今回は、音楽記事です。
先日の記事で、フォークゲリラに関するドキュメントについて書きましたが……そのフォークゲリラにおいてアンセムのように歌われていた歌がありました。
それは、岡林信康さんの「友よ」。
というわけで、今回は岡林信康さんについて書こうと思います。
はじめに、もう少しフォークゲリラのことを書いておきましょう。
大木晴子さんは花束デモではじめてデモのなかで歌を歌い、その2か月後に新宿のフォークゲリラがはじまるわけですが……その間の重要なできごとして、大阪訪問がありました。
花束デモには大阪からきたメンバーも参加していたようで、大木さんと仲間たちは彼らの活動を参考にしようと、大阪へ。そこで見聞きしたことをもとにして、新宿のフォーク集会を立ち上げていくのです。
そうすると、いわゆる関西フォークの影響が及んでいるとみることもできるでしょう。
象徴的なのは、大木さんが大阪でギターを買ったということです。
ギター弾きである仲間に選んでもらってギターを買い、東京へ帰る汽車のなかで練習。そして弾けるようになったのが「友よ」でした。
Tomo yo (Live)
このときマスターしたのが「友よ」だったというのも、象徴的です。
というのは、この曲は、非常にコード進行がシンプルなのです。
原曲キーだと短時間では難しいでしょうが、1カポか半音下げたキーにしてやれば、かなり簡単になります。基本的にスリーコード(D,G,A)のみで、バレーコードがないどころか左手側の小指を使う必要もない……数時間の練習で弾けるようになるのもうなずけます。
すなわち、シンプルであるがゆえに、誰でも弾ける、歌える、ということです。誰でも歌えるからフォークソングなのであって……そういう大衆性があるがゆえに、そこまで音楽に打ち込んでいるわけではない学生たちが運動に取り入れることができたわけです。
ただ、この点に関しては賛否あるでしょう。
そうした学生運動でフォークソングが歌われていることを、政治利用と批判する声もあります。当の学生たちの間でも、そういう葛藤はあったようです。歌は、音楽は、政治運動のために利用されていいものなのか、と……
そうした葛藤は、歌を作った本人である岡林信康さんにもあったかもしれません。
……ということで、ここから岡林信康さん本人について書いていきましょう。
前に一度どこかで書いたと思いますが、岡林さんはもともとはURCレコードから作品を発表しました。
URCはいまでいうインディーズレーベルで、メジャーのレコード会社から発表を拒否されたために、ここから出ることになったわけです。
その発表を拒否された曲の一つが「くそくらえ節」。
くそくらえ節
まさに、URCフォークというべき曲です。この頃の岡林さんは、こういう曲をよくやっていました。
たとえばボブ・ディランのカバー「戦争の親玉」。
高石ともやさんがつけた日本語詞で歌っています。
Sensou no Oyadama
高石ともやさんはURC創設にも関与した人で、この人との出会いは岡林さんがフォークをはじめる一つのきっかけでもありました。
セカンドアルバムから「私たちの望むものは」。
フランスの五月革命に触発された歌といいます。
Watashitachi No Nozomumonowa
JACKSのカバー「ラブ・ゼネレーション」。
JACKSもまた、URCを代表するアーティストといえるでしょう。岡林さんのファーストアルバムでバックバンドをつとめたのも彼らでした。
Love Generation
これらの曲は、しびれます。
ちなみに、「見る前に跳べ」というアルバムのタイトルは大江健三郎さんの小説からとったもの。そういうところもふくめて、この時代の空気が濃厚に漂っています。
しかし、時代の変化は“フォークの神様”を複雑な立ち位置に追いやります。
多くのフォークシンガーと同様、岡林さんも60年代風のフォークソングを歌い続けはしませんでした。
田舎に移住し、演歌をやり、テクノポップみたいなことをやり、民族音楽をやり……それらの時期の作品は、とても同一人物とは思えないぐらいに音楽性が変っているのです。
そこには、“フォークの神様”と呼ばれることに対する反発があったといいます。
そういうレッテルに縛られず、自分のやりたいことをやりたいようにやる……それは、たとえばボブ・ディランの生き方に通じるものがあるかもしれません。
ただ、私が思うには……それはそれで、どこか無理をしているような気がするのです。
僭越ながら、この時期の活動には、なにか虚構めいたものがつきまとっている臭いを私は感じています。
日本的リズムの追及や、ムーンライダーズとの共同作業など、意義深い活動は多くあります。しかしどこか、なにかを避けているような感じがあるのです。
それは、商業的な意味での成績がどうこうということとは、また別の話です。時代の変化を考えれば、おそらく旧来のフォークソングをやり続けたとしても商業的な成功は期待できなかったでしょう。そういうことではなく……もっと根源的な部分の問題としてです。
2000年ごろから、およそ20年にわたって作品を発表しない時期が続くわけですが、それも自分自身がある種無理があることを感じていたからではないか。ゆえに、JACKSの早川義夫さんと同じような失語症的状態にとらわれていたのではないか……ライブでも「友よ」を封印していたというのは、その一つのあらわれじゃないでしょうか。
尾崎豊のことを歌った「ジェームズ・ディーンにはなれなかったけれど」という歌があるんですが、この歌に関して、自分が東京にい続けたら尾崎のようになっていただろうといったようなことを岡林さんは語っています。
26歳で尾崎は死んだ。そして岡林信康は、26歳で田舎に移住した……それはつまりは、“フォークの神様”は死んだということではなかったでしょうか。そして、自分のやりたい音楽をやりたいようにやりながらも、岡林信康というアーティストは、死んだ神様の抜け殻のようなものをどこかで背負い続けていたのではないかと私には思われるのです。まるで十字架のように……
そんなふうに考えると、ファーストアルバムのジャケットに描かれる十字架の影はまるで預言のようです。
思えば、尾崎豊の最後のアルバム『放熱への証』のジャケットも、十字架が描かれていました。
それは、時代の寵児となったがゆえに背負った十字架ということでしょうか。
岡林さんは牧師の家庭に育ち、同志社に進んだ人。ミッション系の青山に通っていた尾崎……と、案外この二人には共通項があるのかもしれません。
ただし……尾崎はその十字架を背負って死んだわけですが、岡林信康という生身の人間は死にはしませんでした。
そして、『復活の朝』があるのです。
岡林信康 復活の朝
昨年発表された、23年ぶりのアルバム。
このアルバムでは、社会風刺のような歌も聞かれます。タイトル曲は、コロナ禍におけるニュースを聴いているうちに、歌が浮かんできたのだとか。
「作詞作曲の岡林信康は終わったんだな」と思っていてた岡林さんは、「歌がボロボロ出てきた時はびっくりしたよ。自分でも、おかしいな? って(笑)」「とにかく自分の中にあったものが出てきた。そういう感覚やね。 」と語っています。
それがつまりは、無理に封印していた“フォークの神様”が岡林信康という人間の肉体において受肉・復活したということだと私には思われるのです。
このアルバムには、70年ごろのフォークソングのようなメッセージ性があります。
独裁政治の危険に警鐘を鳴らす「アドルフ」。
地球温暖化について歌う「BAD JOKE」……
そして、アルバムの最後は「友よ、この旅を」という歌でしめくくられています。
本人も語るとおり、これは「友よ」へのアンサーソング。
そうすると、やはりこのアルバムは、“フォークの神様”がもとの場所、本来あるべき場所へ戻ってきたということだと思うのです。
陽は沈み陽は昇る
歩いて行こう
と、「友よ、この旅を」では歌われます。
これは、「友よ」において「夜明けは近い」と歌ったことへの総括でもあるのです。
喜びも悲しみも
受けとめてかみしめて
この旅を行こう 友よ
終わりの日まで
夜が明けて「輝くあした」がくるというのではなく、夜と夜明けは繰り返される。それを受け止めて歩いて行こう……かつての学生運動の挫折と、その後の日本社会のありようを踏まえた答えがこれだったということでしょう。
岡林さんは、これが最後のアルバムになると宣言しているそうです。
そのフィナーレにあたる「友よ、この旅を」は、“フォークの神様”のキャリアをしめくくるのにふさわしい曲といえるのではないでしょうか。