ひさびさに、映画記事です。
先日ELPの記事を書き、そこからの派生で、キース・エマソンがフォーサイス原作の映画『戦争の犬たち』で音楽を手がけていたという話がありました。
キース・エマソンという人は、それ以外にも映画音楽をいろいろやっています。
邦画としては『幻魔大戦』なんかが有名ですが、実は彼はゴジラシリーズの作品でも音楽を手がけています。
それが、『ゴジラ
FINAL WARS』。
ということで、今回はひさしぶりのゴジラシリーズ映画記事として、このゴジラ史上最大の問題作について書きたいと思います。
『ゴジラ FINAL WARS』 | 予告編 | ゴジラシリーズ 第28作目 VIDEO
『ゴジラ FINAL WARS』は、いわゆるミレニアムシリーズの最終作にあたります。
公開は、2004年。これはゴジラ生誕50周年という節目にあたります。
そのアニバーサリーにふさわしいゴジラの集大成的作品が構想されます。そして同時に、その集大成をもって、ゴジラシリーズは完結するとされていました。
そういう位置づけの作品なので、ファイナルウォーズには相当なエネルギーが注ぎ込まれています。
シリーズ最多の怪獣が登場。
上映時間も最長。
制作にかけた金額も最高……
そして、俳優陣も豪華です。
こんな大物が、あんな意外な人が、というのをあげていくとキリがないぐらいですが、主要キャストを列挙すると、主演に松岡昌宏さんと、菊川怜さん。前作から、小美人役として長澤まさみさんも引き続き登場。ミレニアムシリーズで続いていたトレンディ女優路線を継承します。また、水野真紀さんも登場し、これでもかというまでに美女要素が盛り込まれています。
肉体派としてケイン・コスギさんも登場し、人間側のアクションを補完。そして、このブログ的にはずせない人物として、泉谷しげるさんが結構重要な役で出ています。
さらに、昭和ゴジラ作品で知られる水野久美さんや、宝田明さんが登場。特に、水野さんは「波川」という『怪獣大戦争』出演時の役名で登場するなど、往年のゴジラファンにアピールするようなキャスティングもありました。
ここに音楽がキース・エマソンとくるわけですから、キャストやスタッフは相当に豪勢です。
まさに50周年、そして最後のゴジラ作品という、この作品にかける意気込みが伝わってきます。
しかしながら……結果としては、その意気込みは空回りしてしまったといわざるをえません。
このファイナルウォーズ、興行成績はかなり悪く、観客動員数はミレニアムシリーズの中で最低。ゴジラシリーズ全体で見ても、歴代ワースト三位となっています。海外ではそれなりに高く評価されているようですが、日本ではだいぶ評判が悪い作品となっているのです。
アニバーサリーとか、複数の映画制作会社のコラボとかで総力を結集したような映画が壮大にコケるというのは映画史上よくある話で、近年でいえば『大怪獣のあとしまつ』がその例といえるでしょう。
私が見るところ、こうした例に共通しているのは人選ミスです。
豪華なキャストやスタッフを集めるということで、ネームバリューに注目してしまい、その作品に適しているかどうかが十分に考慮されていないという……
とりわけ、監督選びの失敗がその最たるものです。
おそらく、話題性を出そうという意図もあって、「あの○○が映画初監督」とか、「△△界で名を馳せた□□監督が特撮に初挑戦」みたいなことをやってしまうのです。これが、あとからみれば、なんで大事なアニバーサリー作品の監督をその人にやらせたのか、みたいなことになってしまうわけです。
そして、『ゴジラ
FINAL WARS』は、まさにその轍を踏んでしまいました。
すなわち、北村龍平監督の起用です。
この人選に関しては、その前年に同監督の『あずみ』があって、それを見た富山省吾さんがオファーしたといいます。
富山さんとしては、怪獣特撮映画の枠を超えた作品を作りたいという意図だっといいますが……ここが最初のボタンのかけ違いではなかったかと思います。
別に北村龍平さんがどうこうということではありません。ただ、少なくともゴジラ映画の監督としてはミスマッチだったのではないかと。
外部の監督としてゴジラを撮った人は4人いて、北村監督はその一人です。
ほかの3人というのは、大森一樹(『ゴジラVSビオランテ』『ゴジラVSキングギドラ』)、金子修介(『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』)、庵野英明(『シン・ゴジラ』)の諸氏。いずれ劣らぬ個性的な作品となりましたが、北村龍平監督と好対照をなすのは、同じミレニアムシリーズの『大怪獣総攻撃』を撮った金子修介監督でしょう。
この方は、東宝の生え抜きではないにせよ、平成ガメラシリーズで怪獣映画を手がけており、また、子供のころからゴジラが大好きでいつかゴジラ映画を撮りたいと思っていた人です。
それに対して北村龍平監督は、子供のころにゴジラを観てはいたけれど、けっしてゴジラフリークではなかったとインタビューで語っています。金子監督とは結構温度差があるのです。
この温度差が、そのまま対照的な結果につながったと私は見ています。
金子監督の『大怪獣総攻撃』がミレニアムシリーズで最高の成績をあげたのに対して、『ファイナルウォーズ』は、先述したように映画興行としては失敗といわざるをえない結果となりました。
では、どのあたりがかけ違っていたのか。
最大の問題は、ゴジラへの愛が足りなかったということだと私は思っています。
もう少し詳しく言うと、ゴジラの歴史を踏まえていなかったというか……この映画が制作された時点でゴジラシリーズには50年近い歴史があったわけで、北村監督にはその歴史に対する理解が欠如していたように思えてならないのです。
北村監督は、インタビューにおいて『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)が好きだったと語っていますが、これがボタンのかけ違いを象徴していると私には感じられます。
インタビューでのやりとりを聞いていると、どうやら北村監督は、平成ゴジラはリアリズムを志向しすぎていて、かつてのゴジラ映画の原点を忘れてしまって、結果つまらないものになっている……というような認識を持っているように思われます。
しかしこれは、はっきりいってゴジラシリーズの歴史認識としては間違っているといわざるをえないのです。
おそらく、ある程度ゴジラシリーズ作品に触れてきた人なら、誰しもそういうでしょう。
というのも、一般的なゴジラ史観としては、70年代はゴジラシリーズがもっともダメだった時期であり、その反省から平成ゴジラは70年代ゴジラ的な演出を意識して避け、そのことによってゴジラは特撮映画の王者として復活したということになるのです。
70年代ゴジラ的な演出というのは、単純にいえば、過度に子供向けであること……その結果として、ゴジラが正義の味方となり、人間的な動作をしたりすることです。
それがよくなかったということで、平成ゴジラは、ゴジラが“正義の味方”化することを極力避け、人間的な動作にならないように演出し、子供向けにならないように一定のシリアスさをもたせました。
その歴史を踏まえてみれば、「ボタンのかけ違い」という意味がわかるでしょう。
70年代ゴジラがうまくいかなかったから、平成ゴジラは70年代風演出を避けることで成功した……という歴史があるにもかかわらず、北村監督は平成ゴジラ演出を避けて、70年代ゴジラへの回帰を目指してしまったのです。それはうまくいかなくて当然という話です。
これがつまりは、ゴジラへの愛が足りなかった、ということです。
ゴジラシリーズの全作品をみていて、全体を俯瞰する視点を持っていたなら、70年代ゴジラは概してファンの間でも評価が低いということがわかったはずです。もちろん、子どもの頃に70年代ゴジラ作品を観ていて自分はそれが好きだというのはあってかまいませんが……しかし、歴史的にいってそこはゴジラの原点とはとうてい言えないし、そこをゴジラの理想像とする見方に共感する人はごく少数でしょう。
しかしながら北村監督は、70年代への回帰を目指してしまったのです。
言葉は悪いですが、ある種の刷り込みというか、思い込みで70年代ゴジラを理想像としてしまい、ゴジラ史への総合的な理解を欠いていたがゆえに、その思い込みから逃れることができなかったということではないでしょうか。
ともあれ、こうして最初のボタンをかけ違ったために、以降すべてがずれていき、気づいたときにはもう手遅れということになってしまったのではないかと感じられます。
キース・エマソンの起用も、私にいわせればその一つです。
私は最初キース・エマソンが音楽担当と知らずにこの映画を観ていたんですが、音楽に対してはずっと違和感を持っていました。別にキース・エマソンの音楽がだめだというのではなく、やはり、ゴジラには合ってないということです。
そして、この映画でゴジラファンからしばしば問題視されるのは、人間側のアクションが多すぎること。
人間同士の格闘が怪獣の戦いと並行して描かれ、かなりの分量があります。
これもまた、富山省吾さんが北村龍平監督を起用した狙いの一つなわけですが、やはり裏目に出た部分のほうが大きかったと思えます。怪獣映画を期待しているのであって、人間同士の戦いをそんなに見たくはない……というのが、多くのゴジラファンが抱いた感想ではなかったでしょうか。
そして、このずれがさらに次のボタンのかけ違いを誘発します。
人間側のアクションが多い分だけ、怪獣同士のバトルが少なくなってしまうのです。
そうでなくとも、シリーズ最多14体もの怪獣が登場する作品です。一体あたりの見せ場はかぎられます。そこへ人間キャラのバトルが時間をとるぶん、尺が圧迫されてしまい、何体かの怪獣はほんの短時間しか出てこないのです。
この点で私が象徴的と思うのは、富士の裾野における、アンギラス、ラドン、キングシーサーとの戦いです。
ラドンは、ゴジラシリーズにおける最古参怪獣の一体というだけでなく、実は本作に至るまでゴジラと敵だったことはありません。はじめは敵対していたとしても、最終的には必ず同じサイドに立っていました。こんな怪獣はラドンだけなんです。ラドンは、ゴジラにとって無二の戦友なのです。
そしてアンギラス。アンギラスは、ゴジラがはじめて対戦した怪獣。ゴジラシリーズにおいて、ゴジラをのぞけば最古参の怪獣です。ゴジラの弟分というような存在になっていたこともあります。
キングシーサーはどうか。
沖縄の守護神であるキングシーサーが敵でいいのか。ファイナルウォーズではモスラが唯一ゴジラの味方として登場しますが、インファント島の守り神であるモスラが人類の味方なら、沖縄の守り神であるキングシーサーだって人類の味方でいいんじゃないか。そんなことも思います。
そして、キングシーサーには敵の放った光線技を片目で吸収してもう片方の目から打ち返すという能力があるんですが、本作にはそれも出てきません。ラドン、アンギラス、キングシーサーの3体は、まとめて秒殺されてしまうのです。
場所が富士の裾野だということもポイントです。富士の裾野というところは、ゴジラシリーズではたびたび最終決戦の舞台となり、幾多の死闘が繰り広げられてきた地なのです。それがこんな扱いなのかと……このへんもやっぱり「愛が足りない」と感じられるところなのです。
あとは、ヘドラも別の意味で扱いが雑です。
あの、神話的とさえいえる象徴性をもつヘドラが、完全に雑魚扱い。エビラとともに数秒で倒されてしまうとは……
その他の怪獣も、やはりゴジラ映画をずっと観てきた人ならばそれぞれにいろんな思い入れがあるでしょう。この怪獣たちをゴジラが秒でなぎ倒していくことによって、一つ一つの思い入れに対して、ことごとく「こんな扱いはひどすぎる」という印象を与えることになったのではないでしょうか。
こうしてどんどんボタンがかけ違ってずれていくわけですが……その最たるものが、ミニラの登場です。
第一シリーズ、第二シリーズに続き、第三シリーズでも最後の最後になって現れた“ゴジラの息子”……これが、この作品の失敗を決定づけたのではないかと私は見ています。
息子の存在はゴジラに“親”という属性を与え、ゴジラが“正義の味方”化する契機となります。“正義の味方”になることはゴジラというキャラの中に深刻な矛盾を生じさせ、やがて物語を破綻させていく……息子の登場は、ゴジラシリーズにとって躓きの石となるのです。そしてFINAL WARS はその禁断の存在に手をつけてしまった。このことが、あのラストシーンにつながります。この結末に関しては賛否あるでしょうが、私としては、これがゴジラの終わりであってほしくはないと思います。
……と、ここまで低評価の部分ばかりを書き連ねてしまいましたが、まあ、にぎやかな怪獣バトルという点では、決して悪い作品ではありません。
あれこれ書いておいてなんですが、私自身も、一部のゴジラファンがするほどにファイナルウォーズを低く評価してはいません。
今さらですが、一応ストーリーを説明しておきましょう。
まず、X星人という宇宙人が地球にやってきます。彼らは、最初は友好的な態度を見せ、地球人も歓迎していたものの、実はX星人たちの真の狙いは、地球人を家畜化することでした。地球の怪獣たちはN塩基というものを持っていて、これによってX星人に操られるのですが、人類の核実験によって誕生した怪獣であるゴジラはN塩基をもたないために、操られない。そのゴジラの力を借りて、人類がX星人と戦う……という話です。
重要な役割を果たすのが、ガイガンです。
ガイガンは、X星人が地球侵略を開始する先兵のような役割を果たし、南極での封印状態から目覚めたゴジラが最初に戦う相手が、ガイガンとなります。
その2004年版ガイガンの画像を貼っておきましょう。
昨年、兵庫に行った際にゴジラミュージアムで撮影した画像です。
ついでなので、同じくゴジラミュージアムで撮った轟天号。
ファイナルウォーズでは、人類に最後に残された兵器として活躍します。
ゴジラが核実験で誕生した存在であるがゆえに人類の最後の希望のような存在になる、という設定も、見ようによってはゴジラという作品の根幹にあるテーマを浸食してしまっているように感じられますが……この点に関して富山省吾さんは、「ゴジラは核実験で生まれながら、核実験の脅威を人間に教えることで破壊を否定しているキャラクターです」と語っています。したがって、「力には力を」という暴力の連鎖を断ち切ることがファイナルウォーズにおけるゴジラの意味合いだと。それを表現したのが、あのラストシーンということでしょう。作中に「力で相手をおさえようとする者は力によって敗れる」というせりふがあって、富山さんはこれを「いまの地球そのものの問題だ」と感じたそうですが、ここはまさにその通りでしょう。
最後に、この映画に登場する怪獣の一体として「ジラ」に触れておきましょう。
これは、今年のはじめに映画記事で紹介したハリウッド版GODZILLA(1997年)に登場するゴジラをもとにしています。
当該記事で、97年版のアメリカゴジラはミレニアムシリーズでちょくちょくネタにされていると書きましたが、ファイナルウォーズのジラもその一つです。
北村監督は「ハリウッドにケンカを売ってやる」ということをいったそうですが、ジラが日本ゴジラに瞬殺されるというのは、その一つの表れかもしれません。ファイナルウォーズは、日本ではあまり評判がよくありませんが、アメリカなんかでは結構評価されているようで……このへんの認識の違いも、ゴジラという存在をどうとらえているのかという国内外の温度差を表しているんではないでしょうか。