塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

新作サッカースパイク

2009-11-18 21:19:29 | 日記
 昨日発売の週刊サッカーダイジェストに、各メーカーの新作スパイクのカタログが掲載されていました。例えばル・コックは軽さと力強さを強調し、プーマはシューレースガードで靴紐を覆うなど、各社の創意工夫が見てとれ、とても楽しかったです。

 ユニフォーム同様スパイクも軽さや履き心地、デザインに至るまでアイディアが出し尽くされた感があり、開発担当の方々はこれから先、何を目標にして新しい技術を生み出すのか、迷うのではないかと思います。

 これは僕の意見ですが、サッカーもバスケット同様エア・クッションのような、衝撃吸収に活路を見出したらどうでしょうか。エア・バッグの開発と進化が自動車事故から僕たちを守ってくれるように、衝撃吸収がスパイクに今以上に備わったなら、靭帯やアキレス腱の故障から、多くの選手が救われると思うのです。

 来年のワールドカップに向けて発表されるであろう、各メーカーの新作スパイクに僕は興味深々です。
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天才の存在価値

2009-11-18 20:45:52 | 日記
前回、前々回のブログで天才の好不調の波の原因を僕なりに探ってみました。現代サッカーにもう天才の居場所は無いのでしょうか。僕たちは閃きや創造性のかけらも無い、無味乾燥なサッカーしか見る事ができないのでしょうか。
 
 そんなことは無いと思います。バッジョやマラドーナが光り輝いた90年代と、2000年代の現代では天才をとりまく環境が激変しましたが、天才も進化しその存在価値を見失ってはいないからです。これからその理由を述べたいと思います。

 1・天才がフィジカルに強くなった。
 皆さんは天才が故障に弱いという印象はないでしょうか。恐らくバッジョの影響が強いのでしょうが、僕には天才は故障に弱いという印象があります。ルイコスタもケガに見舞われましたし、ロナウドも幾度となく手術を受けています。

 天才の多くは試合中消えている時間が多い。その上故障癖があるとすれば監督から見てこれほど使いずらい存在はありません。サッカーにはタイムアウトがありませんし、交代枠も「3」と非常に限られた物です。
 今の監督は交代枠を負傷者の為に使うのではなく、戦術を是正するために用いることが多いですね。ですから負傷者がでてしまうと、交代プランをイチから考え直さないといけません。
 ですから監督はますます天才を起用しなくなります。

 しかし近年カカやロナウドのように、卓越した技術とフィジカルを併せ持った選手が出現するようになりました。そのプロトタイプがトッティと言えるでしょうね。30も半ば近くになり年齢が感じられるようになりましたが、全盛期の彼は文字通りローマというクラブと街を背負っていました。
 ふたつの重責を担うことができたのは、彼が技術だけでなくフィジカル(体力と接触プレイに対する力強さ)に強かったためです。
 これから天才が生き残るには、フィジカルに強い事が求められると思います。

 2.フリーキックの美しさ
 天才といえども全てのマークを交わせるわけではありませんし、時にはゾーンの網にかかることも多いでしょう。しかし天才が攻撃陣に集中している事を考えると、ゴール前でのセットプレイは得点の大きなチャンスになります。
 フリーキックの名手ジャンフランコ・ゾラは「PKよりもFKの方が簡単だよ。」と語ったそうです。フリーキックは壁がGKの視界を遮るが、PKは遮る物が何も無いという彼の意見は非常に理に適っています。

 2006-07シーズンのチャンピオンズリーグの対マンチェスター・ユナイテッド戦で見せた中村俊輔の2度のフリーキックを、僕はテレビのハイライトで何度も見返しましたし、セルティックのファンもそうでしょうね。
 守備戦術が高度化しフォーメーションもこれ以上の変化が難しい今、フリーキックの美しさは今まで以上に僕たちの心を捉えることでしょう。
 フリーキックのキッカーに、天才と呼ばれる選手が任されることが多い事も、偶然ではないでしょう。

 僕なりに天才が生き残る理由を2点挙げてみましたが、高度な戦術を打破るには、戦術で対応するよりもひとりの絶対的な個の持つ力に賭けた方が簡単です。プロといえども才能にバラツキがあるのは当然ですし、組織にオートマティスズムを植え付けるまでは、途方もない時間がかかる上、それ以前に監督が解雇されてしまうかもしれません。

 皮肉な話ですが監督が天才を救えなくとも、天才は監督を救うことができるのです。異例を挙げますね。
 1999-2000シーズンのインテルは、チャンピンズリーグ出場を賭け、プレイオフでパルマと対戦しましたが、この試合2ゴールを決め指揮官のマルチェロ・リッピを救ったのは、リッピからないがしろにされ続けたバッジョでした。

 やはりいつの時代も天才は生き残る価値があるといえます。
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どうして天才は調子に波があると言われるのか(2)

2009-11-18 12:48:30 | 日記
 たったひとりの天才が母国をワールドカップ王者に導く。1986年のアルゼンチンとマラドーナがそうでした。マラドーナはたったひとり、チームから何一つ制約を受けませんでした。そして他の10人は「マラドーナがきっと何とかしてくれる」と信じ、彼の為に守備をし彼の為にオープンスペースを作り続けました。

 現代サッカーでは到底みることの出来ない光景が、20年前には存在したのです。
 現代サッカーは試合と試合の間隔が短い上、スケジュールはみっちりと詰まっています。強豪クラブの選手達は年中トレーニングに明け暮れ、年間多い選手で70試合を戦わねばなりません。
 そして指揮官とコーチたちは、対戦相手の研究とチームのトレーニングに集中しないといけません。

 この過酷な状況が天才たちの活躍を制限する環境を生み出しています。
 例えばロベルト・バッジョは「89分沈黙しても最後の1分で結果を出す」と謳われました。
 実際にその通りになったとしましょう。
 でもバッジョの為に動き続けた他の10人の選手達は、疲れをひきずったまま次の試合に向けて準備をしなければなりません。もし結果が伴わなければ疲労の度合いは更に高まるでしょう。

 そうです。過密スケジュールの現代サッカーで例え1試合でも、「天才+10人」は実質10人で戦っているのと同じ事です。選手の体力と精神の消耗どちらの観点から見ても、指揮官が天才を除外したくなる背景が見えてきます。

 バッジョが引退直前まで所属していたブレシアは、セリエAとコパ・イタリアの二つのコンペティションに集中できる環境にあったからこそ、指揮官カルロ・マッツオーネは、バッジョを常に先発出場させることができたのです。もしブレシアが欧州カップへの参加が決定していても、マッツオーネはバッジョの起用を躊躇しなかっあと思いますが、勝ち残る事は難しかったでしょうね。
 もちろんマッツオーネはバッジョを生きた題材として、選手達に彼の技術を盗んでもらいたいという目論みもあったと思います。

 冒頭で紹介したマラドーナの例も、ワールドカップとという期間限定の間だからこそできたという見方もできます。もしリーグ戦の期間この戦い方を用いたなら、仮にそのシーズンは結果を残せても、翌シーズンの苦戦は免れません。

 今はスカウティングの技術が発達している為、マラドーナクラスの天才といえど簡単に丸裸にされてしまいます。また天才といえども毎試合結果が残せるわけではありませんし、前回のブログで述べたように天才の多くは、好不調波を抱えています。

 げんだいサッカーでは「天才と10人」で構成されるチームは、ハイリスク・ハイリターンの典型と定義できると思います。
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どうして天才は調子に波があると言われるのか?

2009-11-18 12:22:40 | 日記
 天才と呼ばれる選手達の多くは、「彼らは好不調の波が多すぎる」と指揮官から糾弾され、その存在価値がなかなか認められません。どうして天才は常に一定の間、自分の持てる力を発揮できないのでしょうか。
 
 僕はその答えは「制約」にあると思います。

 例えば僕たちが会社に居るのが苦痛なのに、休日は楽しいと思うのでは何故でしょうか。それは会社が人間関係から仕事の進め方にいたるまで、ありとあらゆる制約でしばられているからです。
 自分の責任で仕事を進められる人間よりも、上司の指示を仰ぎながら仕事をしなければならない人間の方が圧倒的に多いはずです。でも上司だって重役クラスの視線に耐えていますし、重役や社長クラスは社内に制約は無いかもしれませんが、株主からの制約に肝を冷やしているわけです。

 僕はスーパーの店員という立場上、会社勤めの方々ほどの制約があるわけではありませんが、それでも日常のスケジュールは上司が定めたものに従って動いています。
 良い事ではありませんが、上司が休日で不在の時には、定められたスケジュールを無視して、以前から取り掛かろうと思っていた仕事を、思い切りすませる時もあります。これは自分の決済で勧めているので、例え思ったとおりに進まなくても、ストレスにはなりません。

 休日の過ごし方も同じ事がいえますね。実は休日ひとつにしても僕たちには、あらゆる制約がかかっています。ただかけているのが自分だから、普段は気にも止めませんし苦痛にも感じません。
 自分の考えた予定を自分で修正しながら休日をすごしても、楽しいかつまらないかの決定は自分の判断ですから、他人に迷惑が及ぶ事もなければ批判される筋合いもないわけです。

 天才と呼ばれる選手達は、時に常人では考えられないようなファンタスティックなプレイをするときもあれば、考えられないくらいの覇気の無さを感じる時もあります。
 どちらの表情もその選手の持つ本来の姿です。
 選手は監督が定めた戦術を遂行し、同時に結果を求められます。つまり選手の動き方ひとつにしても、監督からの制約がかかっているわけです。かつてのフィリップ・トルシエとフラット3がそうですね。

 天才は監督の指示をぞんざいに扱っているわけではなく、むしろピッチに立ちながらより良い動きを模索し、その動きが閃いたなら実際に行動に移している。その動きが戦術から逸脱しチームの和を乱している。というように見られているのでしょう。

 サッカーは自分の判断で様々な動きができますが、実際にはそうでもないのかもしれません。制約を言い換えれば「チームの中での約束事」になりますから、約束事は守ってもらわないと、監督が困ってしまうわけです。激高タイプの指揮官は選手が言う事を聞かないのであれば、試合後の会見で名指しで選手を批判してしまうでしょう。

 ただファンタスティックな選手が、従来の枠組みに押し込む事ができないのも事実です。不思議な事に敵味方関係なく拍手を送りたくなるような、ファンタジーに溢れるプレイは、制約の枠の外で現れるものなのです。

 それはサッカーが今よりものどかな物だった50年代や60年代から変わらない、不変の存在でした。
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