は野田村在の吉川一郎の娘、富士原高校に在学する満江がこの投書の主であることを確めたが、これを知った同村ボス山野の手配で厳しく口どめをされた村民たちからは何一つ手がかりを得ることが出来なかった。しかし、根気よくこの村へ通っている間に、本多は一老人の口から竹山集落の違反の端緒をつかみ、村役場で確証を握った上、このことを記事にして支局へ送った。これが朝陽新聞に報道され、司法局がこのため活動を開始したと知って村民は色を失い、その反動が、投書の主満江一家の上にふりそそがれた。>(映画.com)
1952年に起こった静岡県上野村村八分事件。この実際の“事件”の翌年に新藤兼人の脚本によって映画化された作品。50年代前半という時代背景もあって左翼を色濃く感じさせる描写になっているものの、これは現代にも通じるホラーでもある。
村役場を巻き込んで投票の棄権防止運動と称して投票に行けない人々の投票券を集め不正投票を行った村の有力者、それを告発するために新聞社に投書する少女、そして不正投票を取材し記事にする新聞記者。現状維持という村の正義、不正を告発するという個人の正義、そして「間違っていないんだからとにかく正義」というメディアの正義。それぞれがそれぞれの“正義”に従って事件は動き始める。何てったって不正投票は悪いのだから、それに関わった弱い、貧乏な村民は“理不尽”に晒されて、糾弾される。罰金も課される。ここで有力者、村役場、村民たちが「ごめんなさい」すれば、この話も終わってしまうわけだが、弱い村民たちの不満と悪意のはけ口は、結局不正の本質ではなく、すぐ隣にいる一番弱い“正義”に向かっていく。村民の“日常”は現状維持と強固な思考停止によって成り立っている。
村民たちによる一家への村八分は新聞記者が全国に報じ、さまざまなメディアが村に集まってくる。
そんな中、取材に訪れたラジオ局のアナウンサーが村民に直接訊く。ここが、ある意味クライマックス。
「この村で起こった村八分について皆さんのご意見を聞かせて頂きたいと思います。お爺さん、あなた吉川満江さんについてどうお考えをお持ちですか?」
「おらっち、何も考えちゃいねえ」
「あなたは吉川さんの家を八分なさらないんですか?」
「何にも考えていねえだ」
「どうもありがとうございました。それではこちらの娘さんにひとつ…」
「嫌だよォ!」
メディアによる「外の目」に晒された村民たちは最初怯え、そして開き直り、最終的にはお互いの意志を確かめ合う(束縛し合う)ように集団の中で囁く。
さらに恐ろしいことに無責任な正義漢である新聞記者は村民たちが囲む中、少女の母親をマイクの前まで引っ張り出す。「みんなに何をされたのか言え」と。今となってみればそもそも投書の少女の所在を村役場に問い合わせたり、この新聞記者の行動は責任重大だと思うのだが、ここまで来ると無邪気な正義のホラーである。
物語は「お姉ちゃんは間違っていなかったんだわ!」ということで実に左翼風に、ポジティブに(一応の)ハッピーエンドを迎えるわけだが、60年経っても問題は投げ出されたままなのではないか。
オレたちの中にも拭い去れないムラ=田舎がある。60年経っても解消されないのか、60年経って蘇ってきたのかはわからない。