中学の時に書いていた日記を実家からお取り寄せしてあったのを、暇つぶしにパラパラめくって読んでみた。
学校と家の往復だけでほぼ日々の生活がまわっているような、代わり映えのしない日常は、今と同じ。学校が職場に変わっただけである。しかし登場人物は入れ替わりやってきて、話題も平凡ながらそれなりに見つけだし、ともかくも毎日毎日、なにかしら書いていることに、我ながら感心する。こんなに毎日、いろんなことがあったら、さぞかし充実していたのではないかとさえ思ってしまう。月日がたつのも長く感じられたことだろう。
現在のように、1年の経過するのが実に早く感じられるのは、こんなふうに、日々の生活に新しさを見出せないせいでもあるのかもしれない。
息子が小学生のころ、夏休みに日記を書いてくるという宿題が出た。
当時、(いやいやながら)スイミングスクールに通っていた彼は、前日の日記を丸写しにしていた。一字一句、最初から最後まで同じ文なのである。なぜかと問うと、答えは簡単。「毎日スイミングに行っているから」。
その合理的な考え方に感心はしたが、ただの横着ともいえる。
あとから振り返って面白く読みかえせるのは、もちろん、変化を持たせたわたしの日記のほうである。(自画自賛)
(そのわたしの日記によると)、日曜日には近所に住む同級生と待ち合わせをして、駅の近くにある本屋で立ち読みをしていた。
”立ち読み”が、わざわざ人と待ち合わせをして行う遊びかどうかはともかく、これなどは、平成生まれの子供たちが友人の家に集まって、てんでんばらばらに自分の好きなゲームにいそしんでいたのと同じかもしれない。
学校と家の往復だけでほぼ日々の生活がまわっているような、代わり映えのしない日常は、今と同じ。学校が職場に変わっただけである。しかし登場人物は入れ替わりやってきて、話題も平凡ながらそれなりに見つけだし、ともかくも毎日毎日、なにかしら書いていることに、我ながら感心する。こんなに毎日、いろんなことがあったら、さぞかし充実していたのではないかとさえ思ってしまう。月日がたつのも長く感じられたことだろう。
現在のように、1年の経過するのが実に早く感じられるのは、こんなふうに、日々の生活に新しさを見出せないせいでもあるのかもしれない。
息子が小学生のころ、夏休みに日記を書いてくるという宿題が出た。
当時、(いやいやながら)スイミングスクールに通っていた彼は、前日の日記を丸写しにしていた。一字一句、最初から最後まで同じ文なのである。なぜかと問うと、答えは簡単。「毎日スイミングに行っているから」。
その合理的な考え方に感心はしたが、ただの横着ともいえる。
あとから振り返って面白く読みかえせるのは、もちろん、変化を持たせたわたしの日記のほうである。(自画自賛)
(そのわたしの日記によると)、日曜日には近所に住む同級生と待ち合わせをして、駅の近くにある本屋で立ち読みをしていた。
”立ち読み”が、わざわざ人と待ち合わせをして行う遊びかどうかはともかく、これなどは、平成生まれの子供たちが友人の家に集まって、てんでんばらばらに自分の好きなゲームにいそしんでいたのと同じかもしれない。
中学生の頃に、日記をつけていらっしゃったのですね。
その頃からご自分のキモチや、様々な観察眼を文章に起こす習慣がおありだったので、読み手に正確に伝えることが出来るのでしょう。いいなぁ~
私は、書こうと思ったことくらいは、あったかもしれませんが、よく覚えていません。書いたとしても精々2日くらいでしょう。
中学時代は、良い思い出、楽しいことがなかったですから、書いてもグチだらけだったと思います。後悔以外、何一つ残っていません。
日記や絵日記は、読み書きそろばんは大事、という方針のもとに、幼稚園の頃あたりから母に習慣づけられた?ものと記憶しています。
(ピアノやお習字は続きませんでしたが、これだけは性に合ったのか続いたようです)
40年前から成長していない自分に愕然としたり、当時の自分の肩をちょんちょん叩いて、ちょっとそれは違うんじゃないの? 本当に反省してる? そのうち痛い目に会うよ、と警告したくなったりと、フクザツな心境になりつつ、完読いたしました。
最近は、記憶に悩まされることが多く(悔恨の念とともに目が覚めます^^;)、子供の頃ののんきさや、他愛のなさが実にうらやましく思えます。