今日は随分難しいタイトルになってしまいました。しかも、旅行とは関係のない分野ですし、果たしてこのブログに相応しいテーマなのか?迷いました。
前に紀野一義さんについてお話しました。自分の人生の指針みたいな本を書いた先生だと思い、この方を勝手に「人生の師」にしてみたいと思っています。
ところで、タイトルの「而今(にこん)の歎異抄」といいますのは、紀野先生が書いた歎異抄講義という本の序章に出てくる言葉です。
こんな日誌を見ていると、つまらないことを始めたな!と思うでしょうね?だから、カテゴリも「本と雑誌」にしたのですが、小生がブログにするのですから、そんなに難しいわけはありませんので、ちょっと間だけ、おつき合い下さい。
元に戻っていただいて、紀野先生によれば「而今」について次のように述べています。
「歎異抄に記されている親鸞の言行は、今の私には、現に私の目の前で起こっている出来事のように鮮烈に感じられる。これを道元は「而今」といったのだが、私は而今の歎異抄、而今の親鸞を描き出してみたい。」
ということは、而今とは、遠い昔のことでも、今の出来事のように感じられるということでしょうか?
この本の序章の中で面白いのは、「私は、若い頃、道元の『正法眼蔵』有事(うじ)の巻を読んで非常な衝撃を受けた。道元はそこで『経歴(きょうらく)』ということを説いている。ひらたくいえば、時というものは過去・現在・未来という方向にのみ動くのではなく、未来から現在へ、現在から過去へと自在に動くものだというのである。」
さらに、「これを知ってから、道元や親鸞や日蓮が鎌倉時代に出た宗教者という考えはなくなった。鎌倉時代は実に今であると考える、いや、実感するようになった。」
どうですか?この考え方は理解できますか。小生のような凡人にはとても感じることができない世界を歩いている先生だと思いました。
さらに、先生は、次のような言葉で締めくっています。
「書いても書いても書き足りないほど文章はどんどんあふれ出してくる。而今は、過去にも、未来にも深くかかわっているので、過去に思ったことも未来に思うであろうことも、ことごとくあふれ出してくるのであろうか。私という人間をそんな風に駆り立ててゆく歎異抄は恐ろしい本だなと思う。素晴らしい本だなと思う。十年たったら、またどんなことがあふれだしてくることだろうか。」
小生には親鸞の歎異抄はまったく理解できませんので、恐ろしくはないのですが、先生のように専門分野を深く研究されている方を尊敬し、また、そういう方々の人生は、さぞ充実しているのではないかと思ったのです。
どんなことでも良いから専門家になって、自分を磨きながら充実した人生を送る、というのは理想ですが・・・
本日のレポートは、本人が理解できない内容でした。
、