新型肺炎が、ますます拡大しています。
プロ野球のオープン戦は無観客試合、Jリーグの試合も延期、さらに種々のイベントなどが中止になるケースも増えていて、今後どこまで影響が広がっていくか予断を許さない状況です。
近頃、この新型肺炎の検査に関して、大規模な検査はしないほうがいいという意見もあるようです。
その論拠として、主に次のような点が挙げられています。
①感染の疑いのある人が検査のために医療機関にくることでむしろ感染を拡大させるおそれがある
②陽性とわかったところで、今のところ対処法があるわけではない
③陰性という結果が出たとしても、本当に感染していないとはかぎらない
④感染者が多く出たら、医療機関がパンクする
たしかに、一理あるでしょう。
専門家のなかにも、「新型肺炎の疑いがあるなら、安易に検査を受けに行くより自宅で療養したほうがいい」という人がいるようです。
ここは難しいところです。
①に関しては、感染の疑いのある人がいたら完全防護の検査スタッフがその人の自宅に出向いて診断、というような方法でクリアできるとは思います。実際、海外ではそういうやり方をとる国もあるようです。
②に対する反論として「陽性だとわかれば周囲に感染しないようにするなどの対応がとれて感染の拡大を防げる」というものがあります。それに対する再反論として、「それはふつうの風邪でも同じことだ」というのがあるんですが……それはある種の建前論であって、現実に即していないように私には思えます。
「ちょっと風邪気味だったら仕事を休むべき」というコンセンサスが社会に幅広く定着していればそれも成り立つでしょうが、日本の現実がそうであるとは思えません。
一般的には、「ちょっと風邪気味」というぐらいだったら栄養剤かなにか飲んで多少無理して仕事に行くというのが日本の労働者の姿なんじゃないでしょうか。
会社の側も、結局は診断書のあるなしで対応をきめるものと思われます。
コロナ(あるいはただのインフルエンザでもいいですが)という診断があれば、双方納得のうえで「出勤してはいけない」という話におさまりますが、そうでなかったら、やはり「多少無理して出社」ということになるのが日本社会の実際でしょう。その状況では、「新型肺炎であるという診断書」の有無が死活的な意味を持ちます。
ちょっと症状があっても無理して仕事にいく。新型肺炎という診断書があればそれは防げるが、検査のハードルが高いためにその診断書が出ない……というわけで、この日本において、症状があるのにコロナの検査が受けられないという状況は、感染を大幅に拡大させる方向に働くだろうと考えられます。
③については、検査が100%信頼できないとしても、それは検査しなくていい理由にはならないでしょう。「陰性の結果が出た人が、そのお墨付きを得たことでふつうに活動して感染を広げるおそれがある」という意見もありますが、先述した②への反論も踏まえると、その論も成り立たないと私は考えます。「誤った陰性の診断を得た人が活動して感染を広げてしまうリスクがある」という論は、「感染の疑いがある軽症の人は仕事を休んで自宅療養する」という前提があってはじめて成立します。で、日本ではおそらくそうならないんです。ちょっと症状があっても、診断書がなければ、多くの人はそれまでどおりの生活を続けてしまうんです。であるなら、検査してはっきり診断が出せるようにしたほうがいいといえます。
当然ながら検査をしないことにもリスクがあり、そのリスクと比較すれば、やはり③も検査しない理由にはならないでしょう。
④については、反論は困難かもしれません。
たださえぎりぎりのところで動いている日本の医療システムです。感染ルートもまったく追えなくなり、おそらく数千、ひょっとしたら数万という単位で存在するであろう潜在的な感染が顕在化すれば、耐えられなくなる可能性は否定できないでしょう。
ただ一ついっておきたいのは、それで見えない感染を見えないままにしておくのは「最悪ではないが悪」な考え方だということです。
ツイッターで「診断しないほうがベターだ」というようなことを言っている人がいましたが、これは正確ではないと思います。実際は、せめてワーストではなく「ワース」なほうを選んでいるにすぎないんじゃないでしょうか。
それは「マイナス10とマイナス3のどっちを選ぶか」というような選択であり……たとえていえば、ダムの緊急放流に似ています。
大雨でダムの貯水利用が限界に近付いたら、ダム自体の崩壊を防ぐために水を放出するというあれです。
これは「事態が対処能力を超えてしまったためにやむなくとった措置」であって、いい方法ではまったくないんです。緊急放流すれば下流に被害をもたらしかねない。しかし、最悪の事態を防ぐために、多少の被害はもう仕方ない――とあきらめているということです。さじを投げた状態で、せめて最悪は避けるということでしかないんです。
新型コロナに関して「安易に検査しないほうがいい」というのも、これと同じでしょう。
水際でせきとめることに失敗し、国内に広く感染が拡大してしまい、点ではなく面の検査をすると大量の感染が明らかになり収拾がつかなくなるので、軽症あるいは無症状の感染が広がるのはもうやむをえない――これはまさに、下流で被害が出たとしてもダムの水を放出するしかないというのと同じ理屈です。それは、ダムが機能しなかったということであり、とうてい「ベター」と表現できるものではありません。
ということは、結局、ダムのあり方そのものが問われなければならないのです。
ひとまずの緊急放流は仕方ないとしても、ダムの造りや運用が適切だったのかを検証する必要があります。それがきちんとなされないとしたら、以前の記事で書いたアマルティア・センの言葉がますます現実味を増してくることになるでしょう。