もう一週間前のことになりますが、兵庫県知事選挙で出直し立候補した斎藤元彦氏が再選されるということがありました。
いろいろあってタイミングを逸したので、この件について本ブログでは何も書きませんでしたが……一週間が経過しても、まだこの話題をめぐっていろいろざわついているようです。そういうことなので、ここでちょっと私も思うところを書いておこうと思います。
振り返ってみると、今年は、選挙という制度について考えさせられることがいろいろとありました。
沖縄県議選。東京都知事選。衆院選。アメリカ大統領選挙、そして兵庫県知事選……
とくに、直近のものとして、アメリカ大統領選挙や兵庫県知事選は、非常にカオスな感じがありました。これは都知事選にもいえるかもしれませんが、ウェブ上の無秩序空間がいよいよ現実の選挙に無視できない影響を及ぼし始めたような……
兵庫県知事選に関しては、そもそもパワハラ問題というのがあって、選挙期間中にもいろいろと騒動があり、今また公選法違反疑惑が持ち上がっていたりするわけですが……私がこのカオス状況で声を大にしていいたいのは、多数決は“正しさ”を担保するものではない、ということです。
東国原英夫氏が今回の選挙の結果を受けて謝罪したという話がありましたが、そこで謝罪になるのはおかしいと私としては思います。
参考までに、その動画を載せておきましょう。
東国原英夫 兵庫県知事選挙で、そういう県民の皆さん、有権者の方たちが選ばれた斎藤知事っていうのは…
氏も注意深く言葉を選んで話してはいますが、つまりは、選挙で勝ったということを正当性の根拠としているように聞こえます。
それは違うだろう、と。
多数決とか選挙とかいうのは選択の一手段にすぎないのであって、「多数決で決まった」=「正しい」ということではないはずです。たとえば、正誤の判断が比較的つけやすい科学の歴史を見てみれば、多数意見が間違っていたことは山ほどあります。多数決で決まったことと、その判断が正しいかどうかは別問題なのです。
たしかに、東国原氏がいうように、民意は重いでしょう。しかしそれは、多数決で決めた方針にとりあえずは従いましょうということであり、それに反対したり間違っていると批判してはいけないということではありません。それがすなわち少数意見の尊重ということであり、そこを間違えると、多数決主義は暴走のリスクを抱えることになるでしょう。
まして今回の兵庫県知選挙は、関連する種々の報道をみていても、相当に危うい、選挙制度そのものが危機にさらされた選挙だったように思えます。そこはきっちり批判すべきであって、何であれ選挙に勝ったのだから文句をいえないということではないでしょう。件の動画の後半部分で東国原氏が語っているのは、そういった点も踏まえた内容だと思われますが、ウェブ上の虚実入り混じったカオスが選挙の結果に影響を与える状況は、本当にどうにかしないといかんと思います。
歴史を振り返れば、選挙というシステム自体は相当昔から存在しています。
それらのなかには、それはどうなんだと思えるようなものも少なからずありました。
たとえば中世ポーランドの選挙王政というものがあります。貴族たちのあいだで選挙して王様を選ぶという仕組みですが、これで王様を選んでいた結果、貴族たちがそれぞれ自分に都合のよいものを王様にしようと工作し、そうした閥族間の抗争が外国勢力の介入を誘発することもあり、結果としてポーランドを弱体化させたといわれます。
そういう人類の歴史というスケールでみれば、選挙というのは、イコール民主主義ではないし、そこで出た結果を神聖視するようなものでもない―と私としては思います。選挙制度が民主的な社会を支えるものであるためには、なにかプラスアルファがなければならない……昨今の選挙をみていると、そのプラスアルファ、選挙制度を民主主義の礎たらしめる土台が崩れつつあるようにみえます。その土台をきっちり固めなおさないと、いずれ深刻な問題に直面することになるんじゃないでしょうか。