日本の現代詩を代表する詩人吉増剛造と日本の現代詩の現在を代表する詩人和合亮一の対談の記録。和合氏に付した「現在」とは、東北の震災後のこの十年のことである。
河北新報の9月7日付の紙面に掲載された「未来からの記憶―被災地での対話Part1石巻・鮎川浜」と現代詩手帖9月号の新連載「「記憶の未来」の先端で―石巻から/浪江から」は、同じひとつの対話である。河北は凝縮されたエッセンス、手帖は細密な詳細版ということになる。
河北新報社生活文化部宮田建氏の企画/進行/編集による対談は、震災後十年の節目として、先般、手帖の4月号、河北の2月28日付けに掲載されたところであり、このブログでもそれぞれ紹介しているが、今回はその続編として同じメンバーによる新たな対談である。さらに若干間をおいて、次の対談は福島県浪江町において行われる予定らしい。
【場所を同じくして、生と死の境目を超える】
河北新報掲載対談の冒頭で、吉増氏の語りが記され、和合氏の応答が記される。
「吉増 被災者と同じ場所で同じ呼吸を心と体で経験することが大切。ここで震災で亡くなった地元の奥さんを詩に書いていたら、夢の中で通気口から白い煙のようなものがすうと入ってきた。煙と重なる奥さんの声を聞いていると感じた時、「詩の姿とはそういうものだよ」という声もした。
和合 被災者に話を聞いていると、呼吸とか言葉がふと止まることに詩情を感じる。ご主人を亡くされた女性と話し、自分の中で生と死の境目が一瞬で変わってしまった経験がある。同じ時間を過ごし、何かを丸ごと受け止めた時、同じ水平線を見つめられる瞬間が訪れる。言葉に向かっていくきっかけになった。」
この和合氏の発言を、手帖でたどると以下のところである。
「和合 私は本当のことをいうと、人の話を聞くのは苦手なタチなんですが、この十年間、ずっと地元の方にインタビューを続けてきて、その人の話を聞きながら、その人の呼吸だったり、言葉の綾だったり、ふと言葉が止まってしまったりするところに、とてもポエジーを感じてきたということがくり返しありました。
…私は震災後、…、ふるさとの姿を喪失してしまったような気がしたのですが、たくさんの方々のお話に耳を傾けているうちに、その言葉の流域といいましょうか、声の水の流れのようなところにふるさとの懐かしい姿が見えたような気がしたんです。…」(手帖80ページ)
和合氏は、この十年、地元でずっと真摯にインタビューを続けて、人々の言いよどむ箇所に詩を感じてきたという。続けて、
「ご主人を亡くした方に話をうかがったことを思い出しました。……毎朝毎晩仏壇で手を合わせて、父ちゃんこうやっていつもお祈りしているんだから、たまに出てきたらどうだ、というふうに話をしたんだけど、なかなか出てこない、いままで二回しか出てきたことないんだ……と、聞いたことがあるんですね。それを耳にしたときに、生と死の境目が自分のなかで一瞬にして変わってしまった、いわば心の潮目の変わり目のようなものがありました。」(手帖81ページ)
夫を亡くした女性が「(父ちゃんが)なかなか出てこない」で言い終わるのかと思ったら、終わりではなかった。「いままで二回〈しか〉出てきたことがない」と続く。亡くなったはずのひとが、二回も目の前に現れた、という。有り体に言えば、夢に出てきた、ということではあるのだろうが、それは、女性にとっては本当のことだったに違いない。そこで、和合氏の「生と死の境目が…一瞬にしてかわってしまった」という事態が生じた。女性の生にとっての真実が、同じ部屋、同じ場所にいて話を聴いている和合氏の生の真実となったということだろうか。そこに、詩が生まれる、ということだろうか。
【和合氏の果たした役割】
震災後、和合氏が若い世代に与えた大きな影響について、新聞では記者の要約として記されているところ、手帖では、吉増氏が、次のように語っている。
「吉増 和合さんの果たした役割について、若松英輔さんが非常に正確に捉えていらっしゃる…のですが、…『一番大きな役割は、新しい詩人たちを生んだことです。ツイッターから放たれた一連の詩を読んで、新たに詩を書き始めた人たちを生み出したことだと思います。少なくとも私はその一人です』と。」(手帖81ページ)
若松英輔氏は、批評家、「霧の彼方 須賀敦子」など、私も何冊か読ませていただいている。詩を書かれることはどこかで目にしてはいたが、和合氏のツイッター連投がきっかけであったとは存じ上げなかった。和合氏の行為から新たな詩人たちが生み出されているとすれば、これは大きな出来事である。
【i.sa.na、鮎川浜の鯨】
吉増氏の、被災地石巻市鮎川浜における大きな出会いのひとつは、鯨であったらしい。現物の鯨であり、同時に象徴としての鯨である。鯨も、文学的な存在であることは言うまでもない。吉増氏は、メルヴィルの『モビー・ディック(白鯨)』を挙げられる(氏は、「ハーマン・メルヴィルの『モ―ビィ・ディック』」と表記される)が、私としては、大江健三郎、近くでは村上龍、村上春樹がすぐ思い浮かぶ。しかし、現物の鯨は、その解剖の現場は、途方もない強度をもったものであった。文学的な知識を超えていく、現場における現物の存在。
「吉増 …この鮎川…で出会うことになったのが、鯨の解剖現場でした。解体といわず解剖というんですけどね。…それがやはり、大変なインパクトでした。ひと言でいいますと、携わる方々のお心の敬虔さ。見たことも感じたこともないような、静かな敬意の持ち方。これは知的なもので捕まえるんじゃなくて、これはいったい何だろうという、途方もない巨大な疑問符として、わたくしのなかに入って来ていたのです。…そこにありますが、…鯨の歯をもらって来て、机の上に置いてね、手と指が、まるで生物のように、…知らない手と指のようにですね、ガラス戸に書くと、巨魚、i.sa.naという言葉が浮かんでくるのです。金華山の向こう側は、震源地でもありますが、鯨のふるさとでもある。そこに向かっているようなのです。」(手帖82ページ)
巨魚は“いさな”と読み、勇魚とも書く。鯨の古称である。
金華山の沖合は、震源地であり、“いさな”、鯨のふるさとでもある。神域であり、サバ、サンマ、カツオ、マグロの産地であり、われわれ沿岸部住民の生業の場所であり、生命の源である。そして生命の断絶の源でもあった。
【未来へ、あるいは、南三陸と気仙沼の子供さんの詩】
新聞では触れられていないが、和合氏は、被災地の子どもの詩とも向きあっておられるという。南三陸町志津川と、気仙沼の子どもの詩を紹介されている。(新聞で取り上げていないのは、もちろん、紙面の字数の都合であって、宮田氏も涙をのんで割愛されたところに違いない。)
「和合 私は宮城県の子どもさんの詩や作文を読む機会が多いのですが、ある小学校一年生の男の子が初めて書いた「まほうのつなみ」という詩を思い出しました。…「…まほうのつなみで/もとのしずがわに/もどるから」。
…子どもさんの言葉に大人たちがすごく励まされたということが非常に多くて、他に代表的なものとしては、…「ありがとう」という詩です。気仙沼の子どもさんが、避難所の救援物資支援の手に、ありがとう、ありがとうって書き続けて、最後に、おじいちゃんを見つけてくれてありがとう、というひと言で終わる詩なんですけど、あれが「河北新報」に掲載されたとき、すごく反響があったとうかがいました。」(手帖97ページ)
引用中、「おじいちゃんを見つけてくれて」というのは、「生存したおじいちゃんを救援してくれた」ということでないのは言うまでもないことである。大切な祖父を亡くしながらも、支援者に向けて「ありがとう」という言葉を発するというこの心根。
これらの詩は、特に地元のわれわれ、本吉郡、気仙沼市のエリアにおいては、改めて読み返し、長く読み継がれていくべきものであるに違いない。(ところで、手帖97ページの和合氏の発言では「女川」とあるが、引用中には「しずがわ」とあるので、おそらくは志津川のお子さんで間違いないだろう。)
【和合氏のはじめの一行と、中也の兆し】
和合氏の、震災直後のツイッターの書き出しの、あの言葉について、まずは河北新報の、編集者の要約と吉増氏の評価。
「〈和合さんが震災直後にツイッターで発信した言葉《放射能が降っています。静かな夜です。》。和合さんは近著で、始まりは心の中の中原中也がつぶやいたものだったと明かした〉」
「吉増 中也の詩句が知らない人の声のように入ってきている。心に誰かの過去が宿っているとも言える。和合さんは(大災禍を)「記憶の未来」の先端で捉えており、記憶の潜在的な能力のアンテナが不思議な生き物のように出てきている。この10年の仕事の姿に、見たことのない(言葉の)「領土」を見た気がする。」
手帖を見ると
「吉増 …中原中也の詩句「あゝ、しづかだしづかだ。/めぐり来た。これが今年の私の春だ。」こうしたものが知らない人の声のように入ってきている。その静けさ。これはほとんどの人がわからない。ということは、わからずに中也の魂の一部分がそこで捉えられているということなのね。しかも、中也の予感というか、ある深さ、天才性に気がつくのですが、そのあとで「地平の果に蒸気が立って、世の亡ぶ、兆しのやうだった。」と書いている。和合さんは、ここまで「詩の礫」の最初のところに、この静けさの断片があらわれてきたんじゃないか。そんなふうに読ませていただきました。手帖手帖89ページ)
中也が、「しづかだ、私の春だ、蒸気が立って、世の亡ぶ兆しのやうだった」と書いていたのだという。それが和合氏の記憶に潜在していた。それが3月の福島の原発の放射能によって呼び起こされた。
改めて読み返すに、和合氏のはじめの一行、《放射能が降っています。静かな夜です。》は、静かに重く深い。その重さは、直面する現実の重さであり、深さは、潜在した中也の詩句を探り当てる深さであろうか。
この一行は、現在までの重層した文学史の中での一行でありつつ、被災地に住むわたしたちにとって、文学史を超えた一行でもある。それはつまり、そのことによって、これからの、未来の文学史に残されていく一行であるに違いない、とわたしは確信する。
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