ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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Oasis - Whatever

2024-08-31 21:05:03 | 音楽批評

オアシスが再結成を発表しました。

ギャラガー兄弟の仲の悪さから、絶対にないだろうといわれていた再結成……しかしこれが、デビュー30周年、解散から15年という節目に実現しそうなのです。


オアシスといえば、いわゆるブリットポップを代表するバンド。

その前にマンチェスター・ムーブメントというのがあって、そのマッドチェスターの熱狂が去り、荒廃したマンチェスターから登場したバンド……というふうにいわれます。ノエル・ギャラガーは、マッドチェスターを代表するバンドの一つ、インスパイラル・カーペッツのローディをやっていたことがあて、マッドチェスターとは直に接続している部分もあります。

代表曲というといくつか候補が浮かびますが、まあたいてい挙げられるのは、Don't Look Back in Anger か、Whatever でしょう。
ここでは、Whatever のほうを。

Oasis - Whatever (Official Video)

Whatever というのは、90年代のロックを象徴するような単語だということをいつかこのブログで書きました。他人の言動を意に介さないという宣言、非妥協的態度の表明……ニルヴァーナは、どうにでもしろ、知ったことじゃねえという捨て鉢な態度としてこの言葉を使いましたが、オアシスのWhatever はもっとポジティブです。きみはいつも他人の望むように物事を見ようとしているけど、きみが何をしようと、何をいおうとまったく問題ないんだ……といったことがそこでは歌われていました。
しかし、その歌詞とは裏腹に、オアシスは時代の寵児としてのイメージを背負わされることになります。
ムーブメントをけん引したアーティストの宿命というやつで、ブリットポップの旗印がオアシスにはついてまわります。Whateverでは、「何を選ぼうが僕の自由だ/歌いたけりゃブルースだって歌うさ」と歌われますが、ブリットポップの旗印はそれを許してはくれません。そして、ムーブメントが終焉すると、その旗印はある種の十字架のようになるのです。
オアシスの解体も、結局その十字架のゆえではなかったかと私は思っています。
先述したマッドチェスターとのつながりというのもそうですが、時代の旗手となったがゆえに、UKロック史の文脈のようなことを否応なしに背負わされてしまうわけです。リンゴ・スターの息子がサポートでドラムを叩いている、しかもフーとのかけもちで……なんていうのも、その一環でしょう。そうして文脈を背負わされるがゆえに、ブラーとのチャート決戦といったような話も出てきます。まわりが過剰に煽り立てていくわけです(実際にライバル視はしていたようですが)。
結局、そうしてブリットポップという時代を背負わされていたがために、ブームが終焉を迎えた後にもその旗手であったことが暗い影のようについてきます。これもまたムーブメントをけん引したアーティストの宿命で、それが、本人たちにも名状しがたいもやもやとして残り続けるんじゃないかと私は想像しています。
オアシスの場合、アルバムBe Here Nowが“失敗作”と酷評され、それが一種のバブル状態になっていたブリットポップを終息させるきっかけにもなった、いうなればバブル崩壊を引き起こす原因となった、とされているだけに、本人たちにも相当なしこりが残っていたと思われます。オアシス自体はブームが終焉しても大物バンドとして活動を継続していけるだけのポピュラリティを確立していましたが、ブームの終焉で消えていった者たちは数多いて、彼らの亡霊みたいなものがのしかかってくるのをギャラガー兄弟も感じていたんじゃないでしょうか。それが解散劇にまで影を落としている……というのは、決してうがった見方ではないと私は思ってます。直接の原因は兄弟喧嘩ですが、あの兄弟の仲が悪いのは昔からであって、あのタイミングで解散となったのは、もういい加減このへんでいいだろという感覚があったためだと思われるのです。
 
今回オアシスが再結成したというのは、解散から10年以上の時を経て、ようやく時代の文脈云々というところから解放されたということなんじゃないでしょうか。何になろうが、何を選ぼうが自由なんだ……時代のくびきから解放されたことで、真にそういえるようになったのではないかと。
そのへんは、前世代のマッドチェスターをけん引したストーンローゼズと通ずるところがあるでしょう。ローゼズも、今回のオアシスと同様、やはり解散から15年後に再結成しました。ムーブメントの記憶が消化され、歴史の一ページとして相対化、客観視されるようになるにはそれぐらいの時間がかかるということなんでしょう。
逆にいえば、そういう時代性云々を抜きにして評価されるときがようやく来たということです。
オアシスというバンドがその真価を試されることになるわけです。もっとも、それ以前に、本当に再結成してのツアーを最後までやりおおせるのかという問題がありますが……




オーディオブックの可能性

2024-08-26 23:13:30 | 日記


このブログでは、過去に、何度かアマゾンオーディブルというものについて書きました。

“本を聴く”ことができる、オーディオブック……アマゾンが提供する定額制サービスが、アマゾンオーディブルです。

もうオーディブルというものを使い始めてだいぶ長くなりますが……最近その新たな用法を見出しました。

まあ、そんな大げさなことではりませんが……オーディオブックで聴くのは、小説でないものがいいんじゃないかということがあります。

これまでずっと小説のみを聴いてたんですが、オーディブルのラインナップには、小説でない本もあります。一冊試してみると、どうもそっちのほうがよいのではないかという気がしてきました。

小説だと、どうしても朗読者のキャラづくりとか演出にイメージを左右される部分が出てきてしまいます。そしてこれは、しばしばマイナスに働くという……
これは私の感想というだけでなく、おそらく多くの人がそうなんじゃないかと想像してます。
アマゾンでは、一つの作品に関してオーディオブックとそうでないバージョンでそれぞれにレビューがあるんですが、概してオーディオブックのほうが評価が低い傾向にあるように見えます。きっちり比較してみたわけではありませんが……オーディオブックのレビューを見ると、朗読への不満をちょくちょく目にするのです。いかな声のプロとはいえ、一人の朗読者が老若男女を演じ分けることからくる違和感や、キャラの作りすぎ(これはおそらく、キャラの区別をはっきりつけるためにそうせざるをえない部分があるのだと思われますが)というのがどうしてもあり……慣れればそれほど気にならないとはいえ、その演出によってキャラのイメージが左右されることからくる微妙な違和感は、おそらく作品そのものに対するイメージにも相当に影響を与えてしまっているはず。それがはっきりと自覚される場合もあり、後になって、これは文字で読んだほうがよかったな、と後悔するようなことも少なくないのです。

そこへいくと、小説でない新書系の本などは、そういう問題がありません。
図やグラフなどは添付ファイルを開いて確認しなければならないとか、初耳の固有名詞や専門用語を音声だけでははっきり認識しづらいといった問題はありますが……しかし、小説作品が朗読に受ける影響を考えれば、そうした問題はほとんど無視できるレベルと個人的には思ってます。ゆえに、オーディオブックではそういうものをメインに聴いたほうがいいのではないかと思われるのです。

近頃、アレックス・ヴァン・ヘイレンが回顧録を出版していて、そのオーディオブック版には亡きエディと共に作った最後の曲が収録されているという話ですが、こういったサービスもオーディオブックならではでしょう。そんなふうに見てみると、オーディオブックという媒体にもまだいろいろ可能性がありそうです。



ブログ7周年

2024-08-20 22:45:57 | 日記


本日をもって、このブログは7周年を迎えることとなりました。

よく7年もやってきたものだと思います。
最近はちょっと更新頻度が落ちてますが……まあ、マイペースな感じでやっていこうかと。
そういうわけで、今後ともよろしくお願いします。



高石ともやさん死去

2024-08-19 21:33:39 | 日記


高石ともやさんが亡くなったというニュースがありました。

日本フォーク草創期の巨匠……
RCサクセションがカバーした「明日なき世界」の訳詞は高石さんによるものをベースにしているという話をこのブログで先日書いたばかりでした。
その高石さんのバージョン。

明日なき世界

RCバージョンは、基本的にこの歌詞ほぼそのままです。
高石ともやという人は、忌野清志郎にこうしてとりあげられる存在でもあったわけです。

高石さんは、日本フォークの黎明期を代表するレーベルであるURCレコードの創設にも大きな役割を果たしました。
URCがその後の日本音楽に与えた影響というのは評価が難しいところではありますが……しかし、この国の大衆音楽史にURCというものが存在したことは、誇ってよいでしょう。

もう一曲、ボブ・ディランの曲に訳詞をつけた「時代は変わる」。

時代は変る

この曲に関しては、これまでいくつものバージョンを本ブログで紹介してきました。
まさに、フォークの、そしてロックのグレートスピリッツ……たしかに、高石ともやさんはその絶えざる流れのなかにいる人でした。
冥福をお祈りします。





盧溝橋事件

2024-08-15 22:47:54 | 日記


今日は8月15日。
終戦記念日です。
この日にあわせて、本ブログでは毎年近現代史記事を書いており、今回もそのシリーズで近現代史です。

前回の近現代史記事では、昭和11年の2.26事件を取り上げました。

今回取り上げるのは、その翌年昭和12年に起きた盧溝橋事件です。
ちょっとした軍事衝突から、日中戦争という泥沼に足を踏み入れていくきっかけとなった事件……そこから対米英戦争にまで発展していくわけで、大日本帝国崩壊の序曲といえるかもしれません。



ことの発端は、天津に駐屯していた日本軍が盧溝橋で演習を行っている際に、銃声が響いたというもの。
あわてて点呼をとると、兵士の数が足りない。これは一大事ということで、捜索がはじまります。
よく知られているように、不明とされた兵士は小用を足しにいっていただけですぐに戻ってきていたわけですが、その本人も一緒になって行方不明者を探していました。

そして、銃撃を受けたという報告を受けたのが、そこで連隊長をやっていた牟田口廉也大佐。後に「史上最悪の作戦」として悪名を馳せることになるインパール作戦を指揮したことで知られるあの牟田口廉也です。彼が「断固戦闘を開始して可なり」としたことで、戦闘がはじまります。

衝突開始から二日後の7月9日にいったんは停戦協定が結ばれますが、あいにく当時の日本軍ではこれで話が終わってくれません。
戦闘は、すぐにまた始まってしまうのです。
9日の停戦協定でいったん戦闘がおさまった直後に、「中国側が停戦協定を守るはずがない」といって牟田口廉也は独断で兵を動かします。中国軍の主力がいるとみられる宛平県城にむかって進軍していくと、それを発見した中国側が銃撃してくる。これを受けて牟田口は、やっぱり中国側は攻撃をしかけてきたといって本格的な戦闘を開始するのです。いや、そりゃあんたが軍隊を引き連れて近づいていったからでしょうと思うところですが……まあ、戦争なんてのはこうやって起こるものでしょう。結果、ここから日本は泥沼の日中戦争に突き進んでいくことになりました。

牟田口廉也は皇道派と見られていた人物で、軍内部における派閥抗争で統制派が実権を握ったことにより、天津くんだりに左遷されたというような意識があったといいます。その鬱憤が無謀な行動につながったという見方もあるようです。私としては、こういう後先もなにも考えずにとにかく戦闘に突き進んでいくのがいかにも皇道派気質というふうに感じられますが……
しかしながら、ここでの問題は単に牟田口廉也という人に帰せられるものでもありません。
もっと上にいる人間がそれを止めなかったというところにも、大きな問題があると思えます。
盧溝橋事件から日中戦争という流れの場合、河邊正三という人がいます。この人は、天津駐屯軍で旅団長という立場でした。
7月7日に最初の衝突が起きたときには視察でよそにいっていて、8日に戻ってきたところで、牟田口から報告を受けましたが、そこでは特段軍事行動を咎めはしなかったといいます。しかし、その二日後に牟田口が戦闘を再開した際には、さすがにそれはまずいということで、牟田口のもとに血相を変えてやってきます。しかし、そこで上官としてただちに勝手な軍事行動をやめさせたかというと、そうはなりませんでした。牟田口を鋭い形相でにらみつけただけで、そのまま何も言わずに立ち去ってしまったというのです。
不可解な態度ですが、これはまさに、それまでの十数年にわたって青年将校らの暴走を容認、黙認、追認してきた軍上層部の態度を象徴しているのではないでしょうか。
困ったことをしてくれたとは思っている。だけど、それは咎めたり止めたりはしない、という……
その背景には、いろんな理由があるでしょう。自分自身も一定の理解はしているとか、へたに咎めだてすれば自分の立場が危うい、下手をすれば命の危険すらあるとか、いま止めたところで結局そのうち同じことが起きるだろうから意味がないとか……そういったことがないまぜになって、結局は暴走を止めない、止められない。結果、戦闘はいたずらに拡大して収拾がつかなくなっていきます。

それが、数年後のインパール作戦にまで至ります。
牟田口は牟田口なりに、自分のせいで大変なことになってしまったという意識はあったようで……その状況を打開して罪滅ぼしをするというような考えが、インパール作戦につながりました。
しかしながら、そのインパール作戦は大失敗に終わります。
そしてこのときも、牟田口の上には河邊正三がいました。牟田口は第15軍司令官、河邊はビルマ方面軍司令官という立場で、ここでまた一緒になったのです。同じ二人のあいだで、同じ過ちが繰り返されます。作戦実行前はともかく、実際にやってみて作戦の失敗があきらかになっても、河邊はそれを止めようとしませんでした。
視察に訪れた秦参謀次長が「インパール作戦は失敗だから中止したらどうか」といったところ、河邊は失敗を認めつつも、はっきり中止したいとはいいません。そして、秦が帰国してインパール作戦は失敗だということを遠回しに報告すると、参謀総長を兼ねていた東條英機首相は、「戦さは最後までやってみなければ判らぬ。そんな気の弱いことでどうするか」と一喝したとか……こうなるとまさに、「腰まで泥まみれ」の世界です。

インパール作戦の失敗自体には、戦争初期の勝利からくる慢心とか、敵戦力の過小評価とか、物資の欠乏とかいろいろ理由があるでしょうが……やはりそれとは別に「止めなかった」ということが大きな問題ではないでしょうか。
そしてそれは、盧溝橋事件から日中戦争に雪崩れ込んでいく一連の流れでも同じだったと思われるのです。


……というところで、盧溝橋事件の話に戻りましょう。
武力衝突が拡大しつつあった八月ごろ、その当時の首相だった近衛文麿が南京を訪れて蒋介石と直接会談し和平協定を結ぶ案があったといいます。
衝突再開後に再び結ばれた停戦合意を派兵決定で台無しにしたり、後には蒋介石を「対手とせず」として和平の道を閉ざすなど事変対応にはいろいろと不手際を指摘される第一次近衛内閣ではありますが……決して対中戦争一辺倒ではなかったのです。
しかし、このトップ会談の話は、結局立ち消えとなりました。
当時内閣書記官をつとめていた風見章によれば、立ち消えとなった原因は陸軍の統制力に対する疑念でした。
すなわち、仮にトップ会談によって和平が成立したとしても現地軍がそれを遵守する保証がない、という問題です。
現実問題として、先述したように衝突発生直後に一度は現地で停戦協定が結ばれているにもかかわらず、それがすぐに破られているわけであり……この懸念は決して捨て置けるものではありません。というよりも、政治家同士のトップ会談で和平が結ばれたとしても、現地軍がそれを無視するであろうことは――驚くべきことに――当時の中国大陸ではほぼ確実とさえいえたでしょう。近衛政権で外相をつとめていた広田弘毅を派遣するという話もあったようですが、打診を受けた広田も、やはり難色を示します。広田はその前に総理大臣をやっていて、軍の横暴をいやというほど味わっていたために、よりいっそう懸念は強かったでしょう。
こうして、軍の上層部も政治家も軍の暴走を止めることができず、日本は中国大陸で戦争の泥沼に沈み込んでいきます。腰まで、首まで泥まみれとなっても、愚か者は「進め」と叫ぶ……まさに「腰まで泥まみれ」を地で行く話です。その先に破滅的な事態が待っているのは、ある意味当然ともいえるでしょう。