今日9月21日は、賢治忌ということです。
昭和8年、宮沢賢治がこの世を去った日……ということで、今回は、宮沢賢治について書こうと思います。
唐突ですが、宮沢賢治と金子みすゞは、どこか似ていると思うのです。
どちらも、生前にはほとんど無名だった詩人。
そうなった要因は、両者の共通点と、その時代背景があると私は考えています。そのあたりについて、ちょっと思うところを書いてみようと思います。
共通点の一つは、相対主義。
たとえば、有名な「注文の多い料理店」。
この作品においては、主と客、食うものと食われるものの関係が反転します。
それは、「向こうがわから見たらどうなのか」ということなのです。
人間はほかの生物を食うことで生存している。それを食われる側からみたらどうなのか……このモチーフは、金子みすゞの「大漁」の詩に重なるところがあるでしょう。このモチーフは、賢治の「よだかの星」などにも表現されています。
そして、イノセンス。
たとえば「貝の火」という短編は、非常にわかりやすい寓話といえるでしょう。
この作品では、善行を施した主人公の兎ホモイが「貝の火」という宝を手に入れます。手入れ次第でどんなに立派にもなるという宝珠ですが、一生満足にもっていることができたものはほとんどいない……ホモイも、やがて慢心し、増長していくことにより、宝珠の輝きは失われ、そのなかに燃えている炎はくすんでいってしまうのです。
僭越ではありますが、この作品は私が先日このブログに掲載した掌編「夏祭り」のテーマと通ずるものがあると思います。
ただ、一応申し上げておくと、私はこの作品をパクったわけではありません。
実は、私がこの「貝の火」という短編を読んだのはつい数日前のこと。賢治について何か書いてみるかということで全集の中からいくつか拾い読みしているときに、たまたま出会ったのです。つまりは、イノセンスとその喪失というテーマを共有しているということなのです。とりあえず、そういうことにしておいていただきたい。
それはさておき……記事のタイトルに掲げた「烏の北斗七星」です。
これも、全集の中から今回初読の作品。
あまり有名でない作品を取り上げようということで、これを選びました。相対主義とイノセンスということがよく表れていて、また、今の世界情勢に照らしてタイムリーでもあろうと思います。
描かれるのは、烏の戦い。
主人公である烏の大尉は、敵対している山烏との戦いに臨みますが、その敵を心底から憎むことができません。
結果としては、山烏と戦って相手を倒すわけなんですが……その戦功によって少佐となった烏は、北斗七星(烏たちのあいだでは「マヂエル」と呼ばれている)にむかってこう祈ります。
あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。
読者が束の間当惑してしまうほどのピュア……
この一節こそが、宮沢賢治が生前評価を受けなかった理由をもっともはっきり表しているように思われます。
ここからわかるように、宮沢賢治の作品世界は、富国強兵・植民地主義という思想とは相いれないわけです。
そしてそれが、金子みすゞともつながってくることになるでしょう。
「向こう側からみたらどうなのか」という視点は、富国強兵・植民地主義――つまりは帝国主義に対する根源的な批判を投げかけます。
それが、大日本帝国には受け入れられないものだった……宮沢賢治や金子みすゞが生前にほとんど評価を受けなかったのは、そういうこともあるんじゃないでしょうか。
最後に、この作品の朗読がYoutubeにあったので、リンクさせておきます。
【朗読】宮沢賢治「烏の北斗七星」
サムネ画面に、先に引用した部分が書かれています。
朗読動画はいくつかありますが、同じようになっているものが他にもありました。やはり、この一節が本作のハイライトということでしょう。