ロック探偵のMY GENERATION

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『怪獣大戦争』

2019-07-01 17:01:39 | 映画

 

 

最近、amazonプライムで、ゴジラシリーズの作品が見られるようになっています。

 

ゴジラの新たな映画公開にあわせてということなんでしょう。

これまではなかったんですが、一気にゴジラシリーズの全作がプライム枠に追加されたようです。私も、ゴジラシリーズで見てない作品は多くあり、せっかくの機会なので、それらを視聴しています。

 

それで、ゴジラシリーズの作品のいくつかについて書こうと思いました。

 

このブログでは、一度設定をリセットしたシリーズ映画について書いてきましたが、ゴジラシリーズもその一つといえるでしょう。最初のほうこそ連続性がありますが、やはりおよそ30作もあるシリーズでは全体を連続させることは難しく、幾度か設定がリセットされています。そういう意味では、ここまでの映画記事の流れにも乗っているわけです。

 

 

で、まず最初に紹介するのは、『怪獣大戦争』です。

 

シリーズの6作目。

このあたりまでくると一作目からの連続性はあいまいになっていますが、本作は、前作『地球最大の決戦』を踏まえた内容になっています。登場する怪獣も、モスラ以外は前作とかぶっています。

 

本作では、「X星人」なる宇宙人が登場。

地球の探査船がX星に着陸したところ、このX星人たちが地球人を出迎えます。

彼らがいうには、X星は宇宙怪獣キングギドラの攻撃にさらされており、そのため地底での生活を余儀なくされている。そこで、そのキングギドラに対抗するために、地球の怪獣であるゴジラとラドンを貸してほしいと申し出ます。

しかしこれが罠で、X星人たちは、ゴジラ、ラドン、キングギドラを操って地球を侵略しようとするのです。

地球人の側は、どうやって怪獣たちに立ち向かうのか……という作品です。

 

この時期のゴジラ全般にいえることですが、さすがに現代の特撮技術と比べてチープな感じが否めません。

後のゴジラからするとサイズが小さく(そもそも設定上のサイズが小さい)、プロポーションの問題なのか、いかつい感じがなく、アクションも重量感に欠けるように思われます。

そのあたりは、以前『キングコングVSゴジラ』の記事でも書いたことですが……モノクロの時には目立たなかった粗い部分が、カラーになって目立つようになったというところもあるでしょう。

こういう感じはいわゆる第一期(15作目まで)の作品に共通しています。むしろ、第一期の後半になると、予算の問題なのか、映像的に退化しているようにさえ感じられる場合もあるのです。

 

それはともかくとして……『怪獣大戦争』では、ゴジラが「シェー」のポーズをしてみせる場面があったりします。

そういったシーンをどう見るかは人それぞれでしょうが、私はあまり好きになれません。

ゴジラはもともと核の恐怖を象徴する存在として描かれていたわけで……それが次第に“正義の味方”に変化していくさまに戦後日本の姿が投影されてもいるのだと思いますが、しかし、いくらその立ち位置が変化するとしても、あまりにもコミカルな描写は避けてほしかった。まあ、第一期では後になるにつれてそういう傾向が顕著になってるんですが。

 

もちろん、最後には地球怪獣であるゴジラ・ラドン組がキングギドラを破って勝利します。地球人たちも独自の技術でX星人を退け、地球の平和は守られるのでした。

 

しかし、ゴジラが勝ってめでたしめでたし……というのは、やはりゴジラというもののそもそもの出発点からすると、奇妙な話です。

前作『地球最大の決戦』もそうだったんですが、この背景にはやはり戦後日本の変化があるのでしょう。

キングギドラという強大な外敵との“戦争”を前にして、恐怖の対象であったはずのゴジラが自分たちを守ってくれる存在になる……そこに、戦後日本の核に対する姿勢が重なって見えるのではないでしょうか。キングギドラ撃退後、ゴジラ(とラドン)は海に落ちて生死不明――というラストは、脅威であると同時に、味方でもあるという、その微妙な距離感が表れているように思えます。

それからさらに作品数を重ねるにつれて、その微妙な距離感も失われ、第一期ゴジラは完全に“正義の味方”になっていくわけですが……『怪獣大戦争』は、その転換期にある一作といえるのではないでしょうか。