夜のまちを歩く
目的のないもののふりをして歩く
南町から八日町三日町をとおって化粧坂をのぼり本町のおかのうえまで歩く
歩くうちに何処かで閾を踏み踰える
ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフのように交差点のまん中で大地に接吻したくなる
踏み踰えるとひどい罰をうける
荒野の狼のようにお墓山に向かって吼えたくなる
踏み踰えるとひどい罰をうける
夜のまちを歩く
帰る家のないもののように歩く
南町から八日町三日町をとおって化粧坂をのぼり本町のおかのうえまで歩く
歩くうちにかたちのないエネルギーがかたちの明らかでないかたちをとりはじめる
ドストエフスキーの病のようなもの
輝く黄金のとき
を求めて
本番前のロックスターの過剰なヴォルテージのようなもの
輝く至福のとき
を求めて
ケイキという名のケーキ屋のゴットーという名の菓子を食べた記憶を思い起こしながら
過去に歩くのでなく
このまちを歩く
ゴットーは明日になれば一枚二百円で買えるのだから
あの時のゴットーだけが美味しいのでなく明日のゴットーも同じく美味しいのだから
「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら」「解った例し」のない「鑑賞にも観察にも堪えない」
「人間になりつつある一種の動物」として
生きている限り歩きつづける
常なるモノであろうが
常ならぬモノであろうが
構築し
あたらしく構築し
模倣であろうが模倣でなかろうが構築し
かたちあるものを構築し
歩く
歩きつづける
歩きながら構築する
このまちを歩く
夜のまちを歩く
目的のないもののふりをして歩く
南町から八日町三日町をとおって化粧坂をのぼり本町のおかのうえまで歩く
歩くうちに何処かで閾を踏み踰える
狼になる
気仙沼の狼になる
罪を犯し罰を受ける
はやく人間になりたい
はやく人間になりたくない
注 ドストエフスキーの「罪と罰」の罪という言葉の原義は踏み踰えることだと江川卓は言う。
ドストエフスキーの病とはてんかんである。
ヘッセの「荒野の狼」において主人公は夜の街を徘徊していた
プルーストの「失われた時を求めて」ではマドレーヌ菓子の記憶が重要らしいがケイキのゴットーは美味しい。(もちろん、後藤照夫先生の店のテルゴでもいい。)
「 」内は小林秀雄の「無常といふ事」。
「はやく人間になりたい」のは妖怪人間ベムであった。
その後、集英社の愛蔵版買い求めて読んだ。読み終えることが惜しまれるように読み進めた。
「失われた時を求めて」では、家族で散歩していたな。