ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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新型肺炎で全国一斉休校……

2020-02-28 16:44:18 | 時事

 

 

安倍総理が突然打ち出した、小中高校の休校という要請が波紋を広げています。

 

32日から、全国の学校を一斉休校……

 

この措置に果たして効果があるのか。

学校だけ休みにしても、会社を休みにしないなら結局意味がないんじゃないか。

そういう効果に対する疑問と、この措置によって生じるであろう問題に対する懸念の声があがっています。昼間子供を学校に預けておくことができなくなる共働き世帯や母子・父子家族はどうするのか――といったことが問題視されていますが、あまり注目されていないようにみえるのは、非常勤講師がどうなるのかということです。

 

私は一応経験者なので、ふとしたきっかけでこの点を考えました。

非常勤講師は、教育現場における非正規雇用のようなもので、授業コマ数×授業単価で報酬が計算されています。

正規の教員は授業がなくても給料をもらえると思いますが、非常勤だとそうはいきません。わずか一か月ほどとはいえ、収入が断たれることになるのはかなり深刻な問題になると思われます。

 

これは、多くの問題の中の一つです。

 

先述したとおり、私はこの非常勤講師というのをやったことが過去にあったので、そこを考えたわけですが……おそらく、こういう「経験者だからわかる」「経験者でなければわからない」という問題があちこちに潜んでいるんじゃないでしょうか。今回の要請を出すに際して、果たして政権側はどれだけそういったことを考慮していたのか……どうも、行き当たりばったりというか、勢いで先走っているようにみえます。

国民が政治・行政の劣化を放置しているうちに、日本の統治機構は取り返しのつかないところまで壊れてしまっているんじゃないか。私たちは、いまそれをまざまざと見せつけられいてるんじゃないか……今回のコロナ禍に、そんな感想を持ちました。

 

 

 


新型肺炎は検査しないほうがいいのか?

2020-02-27 16:00:45 | 時事

 

 

新型肺炎が、ますます拡大しています。

 

プロ野球のオープン戦は無観客試合、Jリーグの試合も延期、さらに種々のイベントなどが中止になるケースも増えていて、今後どこまで影響が広がっていくか予断を許さない状況です。

 

 

近頃、この新型肺炎の検査に関して、大規模な検査はしないほうがいいという意見もあるようです。

 

その論拠として、主に次のような点が挙げられています。

 

①感染の疑いのある人が検査のために医療機関にくることでむしろ感染を拡大させるおそれがある

②陽性とわかったところで、今のところ対処法があるわけではない

③陰性という結果が出たとしても、本当に感染していないとはかぎらない

④感染者が多く出たら、医療機関がパンクする

 

たしかに、一理あるでしょう。

専門家のなかにも、「新型肺炎の疑いがあるなら、安易に検査を受けに行くより自宅で療養したほうがいい」という人がいるようです。

 

ここは難しいところです。

①に関しては、感染の疑いのある人がいたら完全防護の検査スタッフがその人の自宅に出向いて診断、というような方法でクリアできるとは思います。実際、海外ではそういうやり方をとる国もあるようです。

 

 

②に対する反論として「陽性だとわかれば周囲に感染しないようにするなどの対応がとれて感染の拡大を防げる」というものがあります。それに対する再反論として、「それはふつうの風邪でも同じことだ」というのがあるんですが……それはある種の建前論であって、現実に即していないように私には思えます。

「ちょっと風邪気味だったら仕事を休むべき」というコンセンサスが社会に幅広く定着していればそれも成り立つでしょうが、日本の現実がそうであるとは思えません。

一般的には、「ちょっと風邪気味」というぐらいだったら栄養剤かなにか飲んで多少無理して仕事に行くというのが日本の労働者の姿なんじゃないでしょうか。

会社の側も、結局は診断書のあるなしで対応をきめるものと思われます。

コロナ(あるいはただのインフルエンザでもいいですが)という診断があれば、双方納得のうえで「出勤してはいけない」という話におさまりますが、そうでなかったら、やはり「多少無理して出社」ということになるのが日本社会の実際でしょう。その状況では、「新型肺炎であるという診断書」の有無が死活的な意味を持ちます。

ちょっと症状があっても無理して仕事にいく。新型肺炎という診断書があればそれは防げるが、検査のハードルが高いためにその診断書が出ない……というわけで、この日本において、症状があるのにコロナの検査が受けられないという状況は、感染を大幅に拡大させる方向に働くだろうと考えられます。

 

③については、検査が100%信頼できないとしても、それは検査しなくていい理由にはならないでしょう。「陰性の結果が出た人が、そのお墨付きを得たことでふつうに活動して感染を広げるおそれがある」という意見もありますが、先述した②への反論も踏まえると、その論も成り立たないと私は考えます。「誤った陰性の診断を得た人が活動して感染を広げてしまうリスクがある」という論は、「感染の疑いがある軽症の人は仕事を休んで自宅療養する」という前提があってはじめて成立します。で、日本ではおそらくそうならないんです。ちょっと症状があっても、診断書がなければ、多くの人はそれまでどおりの生活を続けてしまうんです。であるなら、検査してはっきり診断が出せるようにしたほうがいいといえます。

当然ながら検査をしないことにもリスクがあり、そのリスクと比較すれば、やはり③も検査しない理由にはならないでしょう。

 

④については、反論は困難かもしれません。

たださえぎりぎりのところで動いている日本の医療システムです。感染ルートもまったく追えなくなり、おそらく数千、ひょっとしたら数万という単位で存在するであろう潜在的な感染が顕在化すれば、耐えられなくなる可能性は否定できないでしょう。

 

ただ一ついっておきたいのは、それで見えない感染を見えないままにしておくのは「最悪ではないが悪」な考え方だということです。

ツイッターで「診断しないほうがベターだ」というようなことを言っている人がいましたが、これは正確ではないと思います。実際は、せめてワーストではなく「ワース」なほうを選んでいるにすぎないんじゃないでしょうか。

それは「マイナス10とマイナス3のどっちを選ぶか」というような選択であり……たとえていえば、ダムの緊急放流に似ています。

大雨でダムの貯水利用が限界に近付いたら、ダム自体の崩壊を防ぐために水を放出するというあれです。

これは「事態が対処能力を超えてしまったためにやむなくとった措置」であって、いい方法ではまったくないんです。緊急放流すれば下流に被害をもたらしかねない。しかし、最悪の事態を防ぐために、多少の被害はもう仕方ない――とあきらめているということです。さじを投げた状態で、せめて最悪は避けるということでしかないんです。

新型コロナに関して「安易に検査しないほうがいい」というのも、これと同じでしょう。

水際でせきとめることに失敗し、国内に広く感染が拡大してしまい、点ではなく面の検査をすると大量の感染が明らかになり収拾がつかなくなるので、軽症あるいは無症状の感染が広がるのはもうやむをえない――これはまさに、下流で被害が出たとしてもダムの水を放出するしかないというのと同じ理屈です。それは、ダムが機能しなかったということであり、とうてい「ベター」と表現できるものではありません。

ということは、結局、ダムのあり方そのものが問われなければならないのです。

ひとまずの緊急放流は仕方ないとしても、ダムの造りや運用が適切だったのかを検証する必要があります。それがきちんとなされないとしたら、以前の記事で書いたアマルティア・センの言葉がますます現実味を増してくることになるでしょう。

 

 

 


沖縄県民投票を振り返る

2020-02-25 16:43:50 | 過去記事
 
沖縄県民投票

沖縄県で、辺野古基地建設をめぐる県民投票が行われました。結果は、圧倒的に反対多数。まあ、予想された結果ではあります。しかし、ここまで圧倒的に反対で、有権者の4分の1を超え......
 

 

去年、沖縄の県民投票について書いた記事です。

 

県民投票で明確にノーを突きつけられ、軟弱地盤の問題が指摘されているにもかかわらず止まらない基地建設……

ここにも、新型コロナと同根の問題があるんじゃないかと思えてきました。

 

とにかく、一度ひとつの方向に転がりはじめたらもう止めることができない。上層部が決定した方針には、ノーといえない。問題点は見ないようにする、あるいは存在しないことにしてしまう……たびたび書いてきたように、それこそがこの国を破滅的な戦争に突き進ませた力なのです。

 

辺野古の基地に関していうと、先述した軟弱地盤の問題があって、最悪の場合護岸が崩壊してしまうおそれが指摘されています。

以前も書きましたが、そもそも安全保障上の必要で設置される施設であるなら、技術上の可能不可能にかかわらずそんな場所は避けるというのが常識的な判断でしょう。たとえいったん決定された事項であっても検討しなおすのがまともな反応です。

ところが現実には、ただひたすら基地建設それ自体が自己目的化して止められずにいます。元の記事にも書いているように、それはもはや安全保障上の意思決定ではなく、政治的な都合によるものでしかありません。

結局、いまのコロナ問題も、これと同じことをやってしまってるんじゃないでしょうか。

 

 


コロナ感染拡大

2020-02-23 15:26:30 | 時事


新型肺炎の感染が広がっています。

ここ数日で九州にも感染者が出て……というよりも、診断されていないだけで実際にはもうかなり広がっていると考えるべきなんでしょう。

全国各地で感染が発生していることからも、水際対策が失敗したことはあきらかです。

現時点では、一定程度の感染者が出ることは覚悟したうえで、感染の拡大を防ぐ努力をするよりほかないでしょう。

それにしても、政府の対応は後手にまわってるといわざるをえません。

ダイヤモンド・プリンセス号での感染拡大。およそきちんとしたゾーニングが行われているとは考え難い船内の画像が公開され、すぐに削除。厚生労働省の職員は、「検査して陽性だと業務に支障が出るから」という理由で検査せず。そして、乗客の下船に際しては検査ミスがあり、さらに検査で陰性とされて下船した乗客のなかから次々と感染者が出る。厚労省が「感染のリスクは低い」としていたにもかかわらず……これでは、国内の感染拡大を防げないのもむべなるかなというところでしょう。

この件に関して、非常時に政府を批判するべきではないという意見があるようですが……

私はむしろ、マスメディアによる政府への批判が十分になされないここ数年の状況こそが現状を招いたと思います。
以前どこかで一度書いたような気もしますが、経済学者のアマルティア・センは、抑圧的な国家は自然災害に弱いといったようなことをいっています。いまの日本は、まさにその状況なのではないか。

現場で懸命に働いている人たちを愚弄するのか、といった言い方をする人もいるようですが、それはお門違いでしょう。
精神主義でウィルスを防ぐことはできません。
まして、戦前の日本のように、その精神主義が上層部の失敗を糊塗するためのものであったら……国民は、その精神主義によって犠牲を強いられるばかりです。
もちろん、コロナウィルスの蔓延を食い止めることが最優先ですが……なぜこのような事態を招いたのかということは、きっちり究明されるべきでしょう。



『砂の器』

2020-02-21 16:28:08 | 映画

 

 

 

 

 

映画『砂の器』を観ました。

 

松本清張原作の社会派サスペンス。

以前松本清張の『点と線』を紹介しましたが、たまたまこの『砂の器』がアマゾンプライムで観られるようになっていたので、清張作品のはしごも悪くないということで視聴しました。

 

これもまた、清張らしさがよく出ている作品だと思います。

執念で事件を追う刑事たち、アーティスト、そして、社会性……

 

ただ、“社会性”という部分では、扱っている題材のデリケートさという点からして、いま地上波のテレビで放映したりするのは難しいでしょう。

ネタバレになるので具体的には書きませんが……ある種の差別問題が作品の背景になっているのです。

 

 

これは、そういう時代がかつてあったということであり、もちろん、清張自身に差別するような意図はなかったはずです。

たとえば手塚治虫の『ブラックジャック』なんかにときどきある、“現代の観点からみると議論を呼ぶ”ようなタイプの作品という感じでしょうか。

 

ブラックジャックの場合、そうしたエピソードは新たに刊行される版には収録されなかったり、一部せりふが変えられていたりするわけですが……

 

では、『砂の器』の場合どうなのか。

あるいは、偏見を助長するという批判があるかもしれません。この映画が公開される前に、当事者の団体が懸念を表明したともいいます。また、感動を演出するために差別を利用している……といった批判もあるようです。

しかし、そうした差別や偏見が存在したことは事実であり、この作品はその事実に基づいて描かれています。差別のために不遇の生活を余儀なくされたということが、作品の背景となっているのです。そのあたりをどう捉えるかということ自体も、時代によって変化していくわけですが……差別をなくすということは、差別をなかったことにするという意味ではないでしょう。そういう意味で、私は、社会派サスペンスとして高く評価できる作品だと思います。

 

追記

もう一点、純粋にミステリー批評の観点から「殺害にいたる動機に説得力がない」という批判もあるようです。

これは、以前『点と線』の記事でも書いた、「無理がある」の一種かと思われます。松本清張のミステリーを読んでいると、そういう、細部がいい加減に処理されているようなところにしばしば出くわします。それはおそらく、トリックやテーマ性を発想の出発点にしていて、細部の“つじつま合わせ”というところに意識があまり向いていないからだと思われますが……ただ『砂の器』の場合、その問題点がテーマ性の部分にまで波及してくるために、ちょっと話が難しくなってきます。この点を突かれると、私も擁護することはできないというのが正直なところです。