模型鉄道「豊岡電車」の設定、続編です。
(1)はこちら
さて、豊岡電車の舞台となる豊岡地区、
開業前は次のような村落が広がっていました。
国鉄は地区の端をかすめるように通っています。
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当時、陶磁器の一大生産地だった砂原町は、
豊岡駅まで大八車でタイルやどんぶりを輸送していました。
しかし、滝老町前後に地盤が弱い道があったため、輸送量が増えず、
今後の発展のために、砂原の陶工達は鉄道を誘致することを決めました。
有力者の協力もあり、戦前に「豊岡電気軌道」(以下 豊岡電軌)が
豊岡町駅-砂原駅間を開通させました。
当時は、道路沿いの併用軌道を、路面電車が貨車をひっぱって
ごろごろ走っていたのだそうです。
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豊岡電軌の経営は順調で、特に貨物取扱量は
開業からうなぎ登りに増えていったそうです。
数年後、路線は砂原から、山奥の温泉街鍵野まで延長され、
豊岡町から鍵野まで大型の急行電車が走り始めました。
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同じ頃、南の瀬樋(せとい)町の記念橋から栄城までの鉄道が開通。
蒸気動車が走るようになりました。
後にこの路線は電化され、大型の電車が行き交うようになります。
また、山奥の田園地帯だった羽田川村に軍需工場が作られることになり、
砂原の市街地のはずれから羽田川までの軽便鉄道が開通しました。
この時、接続地点となる場所に駅を設けることになりましたが、
当時手狭になりつつあった砂原駅を砂原役場前駅と改称すると共に、
車庫や車両工場とともに砂原のはずれに移設、新「砂原駅」が誕生することになります。
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戦後、復興と共に観光需要が急増し、
豊岡電軌は旅客・貨物とも、取扱量が過去最高を記録します。
一方で、軍需工場閉鎖により目的を失った軽便線は経営が悪化、
豊岡に助けを求める形で吸収され、豊岡電軌初の支線が誕生します。
また、瀬樋の記念橋から温泉街、岩宿まで電車が走るようになりました。
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高度成長期に入ると、道路整備が盛んになり、
特に軽便線の貨物取扱量が減少しました。
そこで、豊岡電軌は軽便線を改軌し、野倉町支線として再生させます。
これは相当な大工事で、軟弱な粘土質の土を掘り返した上に硬い土を充填、
改軌した線路を敷設するというものでした。
また、この時期相次いで天災が発生し、
鍵野への線路が3度にわたり流される被害が発生しました。
鍵野温泉への急行が旅客の柱だっただけに、不通による運休が及ぼす影響は大きく、
豊岡の体力は急激に消耗し、3度目の災害時には復旧させるだけの資金が不足、
平行道路の整備により、旅客がバスに流れることも考えられたため、
泣く泣く、砂原役場前から先を廃線とし、急行も運転を中止することになりました。
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旅客の柱を失った豊岡電軌は急速に経営が悪化。
平行道路の整備は進み、路面区間を有する電車はバスより時間がかかるようになり、
旅客の取扱量は目に見えて減っていきました。
また、野倉町支線ももともとが軽便線だったため速度が出せず、
旅客・貨物とも減少、走らせれば赤字が膨らむ事態に陥りました。
その頃、地域広域に広く路線網を広げていた栄町鉄道は、
豊岡地区の住宅開発に進出しようと考えており、
豊岡電軌の沿線に目をつけました。
そこで、豊岡電軌に話を持ちかけ、合意。
豊岡は栄町鉄道の傘下に入り、「豊岡電車」として再スタートすることになりました。
栄町鉄道は、豊岡から栄町への急行を走らせることで沿線の地価を上げ、
住宅開発と土地ころがしによる利益を得ようと計画、
記念橋の先、志賀野から野倉町支線の狸坂にかけて新線を建設し、
ぴかぴかの新型車両を用いて急行列車を走らせ始めました。
この時、同時に比較的利用者の多かった記念橋から岩宿の路線の経営権を豊岡電車に移し、
豊岡の経営の改善にも着手しました。
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こうして、現在の豊岡の路線網ができあがりました。
めでたし、めでたし~
(1)はこちら
さて、豊岡電車の舞台となる豊岡地区、
開業前は次のような村落が広がっていました。
国鉄は地区の端をかすめるように通っています。
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当時、陶磁器の一大生産地だった砂原町は、
豊岡駅まで大八車でタイルやどんぶりを輸送していました。
しかし、滝老町前後に地盤が弱い道があったため、輸送量が増えず、
今後の発展のために、砂原の陶工達は鉄道を誘致することを決めました。
有力者の協力もあり、戦前に「豊岡電気軌道」(以下 豊岡電軌)が
豊岡町駅-砂原駅間を開通させました。
当時は、道路沿いの併用軌道を、路面電車が貨車をひっぱって
ごろごろ走っていたのだそうです。
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豊岡電軌の経営は順調で、特に貨物取扱量は
開業からうなぎ登りに増えていったそうです。
数年後、路線は砂原から、山奥の温泉街鍵野まで延長され、
豊岡町から鍵野まで大型の急行電車が走り始めました。
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同じ頃、南の瀬樋(せとい)町の記念橋から栄城までの鉄道が開通。
蒸気動車が走るようになりました。
後にこの路線は電化され、大型の電車が行き交うようになります。
また、山奥の田園地帯だった羽田川村に軍需工場が作られることになり、
砂原の市街地のはずれから羽田川までの軽便鉄道が開通しました。
この時、接続地点となる場所に駅を設けることになりましたが、
当時手狭になりつつあった砂原駅を砂原役場前駅と改称すると共に、
車庫や車両工場とともに砂原のはずれに移設、新「砂原駅」が誕生することになります。
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戦後、復興と共に観光需要が急増し、
豊岡電軌は旅客・貨物とも、取扱量が過去最高を記録します。
一方で、軍需工場閉鎖により目的を失った軽便線は経営が悪化、
豊岡に助けを求める形で吸収され、豊岡電軌初の支線が誕生します。
また、瀬樋の記念橋から温泉街、岩宿まで電車が走るようになりました。
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高度成長期に入ると、道路整備が盛んになり、
特に軽便線の貨物取扱量が減少しました。
そこで、豊岡電軌は軽便線を改軌し、野倉町支線として再生させます。
これは相当な大工事で、軟弱な粘土質の土を掘り返した上に硬い土を充填、
改軌した線路を敷設するというものでした。
また、この時期相次いで天災が発生し、
鍵野への線路が3度にわたり流される被害が発生しました。
鍵野温泉への急行が旅客の柱だっただけに、不通による運休が及ぼす影響は大きく、
豊岡の体力は急激に消耗し、3度目の災害時には復旧させるだけの資金が不足、
平行道路の整備により、旅客がバスに流れることも考えられたため、
泣く泣く、砂原役場前から先を廃線とし、急行も運転を中止することになりました。
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旅客の柱を失った豊岡電軌は急速に経営が悪化。
平行道路の整備は進み、路面区間を有する電車はバスより時間がかかるようになり、
旅客の取扱量は目に見えて減っていきました。
また、野倉町支線ももともとが軽便線だったため速度が出せず、
旅客・貨物とも減少、走らせれば赤字が膨らむ事態に陥りました。
その頃、地域広域に広く路線網を広げていた栄町鉄道は、
豊岡地区の住宅開発に進出しようと考えており、
豊岡電軌の沿線に目をつけました。
そこで、豊岡電軌に話を持ちかけ、合意。
豊岡は栄町鉄道の傘下に入り、「豊岡電車」として再スタートすることになりました。
栄町鉄道は、豊岡から栄町への急行を走らせることで沿線の地価を上げ、
住宅開発と土地ころがしによる利益を得ようと計画、
記念橋の先、志賀野から野倉町支線の狸坂にかけて新線を建設し、
ぴかぴかの新型車両を用いて急行列車を走らせ始めました。
この時、同時に比較的利用者の多かった記念橋から岩宿の路線の経営権を豊岡電車に移し、
豊岡の経営の改善にも着手しました。
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こうして、現在の豊岡の路線網ができあがりました。
めでたし、めでたし~
某不動産業の副業で電車走らせてるT京K行がネタ元?
今度の呑み会で2人だけの濃い~お話しようね(はぁと)
ネタ元は109電鉄だったり宝塚のHQ電鉄だったり…。
「土地転がし」はみゃー鉄が明治村とかモンキーパークを
丘陵地に作ってやってたあたりもネタ元かな?
そんな濃~いお話しましょうねぇ♪
そーいや、
五島さん小林さん堤さん(TQ&HQ&ライオンズ)は
高校の教科書に載ってました。
>>五島さん小林さん堤さん(TQ&HQ&ライオンズ)は高校の教科書に載ってました。
・・・へ~、そんなの載ってるんだ。
それはかんだら君が通っていた「科」にしかない科目なの?
>五島さん小林さん堤さん
は、ウチの「科」特有の科目の教科書に載ってましたねぇ。
他にも、名鉄と東急の戦いや、箱根西武と小田急の戦いが取り上げられたり、
トヨタ様の生い立ちについて詳細に学んだりしましたよ。