徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

世界の中心のセカイ系

2013-05-07 23:34:29 | News
昔の「噂の真相」を読んでいたらタカ派/ハト派という言葉が頻繁に掲載されている。休刊は丁度10年前、ほんの十数年前の雑誌である。タカ派/ハト派というのは、一方からもう一方へ向けたイデオロギッシュな罵倒というよりも、あくまでも客観的なスタンスに対する評価<レッテル貼り>でしかなかった。
いまや決め付けと罵倒の同義語と化してしまった「レッテル貼り」だが、オレたちにとって主張するということは、極端に言ってしまえばレッテルを貼り合い、そしてまたレッテルを剥がし合うということでしかない(これが冤罪となれば話は深刻なのだけれども)。

本来あからさまな「タカ派」であるはずのネトウヨは、自分たちこそ「中道」であり、「普通」であると盛んに主張する。自分たちの主張とは相容れない人間たちは、それ故に「極左」と彼らから断定される。とにかく、何が何でも自分が中心にいるのだから、そういう見方もできないことはない。しかしハトでもなく、左翼でもなく、いきなり極左である。そんなアホな発言には対して、10年ほど前の2ちゃんねるなら、
「お前、本当に極左の意味わかってる?」
とレスしたものだが、しかし彼らにとって意味や位置づけやリアルの「極左」などはどうでもいいのだろう。とにかく絶対的に自己を中心に据えた世界観を頑なに譲ろうとしない。
もはや10年前の言葉になってしまったが、これはやはり<セカイ系>という他ない。

<主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと>(「波状言論 美少女ゲームの臨界点」)

ネット界隈でこの言葉が登場したのは2002年10月下旬だという。2003年から2004年にかけてこの言葉はアニメ、ライトノベルの世界を中心に一般化する(それなりに)。
そして2003年には『世界の中心で、愛を叫ぶ』が100万部を突破し、翌年にかけて爆発的なベストセラーになっていく。
この辺りが「セカイ系=世界の中心」の臨界点だったのだろう。ネットの世界だけならば好事家の自虐で済んでいたのだろうが(まさに本来の意味での「中2病」のように)、矮小化された「世界の中心」がリアルに漏れ出してきている。

あの当時の批判や批評にもあっただろうが、改めて書く。
オレたちはどうしたって、いずれ気づくのだ。確かに「自分の世界」の中心は自分でしかないのだが、「世界」の中心はいくつも、無数にあって、それはいつだって自分だけではどうしても成立していないことを。
そんなものは小学生でも気付くことだろうと思う。

<7日の参院予算委員会で民主党の鈴木寛氏が、在日韓国・朝鮮人を対象とした排斥的なデモが国内で横行しているとして、安倍晋三首相に見解をただした。(中略)デモは「コリアンタウン」として知られるJR新大久保駅周辺などで今年2月ごろから行われている。首相は「他国や他国の人々を誹謗(ひぼう)中傷することで、われわれが優れているという認識を持つことは間違っているし、結果として自分たちを辱めていることにもなる」と強調した。>(時事通信2013年5月7日付

空回りする「勝とうという気持ち」/第9節新潟戦、第10節川崎F戦

2013-05-07 18:39:17 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
日本平で連戦というゴールデンウィークシリーズの第9節新潟戦第10節川崎F戦はスカパー!で参戦。
共に1-2というスコアで連敗を喫したが、カウンタータイプのチームに対してそれなりに抗していた新潟戦に対して、川崎戦はゴールシーン以外はほとんど観るべきところがなかった惨敗としか言いようがない。
吉田の先制ゴールを川崎の實藤に「事故のような」と腐されても何だか素直に受け止められるような内容である。何もやらせて貰えないあの感じは、1ヵ月前の広島戦を髣髴とさせるものだった。完敗と言いたい気分はわかるのだが、どうも出し切って負けたという印象はなく自滅に近い形でスコア以上の惨敗をしてしまったように思う。吉田は終了後にこうコメントている。

「チーム的にはみんなハードワークしていたし、勝とうという気持ちは表われてましたけど、結果が今はついてこなくて悔しい状況です。ただ、みんなで戦えたという気持ちはあります」

いかにも強気な吉田という感じのコメントではあるが、アフシンのハーフタイムコメントを受けた記者の質問に対しては問題点に関して率直に語る。

「みんなフワッという感じで入ってしまった部分もたぶんあると思いますし、その中でアプローチに行く部分で1歩遅れて、それがどんどんズレていって、崩されたという場面があった」(以上J's GOAL 5月6日付

「場面もあった」というか、「場面ばかりだった」というか。
ただ「フワッ」という表現はよく分かる。ボールホルダーに対するアプローチがことごとく軽く、アグレッシブさに欠けていたのはなぜなのか。確かに「ハードワーク」であったかもしれないが、それは空回りだったことは、まあ間違いがない。軽視していたとは決して思わないが川崎戦は憲剛、大久保不在の4月のナビスコ予選のようなイメージで戦ってしまったのではないか。日本最高クラスの絶対的なパサーを得た川崎は八宏の提唱する多彩なパスサッカーを表現できていた。広島戦のような惨敗、というのはそういうことでもある。

それでも4月の戦いの中からアフシンの信頼を得た竹内の起用、キャラの離脱に対する浩太のCB起用は今後の戦いの光明になったとは思う。特に今回は大成功とは言えない結果になってしまったものの、アフシンがCB(及びボランチ)に何を求めているのか、はっきりとわかったのではないか。
ホームで連敗した結果を受けて、「革命や理想どころではない」という気持ちはわからないでもない。でも、どんな時だってそれをベースにしていなければサポートなんてできないと思うのだ。勿論結果は絶対的な評価だけれども、サポーターにとって目先の勝ち負けだけが絶対的な価値ではないはずだ。
次は今週末、アウエイで甲府戦。