ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』(宝島社文庫)発売中です!

ビートルズ記念 1st, 2ndアルバム60周年

2023-06-29 21:34:35 | 日記

今日は6月29日。

日本におけるビートルズ記念日です。
そんなわけで、今年もビートルズについて書こうと思います。


最近気づいたんですが、今年はビートルズのファーストアルバム(とセカンドアルバム)が60周年なんですね。
レコードデビューは前年1962年にシングルLove Me Do で果たしていますが、アルバムは1963年からなのです。

ということで、還暦を迎えたファーストアルバムPlease Please Me のタイトル曲。

Please Please Me (Remastered 2009)

このアルバムが30週連続でチャート一位になり、そにれ代わって一位になったのが同じビートルズのセカンドアルバム With the Beatles だった……というのが、ビートルズ伝説の始まりということになります。


結局ビートルズの何がそんなにすごかったのか、というのは議論百出ということになるでしょうが、正直なところ、私はビートルズをそこまで特別なバンドとは考えていません。どちらかといえば、当時の一般的リスナーと音楽を供給する業界人との間に価値観の乖離が生じていて、ビートルズがその隙間を埋めたということなんじゃないかと思ってます。
どこかで一度書いたと思いますが、ビートルズはレコードデビューするまでに5つぐらいのレコード会社にデモテープを送ったものの、ことごとく契約を断られています。これがつまりは、一般リスナーと業界人との間に生じていた乖離ということでしょう。ちょっと前に書いたボブ・ディランの「時代は変わる」というのと同じで、その変節点にビートルズは存在したのです。

人によって議論が分かれるとは思いますが、純粋に音楽的な技術という点でいえば、ビートルズはそんなにたいしたものではないというのが、評論家筋では一般的な評価だと思われます。
この4人のアンサンブルが……的なこともいわれますが、60年代前半ぐらいの技術的制約などから、その「4人のアンサンブル」というふうになってない曲も少なからずあるわけです。ファーストシングル Love Me Do でドラムを叩いているのがリンゴ・スターではないというのがその代表例でしょうが、これもリンゴのドラムが微妙だったからということで……あるとき「リンゴは世界最高のドラマーだと思うか」と問われたジョン・レノンが「リンゴはビートルズのなかでも最高のドラマーじゃない」と答えたというのは、あながちただのジョークではないのかもしれません。

もちろん、技術がどうであろうと、ビートルズというバンドがロック史上に残した業績が否定されるものではありません。だからこそ、60年がたったいまでもビートルズは愛され、リスペクトされ続け、AIを駆使して新曲をリリースするなんていう話になったりするわけでしょう。
ここで、そのリスペクトを示す一例としてWith the Beatles 収録のAll My Loving を。
エミリー・リンジさんという方のカバーです。

All My Loving - The Beatles (Cover by Emily Linge)

私も小規模なライブハウスなどにたまに出入りする人間ですが、そういった場所でこの曲をやっているのを時おり耳にします。60年前の歌であるにもかかわらず……これがまさに、ビートルズの存在感ということなのです。



プリゴジンの乱

2023-06-26 23:33:15 | 時事



先日ロシアで、プリゴジン率いるワグネルの反乱がありました。

すぐに収束ということにはなりましたが、ますますロシアは無茶苦茶になってきているなという印象です。


今回の件を、室町時代に有力大名が武力をちらつかせながら幕府に対して自分の要求をとおそうとした“御所巻き”になぞられる見方が出ていますが、そうだとしたら、もう中世の世界ということです。

しかしながら、事情はもう少し複雑なようで……プリゴジンさんの家族が脅迫を受けていて、それでモスクワへの進軍を断念したという話もあるようです。で、ベラルーシへ出国することになっているプリゴジンが現在消息不明という……ベラルーシからキーウを攻撃するという説もあるようですが、こう話が中世めいてくると、いったんどこかに潜伏しておいて、ふたたび挙兵という可能性もあるんじゃないでしょうか。
いずれにせよ、今回の件は、ロシアという国がもはや近代国家の体をなしていないということを鮮明に示したといえるでしょう。これが、独裁専制国家の成れの果てということです。



沖縄慰霊の日 2023

2023-06-23 23:02:58 | 時事


今日6月23日は、沖縄慰霊の日です。

太平洋戦争において、沖縄での組織的戦闘が集結した日……ということで、今年もちょっと沖縄について書こうと思います。


沖縄については、これまでにも何度も書いてきましたが、最近ゴジラ映画の記事でちょっと関連する話があったので、そこにからめて書きましょう。

ゴジラ映画に沖縄が登場するのは、先日ファイナルウォーズの記事でちょっと言及した『ゴジラ対メカゴジラ』です。
1974年に公開されたこの映画は、ちょうど返還直後の沖縄が舞台であり、当時の状況をめぐる複雑な陰影が描き出されていました。沖縄の古王朝の末裔が、沖縄の守護神であるキングシーサーに対して「ヤマトンチュを滅ぼせ」というなど……
この描き方には、沖縄は「被害者」であるという本土側のうしろめたさのようなものがあったと思います。太平洋戦争において沖縄を本土の捨て石にした、そしてその後、沖縄は占領の辛酸をなめることになった。沖縄を犠牲にすることで、本土は繁栄を遂げた……そのことに対する、気後れのようなものが、先のシーンににじみ出ているのではないでしょうか。
しかし、このシーンだけを切り取ってみれば、沖縄は本土を敵視している、というふうにもとれるわけです。
この、じつは表裏一体である二つの立場のあいだで揺れてきたのが、本土の沖縄観だったのではないでしょうか。
沖縄が本土を恨んでいる、敵視していると見るのであれば、本土側からも沖縄を敵視する立場が出てきます。そして両者は圧倒的に非対称なので、本土が沖縄を敵視する視線は差別意識の発露という色彩を帯びてきます。本土にあっては、この立場が年々強くなってきているようにも感じられるのです。
そんなふうに考えると、ファイナルウォーズにおけるキングシーサーがX星人に操られて人類の敵となり、核によって誕生した怪獣であるゴジラに倒されるというストーリーには、いくらかひっかかりを感じもします。まあ制作側にはそこに何かの意味を持たせるような意図もなかったでしょうが、意図せずして表象してしまっている何かがそこにあるのかもしれません。


さて……
ここまではゴジラの話でしたが、もう一つ日本を代表する特撮ヒーローとして忘れてならないのはウルトラマン。
ウルトラマンもまた、沖縄とは深いつながりがあります。
以前一度書いたと思いますが、初期ウルトラマンを支えた脚本家の金城哲夫と上原正三は沖縄の出身であり、ウルトラマンの故郷である「光の国」はニライカナイのイメージがあります。
ウルトラシリーズについても、最近このブログで結構書いてきました。
それらの記事でも再三書いてきたように、ウルトラシリーズの背後には、「人間の物語」というテーマがあります。ウルトラマンはいつかはいなくなる。ウルトラマンに頼るのではなく、自分の力で生きていかなければならない……このテーマは、沖縄について考えるうえでも重要なのではないでしょうか。



映画『ゴジラ FINAL WARS』

2023-06-19 21:54:48 | 映画

ひさびさに、映画記事です。

先日ELPの記事を書き、そこからの派生で、キース・エマソンがフォーサイス原作の映画『戦争の犬たち』で音楽を手がけていたという話がありました。

キース・エマソンという人は、それ以外にも映画音楽をいろいろやっています。
邦画としては『幻魔大戦』なんかが有名ですが、実は彼はゴジラシリーズの作品でも音楽を手がけています。
それが、『ゴジラ FINAL WARS』。
ということで、今回はひさしぶりのゴジラシリーズ映画記事として、このゴジラ史上最大の問題作について書きたいと思います。


『ゴジラ FINAL WARS』 | 予告編 | ゴジラシリーズ 第28作目

『ゴジラ FINAL WARS』は、いわゆるミレニアムシリーズの最終作にあたります。

公開は、2004年。これはゴジラ生誕50周年という節目にあたります。
そのアニバーサリーにふさわしいゴジラの集大成的作品が構想されます。そして同時に、その集大成をもって、ゴジラシリーズは完結するとされていました。

そういう位置づけの作品なので、ファイナルウォーズには相当なエネルギーが注ぎ込まれています。

シリーズ最多の怪獣が登場。
上映時間も最長。
制作にかけた金額も最高……

そして、俳優陣も豪華です。
こんな大物が、あんな意外な人が、というのをあげていくとキリがないぐらいですが、主要キャストを列挙すると、主演に松岡昌宏さんと、菊川怜さん。前作から、小美人役として長澤まさみさんも引き続き登場。ミレニアムシリーズで続いていたトレンディ女優路線を継承します。また、水野真紀さんも登場し、これでもかというまでに美女要素が盛り込まれています。
肉体派としてケイン・コスギさんも登場し、人間側のアクションを補完。そして、このブログ的にはずせない人物として、泉谷しげるさんが結構重要な役で出ています。
さらに、昭和ゴジラ作品で知られる水野久美さんや、宝田明さんが登場。特に、水野さんは「波川」という『怪獣大戦争』出演時の役名で登場するなど、往年のゴジラファンにアピールするようなキャスティングもありました。
ここに音楽がキース・エマソンとくるわけですから、キャストやスタッフは相当に豪勢です。
まさに50周年、そして最後のゴジラ作品という、この作品にかける意気込みが伝わってきます。

しかしながら……結果としては、その意気込みは空回りしてしまったといわざるをえません。
このファイナルウォーズ、興行成績はかなり悪く、観客動員数はミレニアムシリーズの中で最低。ゴジラシリーズ全体で見ても、歴代ワースト三位となっています。海外ではそれなりに高く評価されているようですが、日本ではだいぶ評判が悪い作品となっているのです。


アニバーサリーとか、複数の映画制作会社のコラボとかで総力を結集したような映画が壮大にコケるというのは映画史上よくある話で、近年でいえば『大怪獣のあとしまつ』がその例といえるでしょう。
私が見るところ、こうした例に共通しているのは人選ミスです。
豪華なキャストやスタッフを集めるということで、ネームバリューに注目してしまい、その作品に適しているかどうかが十分に考慮されていないという……

とりわけ、監督選びの失敗がその最たるものです。
おそらく、話題性を出そうという意図もあって、「あの○○が映画初監督」とか、「△△界で名を馳せた□□監督が特撮に初挑戦」みたいなことをやってしまうのです。これが、あとからみれば、なんで大事なアニバーサリー作品の監督をその人にやらせたのか、みたいなことになってしまうわけです。

そして、『ゴジラ FINAL WARS』は、まさにその轍を踏んでしまいました。
すなわち、北村龍平監督の起用です。

この人選に関しては、その前年に同監督の『あずみ』があって、それを見た富山省吾さんがオファーしたといいます。
富山さんとしては、怪獣特撮映画の枠を超えた作品を作りたいという意図だっといいますが……ここが最初のボタンのかけ違いではなかったかと思います。
別に北村龍平さんがどうこうということではありません。ただ、少なくともゴジラ映画の監督としてはミスマッチだったのではないかと。

外部の監督としてゴジラを撮った人は4人いて、北村監督はその一人です。
ほかの3人というのは、大森一樹(『ゴジラVSビオランテ』『ゴジラVSキングギドラ』)、金子修介(『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』)、庵野英明(『シン・ゴジラ』)の諸氏。いずれ劣らぬ個性的な作品となりましたが、北村龍平監督と好対照をなすのは、同じミレニアムシリーズの『大怪獣総攻撃』を撮った金子修介監督でしょう。
この方は、東宝の生え抜きではないにせよ、平成ガメラシリーズで怪獣映画を手がけており、また、子供のころからゴジラが大好きでいつかゴジラ映画を撮りたいと思っていた人です。
それに対して北村龍平監督は、子供のころにゴジラを観てはいたけれど、けっしてゴジラフリークではなかったとインタビューで語っています。金子監督とは結構温度差があるのです。
この温度差が、そのまま対照的な結果につながったと私は見ています。
金子監督の『大怪獣総攻撃』がミレニアムシリーズで最高の成績をあげたのに対して、『ファイナルウォーズ』は、先述したように映画興行としては失敗といわざるをえない結果となりました。

では、どのあたりがかけ違っていたのか。

最大の問題は、ゴジラへの愛が足りなかったということだと私は思っています。
もう少し詳しく言うと、ゴジラの歴史を踏まえていなかったというか……この映画が制作された時点でゴジラシリーズには50年近い歴史があったわけで、北村監督にはその歴史に対する理解が欠如していたように思えてならないのです。

北村監督は、インタビューにおいて『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)が好きだったと語っていますが、これがボタンのかけ違いを象徴していると私には感じられます。
インタビューでのやりとりを聞いていると、どうやら北村監督は、平成ゴジラはリアリズムを志向しすぎていて、かつてのゴジラ映画の原点を忘れてしまって、結果つまらないものになっている……というような認識を持っているように思われます。
しかしこれは、はっきりいってゴジラシリーズの歴史認識としては間違っているといわざるをえないのです。
おそらく、ある程度ゴジラシリーズ作品に触れてきた人なら、誰しもそういうでしょう。
というのも、一般的なゴジラ史観としては、70年代はゴジラシリーズがもっともダメだった時期であり、その反省から平成ゴジラは70年代ゴジラ的な演出を意識して避け、そのことによってゴジラは特撮映画の王者として復活したということになるのです。
70年代ゴジラ的な演出というのは、単純にいえば、過度に子供向けであること……その結果として、ゴジラが正義の味方となり、人間的な動作をしたりすることです。
それがよくなかったということで、平成ゴジラは、ゴジラが“正義の味方”化することを極力避け、人間的な動作にならないように演出し、子供向けにならないように一定のシリアスさをもたせました。

その歴史を踏まえてみれば、「ボタンのかけ違い」という意味がわかるでしょう。

70年代ゴジラがうまくいかなかったから、平成ゴジラは70年代風演出を避けることで成功した……という歴史があるにもかかわらず、北村監督は平成ゴジラ演出を避けて、70年代ゴジラへの回帰を目指してしまったのです。それはうまくいかなくて当然という話です。

これがつまりは、ゴジラへの愛が足りなかった、ということです。

ゴジラシリーズの全作品をみていて、全体を俯瞰する視点を持っていたなら、70年代ゴジラは概してファンの間でも評価が低いということがわかったはずです。もちろん、子どもの頃に70年代ゴジラ作品を観ていて自分はそれが好きだというのはあってかまいませんが……しかし、歴史的にいってそこはゴジラの原点とはとうてい言えないし、そこをゴジラの理想像とする見方に共感する人はごく少数でしょう。
しかしながら北村監督は、70年代への回帰を目指してしまったのです。
言葉は悪いですが、ある種の刷り込みというか、思い込みで70年代ゴジラを理想像としてしまい、ゴジラ史への総合的な理解を欠いていたがゆえに、その思い込みから逃れることができなかったということではないでしょうか。
ともあれ、こうして最初のボタンをかけ違ったために、以降すべてがずれていき、気づいたときにはもう手遅れということになってしまったのではないかと感じられます。

キース・エマソンの起用も、私にいわせればその一つです。
私は最初キース・エマソンが音楽担当と知らずにこの映画を観ていたんですが、音楽に対してはずっと違和感を持っていました。別にキース・エマソンの音楽がだめだというのではなく、やはり、ゴジラには合ってないということです。

そして、この映画でゴジラファンからしばしば問題視されるのは、人間側のアクションが多すぎること。
人間同士の格闘が怪獣の戦いと並行して描かれ、かなりの分量があります。
これもまた、富山省吾さんが北村龍平監督を起用した狙いの一つなわけですが、やはり裏目に出た部分のほうが大きかったと思えます。怪獣映画を期待しているのであって、人間同士の戦いをそんなに見たくはない……というのが、多くのゴジラファンが抱いた感想ではなかったでしょうか。

そして、このずれがさらに次のボタンのかけ違いを誘発します。

人間側のアクションが多い分だけ、怪獣同士のバトルが少なくなってしまうのです。
そうでなくとも、シリーズ最多14体もの怪獣が登場する作品です。一体あたりの見せ場はかぎられます。そこへ人間キャラのバトルが時間をとるぶん、尺が圧迫されてしまい、何体かの怪獣はほんの短時間しか出てこないのです。

この点で私が象徴的と思うのは、富士の裾野における、アンギラス、ラドン、キングシーサーとの戦いです。

ラドンは、ゴジラシリーズにおける最古参怪獣の一体というだけでなく、実は本作に至るまでゴジラと敵だったことはありません。はじめは敵対していたとしても、最終的には必ず同じサイドに立っていました。こんな怪獣はラドンだけなんです。ラドンは、ゴジラにとって無二の戦友なのです。

そしてアンギラス。アンギラスは、ゴジラがはじめて対戦した怪獣。ゴジラシリーズにおいて、ゴジラをのぞけば最古参の怪獣です。ゴジラの弟分というような存在になっていたこともあります。

キングシーサーはどうか。
沖縄の守護神であるキングシーサーが敵でいいのか。ファイナルウォーズではモスラが唯一ゴジラの味方として登場しますが、インファント島の守り神であるモスラが人類の味方なら、沖縄の守り神であるキングシーサーだって人類の味方でいいんじゃないか。そんなことも思います。
そして、キングシーサーには敵の放った光線技を片目で吸収してもう片方の目から打ち返すという能力があるんですが、本作にはそれも出てきません。ラドン、アンギラス、キングシーサーの3体は、まとめて秒殺されてしまうのです。
場所が富士の裾野だということもポイントです。富士の裾野というところは、ゴジラシリーズではたびたび最終決戦の舞台となり、幾多の死闘が繰り広げられてきた地なのです。それがこんな扱いなのかと……このへんもやっぱり「愛が足りない」と感じられるところなのです。

あとは、ヘドラも別の意味で扱いが雑です。
あの、神話的とさえいえる象徴性をもつヘドラが、完全に雑魚扱い。エビラとともに数秒で倒されてしまうとは……

その他の怪獣も、やはりゴジラ映画をずっと観てきた人ならばそれぞれにいろんな思い入れがあるでしょう。この怪獣たちをゴジラが秒でなぎ倒していくことによって、一つ一つの思い入れに対して、ことごとく「こんな扱いはひどすぎる」という印象を与えることになったのではないでしょうか。

こうしてどんどんボタンがかけ違ってずれていくわけですが……その最たるものが、ミニラの登場です。
第一シリーズ、第二シリーズに続き、第三シリーズでも最後の最後になって現れた“ゴジラの息子”……これが、この作品の失敗を決定づけたのではないかと私は見ています。
息子の存在はゴジラに“親”という属性を与え、ゴジラが“正義の味方”化する契機となります。“正義の味方”になることはゴジラというキャラの中に深刻な矛盾を生じさせ、やがて物語を破綻させていく……息子の登場は、ゴジラシリーズにとって躓きの石となるのです。そしてFINAL WARS はその禁断の存在に手をつけてしまった。このことが、あのラストシーンにつながります。この結末に関しては賛否あるでしょうが、私としては、これがゴジラの終わりであってほしくはないと思います。

……と、ここまで低評価の部分ばかりを書き連ねてしまいましたが、まあ、にぎやかな怪獣バトルという点では、決して悪い作品ではありません。
あれこれ書いておいてなんですが、私自身も、一部のゴジラファンがするほどにファイナルウォーズを低く評価してはいません。

今さらですが、一応ストーリーを説明しておきましょう。
まず、X星人という宇宙人が地球にやってきます。彼らは、最初は友好的な態度を見せ、地球人も歓迎していたものの、実はX星人たちの真の狙いは、地球人を家畜化することでした。地球の怪獣たちはN塩基というものを持っていて、これによってX星人に操られるのですが、人類の核実験によって誕生した怪獣であるゴジラはN塩基をもたないために、操られない。そのゴジラの力を借りて、人類がX星人と戦う……という話です。
重要な役割を果たすのが、ガイガンです。
ガイガンは、X星人が地球侵略を開始する先兵のような役割を果たし、南極での封印状態から目覚めたゴジラが最初に戦う相手が、ガイガンとなります。
その2004年版ガイガンの画像を貼っておきましょう。
昨年、兵庫に行った際にゴジラミュージアムで撮影した画像です。



ついでなので、同じくゴジラミュージアムで撮った轟天号。
ファイナルウォーズでは、人類に最後に残された兵器として活躍します。



ゴジラが核実験で誕生した存在であるがゆえに人類の最後の希望のような存在になる、という設定も、見ようによってはゴジラという作品の根幹にあるテーマを浸食してしまっているように感じられますが……この点に関して富山省吾さんは、「ゴジラは核実験で生まれながら、核実験の脅威を人間に教えることで破壊を否定しているキャラクターです」と語っています。したがって、「力には力を」という暴力の連鎖を断ち切ることがファイナルウォーズにおけるゴジラの意味合いだと。それを表現したのが、あのラストシーンということでしょう。作中に「力で相手をおさえようとする者は力によって敗れる」というせりふがあって、富山さんはこれを「いまの地球そのものの問題だ」と感じたそうですが、ここはまさにその通りでしょう。

最後に、この映画に登場する怪獣の一体として「ジラ」に触れておきましょう。

これは、今年のはじめに映画記事で紹介したハリウッド版GODZILLA(1997年)に登場するゴジラをもとにしています。
当該記事で、97年版のアメリカゴジラはミレニアムシリーズでちょくちょくネタにされていると書きましたが、ファイナルウォーズのジラもその一つです。
北村監督は「ハリウッドにケンカを売ってやる」ということをいったそうですが、ジラが日本ゴジラに瞬殺されるというのは、その一つの表れかもしれません。ファイナルウォーズは、日本ではあまり評判がよくありませんが、アメリカなんかでは結構評価されているようで……このへんの認識の違いも、ゴジラという存在をどうとらえているのかという国内外の温度差を表しているんではないでしょうか。




フレデリック・フォーサイス『オデッサ・ファイル』

2023-06-16 23:16:07 | 小説


フレデリック・フォーサイスの『オデッサ・ファイル』を読みました。

だいぶ前に入手したものの、積読状態になっていた一冊。今回は、小説記事としてこの作品を紹介したいと思います。


フレデリック・フォーサイスという人は、国際謀略サスペンスというようなジャンルで有名な人です。
最近書いてきたプログレ系の記事ともちょっとつながってくるところがあります。
たとえばピンクフロイドの「戦争の犬たち」という曲がありましたが、フォーサイスに同じタイトルの作品があります。それは単にタイトルが同じというだけですが、この作品が映画化されていて、その映画で音楽を担当しているのが、エマソン、レイク&パーマーのキース・エマソンだったりします。

で、『オデッサ・ファイル』です。

オデッサと聞けば、旧ソ連、現在はウクライナにある地名をまず思い出します。それで冷戦を背景にしたソ連のスパイがという話で、いまのウクライナ戦争につながるようなエピソードも出てきたりするのではないかと思っていましたが……読んでみると全然違っていました。
ここでいうODESSAとは、かつてナチスドイツで蛮行のかぎりを尽くしたSS(親衛隊)の生き残りが戦後につくった組織。Organization Der Ehemaligen SS-Angehorigen の略ということです。
彼らは、戦後のドイツにおいて、戦犯追及の妨害やナチの思想・行動を正当化するプロパガンダなどの活動を行っていたといいます。
また、オデッサは、「敵の敵は味方」という理屈で、イスラエルと敵対するアラブ諸国に力を貸していました。それが中東戦争にからんできて、国際謀略サスペンスになるわけです。

フィクションではありますが、事実をもとにしている部分も相当あります。
その区別は私の知識では判然としないところも多々ありましたが、少なくともメインテーマである“オデッサファイル”というものは実際に存在したようです。
オデッサはナチの残党が作った秘密結社のような組織で、その構成員たちは素性を隠してドイツ社会に潜伏しているわけですが、そんな彼らの名簿のようなものが密かに存在していました。これが白日の下にさらされれば、オデッサは窮地に陥る。決して部外者の手に渡してはならない……まさに映画のような話ですが、こういうことが現実にあったわけです。
このオデッサファイルというものをテーマにしているだけでも、読み応えのある作品となっています。
これがいわゆるマクガフィンとなってサスペンスが展開されるわけですが、オデッサファイルは単なるマクガフィンといってしまえるものでもありません。
オデッサという組織の存在や、それが形成されるにいたった歴史もまた、本作の重要なテーマであるでしょう。
『オデッサ・ファイル』は、ナチのような無茶苦茶なことをやった国が過去の歴史とどうむきあうのかという難しさを考えさせられる作品でもあります。
一般国民の間には過去のことにはあえて触れたくないという感情もあり……そこにオデッサのプロパガンダ工作もあるわけです。ドイツの警察は逃亡しているナチの戦犯を捜し出して裁きにかけることになっているわけですが、内実ではあまりそうした活動に積極的ではない。積極的にやろうとする人物がいると、人事面で冷遇されるようになるとか……戦争責任追及に表立って反対こそしないものの、暗黙のうちに避けているという微妙な空気があるようです。このあたりは、ドイツと同盟国だった日本も、他人事ではないでしょう。
この小説の主人公は、いくらか個人的な動機から調査を開始しますが、あちこちで壁にぶつかります。サスペンスということなので、オデッサ側の妨害もあるわけですが、むしろ、過去と向き合うのを避けようとする一般国民の姿勢のほうが障壁となっているようでもあります。
幾重もの困難を潜り抜けて、主人公は最終的に追い続けてきた獲物“バルカン”と直接対峙します。
自分たちこそが正しく、愛国的であり、戦後の若者を誤った考えを吹き込まれている……と主張するバルカンに対して、主人公は毅然と反論します。SSとその残党であるオデッサを「ドイツが生んだ最もけがらわしいクズ」と喝破するのです。そして、オデッサファイルが公表されたことによってオデッサは致命的な打撃を受け、イスラエルに対して画策されていた危険な陰謀も未然に阻止されるのでした。

しかしながら、オデッサが完全に壊滅したわけではありません。
ネオナチは、21世紀にいたるまで根強く存在し続けています。
オデッサというのは、実際には単一の組織ではなく、ナチの残党やその共鳴者たちのゆるやかな結合体だったようです。中東のテロ組織のようなもので、どこかに頭があるわけではなく、ゆえに全体を壊滅させることは難しいという……したがって、オデッサと呼ばれることはなくとも、その結合体は今にいたるまで存在し続けているということでしょう。


最後に、ちょっとピンクフロイドの名前が出てきたので、またロジャー・ウォーターズの近況について。
ロジャー・ウォーターズが、反ユダヤ的であるとして、ドイツでのライブが中止になったという話を前に書きましたが、また似たような別の件ももちあがっています。ロジャーが、ベルリンでのライブでSS風の衣装で登場したということで警察の捜査を受けているというのです。
彼の場合は、ナチの残党と関りがあるとかいうようなことではないでしょうが……しかし、ひねくれ、逆張り思想でナチズムを肯定するようになってしまう者がいる、それがヒトラーの亡霊をいつまでも生きながらえさせてしまうというこの問題は、なかなか根深いものがあるなと思わされます。