ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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ゲゲゲ忌

2023-11-30 23:32:15 | 日記


今日11月30日は、ゲゲゲ忌。

水木しげる先生の命日です。

水木先生といえば生誕100周年記念ということでその前後も含めた3年間でさまざまなアニバーサリー企画が展開されており、このブログでも何度かそれらについて書いてきました。
たとえば今月は『悪魔くん』新作アニメの配信が始まったという話がありました。
そして、水木先生のもう一つの代表作である『ゲゲゲの鬼太郎』のほうも、新作映画が公開されています。

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』本編映像(鬼太郎の父たちの運命の出会い)

最近の記事では、松本零士先生が大刀洗平和記念館で展示されている戦闘機の復元に協力したという話がありましたが……同館にはこの経緯を語る新聞記事の写しが展示されており、そこに水木先生の名前も出てきていました。水木先生もまた戦争経験者であり、戦争の悲劇を語り継ぐということを使命としていました。その点で、松本零士先生とは盟友のような意識があったといいます。

また今月は、手塚治虫というもう一人のレジェンドに関する記事も偶然いくつかありました。

戦争の悲惨を語るという点では、手塚先生もまた先の二人に劣るところはなかったでしょう。
そして、水木しげると手塚治虫というこの二人は、ある種ライバルのような関係でもありました。

水木作品が子供たちの間で妖怪ブームを巻き起こすと、生来負けず嫌いの手塚先生も妖怪漫画のフィールドへと果敢に進出し、そこであの名作『どろろ』が生まれるわけです。

……と、このように、水木しげるという漫画家は、日本漫画勃興期において、天才たちと互いに触発しあったレジェンドなのです。

最後に、今回の劇場版新作で大ヒット御礼舞台挨拶という動画がつい数時間前に公開されていたので、そちらを載せておきましょう。

【トークノーカット】関俊彦、木内秀信、古賀豪監督が登壇『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』大ヒット御礼舞台あいさつ

 

尾崎豊デビュー40周年

2023-11-29 23:38:18 | 日記

今日11月29日は、尾崎豊の誕生日です。

実は尾崎豊、今年でデビュー40周年だとか。
尾崎については過去に一度記事を書きましたが、せっかくのアニバーサリーイヤーということで、ちょっと尾崎豊について書こうと思います。


先日ブルース・スプリングスティーンが50周年という記事を書きましたが、尾崎はそのスプリングスティーンから強い影響を受けています。もっと大幅に年代が違うように私は思ってたんですが……50周年と40周年ということなので、今の時点から見れば案外そんなに離れていないといえるのかもしれません。

ブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウンを聴いて影響を受けたということは尾崎本人が語っていますが、青臭いメッセージ性はジャクソン・ブラウンの影響、音楽的にはブルース・スプリングスティーンの影響が顕著であるように思われます。曲によっては、これは訴えられたらアウトなんじゃないかというものもあったりして……まあ、それはあくまでリスペクトということなんでしょうが。


代表曲といわれると難しいところがありますが、まあやっぱり最大公約数的には I Love You でしょう。
Youtubeでその動画を見つけたので、のせておきます。(ただし、アルバムジャケットの静止画に音楽を載せたもの)

I Love You (Live Core at Tokyo Dome, 1988/9/12)

1988年、東京ドーム公演の音源です。
ちなみに、このステージでは今は亡き村上ポンタさんがドラムを叩いていました。
I Love You ではドラムの出番がないので、そのドラムを聴ける音源ということで、「愛の消えた街」。曲の終わりに長めのドラムソロがあります。

Ai No Kieta Machi (Live Core at Tokyo Dome, 1988/9/12)

このライブアルバムは今から10年前にリリースされたということなんですが……正直、尾崎の声はかなりやばい状態になっています。1988年というのは、薬物で逮捕された尾崎が東京拘置所から釈放されて数か月後というタイミングです。聴いていて苦しい部分がかなりあるのは、心身の状態が反映されているのかもしれません。I Love You はそれほどでもありませんが、曲によっては相当苦しいところもあります。
本人が死んでいる以上、新たにリリースされるのはお蔵入りしていた過去音源の類であり、お蔵入りしていたのにはそれなりの事情がある、ゆえにクオリティとしては難のあるものが少なくない……これは、本人が死んだ後にリリースされる“新作”の宿命ともえいます。私は未視聴ですが、映像で見るとさらに痛々しいところもあるそうです。
しかしまあ、そういうところも含めて、その当時の熱量というか、鬼気迫るまでの生き急いでる感を感じられる音源でしょう。
最近AIを使用したあれこれという話がありましたが……AIが発達していっても残るのは、そういうところなんじゃないでしょうか。


ブラックジャック50周年……そして、新作発表

2023-11-25 21:26:51 | 日記


TEZUKA2023プロジェクトによる、『ブラックジャック』の新作が発表されました。

手塚先生の作風を学習させたAIによる新作。
前々から話題になっていましたが、今週の週刊少年チャンピオンにおいてついにお披露目となりました。
今年は『ブラックジャック』の連載開始50周年にあたるということで……こんなところでも50周年があるわけです。


今回の作品は、AIを使っているとはいうものの、そこまでがっつりAIの作ということでもないようです。
いまのAIだったら、ストーリーを作るだけでなく作画も全部こなせるんじゃないかと思いますが、そこまではしていません。ストーリーは人間とAIがやりとりしながら練っていき、作画はAIの提示した絵を参考にしつつ、最終的には人の手で行っているということです。

内容は、たしかに手塚先生の問題意識を反映したものでしょう。
たとえば『火の鳥』に描かれたような……この作品には、ほぼ全身を機械に置き換えて生存しているという人物が出てきますが、似たような話が生命編の一挿話としてありました。
このへんが、AIによる作品ということを考えるうえで、案外一つ重要なポイントなんじゃないかとも思えます。
機能不全となった体の部位どんどんを機械に置き換えていって、どこまでが人間でいられるのか……そんな深いテーマを取り扱っているということになるんでしょうが、しかし、見方を変えれば過去の手塚作品の中からそういうエピソードを拾い上げてきただけというふうにもとれると。ここに、私がAI生成に対して持っている一つの懸念――「AIが学習によって生成するものは既製品のパッチワークにすぎないのではないか?」という問題が顔をのぞかせているようにも思われるのです。
すなわち、AI生成によって作られるシナリオや絵は、結局のところ「どこかで見たような」ものを延々再生産し続けるだけのものになってしうまのではないか、新しいものは作れないのではないか、ということです。
AI生成が、「既存の作品の学習」で成立している以上、それは避けられないのではないでしょうか。
もちろん人間の作る作品であっても「既製品のパッチワーク」という側面は多分にあるでしょうが、しかしそれでも人間の場合は「外部」との干渉が存在します。外部からのインスピレーションによって、それまでにはなかった新しいものを生み出すことができるのです。一方AIは、取り扱える情報がコンピューターの内部で完結していて、外部からインスピレーションを得るということができません。今回のプロジェクトでは、AI生成における著作権はどうなのかという議論も考慮してか手塚作品のみを学習素材としているんだそうで、そういう学習範囲の限界もあってのことでしょうが……先述したような問題意識を踏まえて読むと、やはり「どこかで見たような」シーンの集合体のようにも見えてしまうのです。結局、与えられたテーマに基づいてベクトル計算し、その結果学習データの中から近いものを引っ張り出してきてつなぎあわせているだけのではないか……そんなふうに考えると、ぞっとするような冷たささえ感じられます。
新しいもの、ということでいうと、手塚先生はその生涯において、絶えず新しいものに目を向け続けた人です。だからこそ生涯現役のままでいられた、ということを以前も書きました。たとえば、劇画というものが台頭してくれば、劇画のテイストを取り入れる……それはまさに、自分の内部にはない、外部からの要素を取り入れて新しいものを作り出すということなのです。その観点からすると、過去の手塚作品を学習して「似たようなもの」を作るというやり方は、手塚先生のスタイルを再現することにはなっても、アティチュードの再現にはならないのではないでしょうか。


……と、まあ批判的なことをいいましたが、そうはいってもやはり、今回の試みは非常に興味深いものです。
もとより、短編一本だけでAIの限界を云々するのも早計ではあるでしょう。
なので、せっかくならもっと大きなプロジェクトをやってみるといいんじゃないでしょうか。
長編を一本……たとえば、構想のままで眠っている『火の鳥』大地編をAIが完成させる。これぐらいの野心的なことをやってみたら、そこから侃々諤々の大論争が持ち上がり、また新たな知見を得られるのではないでしょうか。



震電を見に行く

2023-11-22 21:01:44 | 日記



大刀洗平和記念館にいってきました。

大刀洗は、私の住む小郡市の隣町。
かつて陸軍の飛行場があった場所で、その関連で平和記念館があります。
いつかいってみようと思っていたんですが、今回ちょっとしたきっかけがあって、それが実現しました。
そのきっかけとは、十八試局地戦闘機“震電”。
このあいだ紹介した映画『ゴジラ -0.1』に登場するあの震電……そのレプリカが大刀洗平和記念館に展示されています。



そして、この実物大模型こそが、『ゴジラ -0.1』の撮影に使用されたものなのです。
これについてはちょっと前にウェブ記事で見ていたんですが、そのときは情報解禁前で、いつ製作されたのかは不明みたいなことが書かれていました。しかし、最近情報解禁となり、これが『ゴジラ -01』の撮影に使用されたものであることがあきらかにされています。隣町にそれがあるというのも奇縁、これは見にいかないわけにはいかないでしょう。

(※館内の展示物は基本的に撮影禁止。ただし、飛行機は撮影可)


しかしながら、この大刀洗平和記念館というところは、ただ物見遊山で楽しく見学できるようなところでもありません。
やはり戦争関連の展示施設であり……また、大刀洗陸軍飛行場というのは、特攻とも深いかかわりがあるところなのです。九州で特攻の拠点としてよく知られる知覧も、ここにあった飛行学校の分校だったんだとか。また、大刀洗から直接出撃した特攻隊もあったといいます。



平和記念館に展示されている飛行機は、震電以外に二機あります。
震電はレプリカですが、ほかの二機はどちらも実物。
そのうちの一機が、零式戦闘機――いわゆるゼロ戦の「三二型」という機種。同型で現存する機体はこの一機だけということです。



そしてもう一機が、九七式戦闘機。
特攻そのものには失敗して長らく海中に没していたものを引き揚げ、こうして展示しているということです。



この九七式の展示に、意外な人物がかかわってきます。
それは、故・松本零士先生。
この機体に装着されているタイヤは、松本零士先生が寄贈したものだそうです。



先生は、戦史漫画を描く関係でそうした史料を多く所蔵しており、そのなかに九七式の車輪もありました。戦争の悲惨を語り継ぐということを使命としていた松本先生は、九七式修復展示の話を聞いてその車輪を寄贈したのです。

そして、松本零士先生は、この大刀洗陸軍飛行場と浅からぬ縁がありました。
松本先生は福岡県久留米市の出身ですが、それは父親である松本強氏が大刀洗陸軍飛行学校で教官をやっていたからということなのです。
上官から特攻に行かせるパイロットの名前に〇をつけて提出しろと命じられた強氏は、自分の名前だけに〇をつけて提出したといいます。しかしそれは突き返され、泣く泣く特攻者のリストを作ったとか。戦後になって特攻で戦死したパイロットの遺族が話を聞きに来たりすることもあり……そういった経験があって、松本零士先生は戦争の悲惨というものを身に染みて感じていました。松本零士作品は、ともすれば戦争賛美、特攻賛美のようにとられることもありますが、決してそうではないのです。


ここで、特攻ということにもちょっと書いておきましょう。

特攻を決して賛美してはならないというのは前にもどこかで書いたと思いますが、これは単に倫理上の問題というだけではありません。
純粋に、軍事・戦略という観点からも、特攻というのはまったく間違っているのです。
日本という国は、資源に乏しいわけです。資源に乏しいからこそ、現有する資源はなるべく損耗しないようにしなければいけません。車両や艦船・飛行機の類は、なるべく無駄にしない。兵員も、極力死なせない、助かるものならなるべく助ける――そんなふうにして、限られた資源を大事にしなければいけなかったのです。しかし、特攻というのはその真逆。使い捨て思想の極致です。そして、この使い捨て思想こそが大日本帝国が敗戦にいたった大きな要因の一つともいわれています。

近代産業国家の総力戦というのは、再生産力の勝負であり、局地的な戦闘一つ一つでの勝敗にはさほど意味がない。戦闘による消耗とそこからの再生産を互いに繰り返していくうちに、資源力・生産力にまさるほうがじりじりと優勢になり、勝利する……この観点に立てば、特攻というのは、やればやるだけ自軍をより不利にしていく愚策にほかならないのです。特攻というかたちで戦死したパイロット個々人を貶めるつもりはありませんが、それを作戦として推し進めた人たちに関しては、度し難いといわざるをえないでしょう。

『ゴジラ -0.1』でも特攻というのが作品全体を貫く大きなテーマとなっているわけですが、あの映画もやはりそれを賛美するというかたちにはなっていません。映画のキャッチコピーにもあるように「生きて、抗え」ということなのです。それは軍事・戦略とかいったこととはまた違うレベルの話でもあると思いますが、戦後もう80年近くとなり、ややもすれば戦争がロマンとして扱われるような感覚さえあるこの時代に新たなゴジラ作品は異を唱えているのではないか。そんな気もします。



映画『ゴジラ-1.0』

2023-11-19 22:21:17 | 映画


『ゴジラ -0.1』、観てきました。

これは、なかなかすごかったと思います。

あんまりヨイショするようなことは書きたくないんですが……しかし、シリーズ屈指の傑作といってもよい作品ではないかと思います。
私の中ではゴジラシリーズでは第一作が別格の最高傑作というのは揺るがないというのがあるんですが、『-0.1』は、その第一作の存在に正面から向き合い、それに恥じない作品となったのではないでしょうか。


「第一作に向き合う」というのがどういうことか、少し詳しく書きましょう。


以前どこかで書いたと思いますが、第一作『ゴジラ』が別格の存在という感覚は東宝の制作陣にもあったようで、以後シリーズ作品が多数作られていくなかで、第一作に触れるのはタブーのようになっていたといわれます。
そんななかにあって、果敢に第一作と向き合った作品が、たとえば『ゴジラVSデストロイア』でした。これは東宝の枠組みの中でゴジラの終わりを描いた物語でしたが、禁忌に触れるのはむしろ外部の監督のほうがやりやすいということはあるでしょう。そこで、大胆な挑戦をしたのが庵野監督の『シン・ゴジラ』。『シン・ゴジラ』では、『ゴジラの逆襲』以降のゴジラシリーズではじめて、ゴジラの存在を前提としない作品でした。すなわち、ゴジラというものが認知されていない世界に、「謎の巨大生物」としてゴジラが登場するわけです。
そして、今回の『ゴジラ -0.1』です。
この作品も、ゴジラの存在を前提としていません。そもそも時代設定がゴジラ第一作よりも昔に設定されており、「続編」ではなく「リメイク」に位置づけられる作品となっています。
これは、相当に勇気のいることです。
なにしろ70年の歴史を持つ、日本を代表するばかりでなく、世界でもっとも有名といってもいい怪獣映画。大向こうでは、ゴジラシリーズをすみずみまで知り尽くした観客たちが鋭い目をむけています。そこに新たなゴジラを提示する……一歩間違えれば大炎上となりかねない、そのリスクは決して低くないなかでの登板なのです。たいへんな覚悟のいることでしょう。

この作品の大きなポイントとして挙げたいのは、ゴジラを完全に「恐怖」の存在として描いたこと。

本作におけるゴジラの熱戦はシンゴジラと同レベル、あるいはそれ以上の威力を持っており、キノコ雲のような爆炎をたちのぼらせ、しかもそのあとには「黒い雨」が降ってきます。ここには、あきらかに原爆のイメージがあります。核の恐怖という、ゴジラ本来の姿……庵野ゴジラでは設定変更がこの点にまで及んでいましたが、『-0.1』では、そこは踏襲しています。核、そして戦争の恐怖としてのゴジラをここまで徹底して描いたのは、実に第一作以来のことではないでしょうか。


もう一つのポイントは、人間ドラマとのかかわり。人間側のドラマが、丁寧に描かれているという部分です。
ゴジラシリーズ映画では、しばしば人間側のドラマは添え物であり、見る側もまあ、そこには多くを求めていないという部分がありました。
しかし、『ゴジラ -0.1』では、人間のドラマのほうも、きっちりそれ自体で一つのドラマとして成立するように描かれています。そして、そのドラマがゴジラとの戦いという部分と有機的に結びついているのです。

そのドラマの出発点といえるのが、「特攻」。

このあたりのことについて詳しく書くとネタバレになってしまうので詳細には触れませんが、このテーマの取り上げ方についても好感をもてました。
じゃあ第一作のあれはどうなんだ、という意見も出てくるかもしれませんが……芹沢博士は別に「特攻」したわけではないということは、申しあげておきたいと思います。


最後に、劇場で買ってきたグッズを。

一つは、アクリルスタンドです。


キーホルダーでもありますが、チェーンをはずしてアクリルスタンドにもできます。

そして、シャープペンシル。
尾部にゴジラのフィギュアがついています。



非常に小さいものですが、結構作りこまれています。


もう70周年を迎えるゴジラシリーズですが、『シン・ゴジラ』、そして今回の『ゴジラ -0.1』と、力の入った重量級の新作が続いたことで、まだまだゴジラは終わっていないな、と感じさせられます。新時代のゴジラに、今後も期待大です。