【公式】「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」予告 ゴジラとアンギラスがタッグを組んで地球を守るゴジラシリーズの第12作目。
今回は、音楽記事です。
このカテゴリーでは、以前ジミ・ヘンドリクスについて書き、次回はマディ・ウォーターズのことを書くと予告しました。
そこから別カテゴリーの記事がはさまりましたが……いよいよ、予告していたマディ・ウォーターズの記事をアップしたいと思います。
マディ・ウォーターズは、フーチー・クーチー・マンなどでも知られるアメリカの伝説的ブルースマンです。
出身は南部ですが、シカゴブルースのレジェンドとして知られています。
それは、「都市の洗練された音楽」になっていたブルースに、南部の泥臭さを持ち込んだためともいわれます。
工業都市であるシカゴでは、ブルースが、いつの間にか高級な音楽になってしまっていた。
そこへ、マディ・ウォーターズのブルースが一種の原点回帰をもたらしたというわけです。
では、ブルースの原点とは何なのか?
これはなかなか難しい問いでしょうが……ブルースの源流をたどっていくと、一つのルーツとして、ワークソングがあるといわれます。
たとえば、ブルースの歌詞には同じフレーズを2回繰り返す表現がよく見られますが、これはコール&レスポンスの名残ともいわれます。
労働者たちが、労働の合間に歌を歌う。
一人があるフレーズを歌うと、周りにいる仲間たちが唱和して、そのフレーズを繰り返す。
これが、コール&レスポンスです。
ワークソングの流れを汲むブルースの歌詞にも、それが入り込んだ。しかし、ブルースシンガーの場合はそれを一人で歌うので、合いの手(レスポンス)が入らない。そこで、一人で同じフレーズを2回繰り返すようになった……というわけです。
つまりブルースは、労働者の歌であり、労働者の悲哀がそこに込められているのです。
20世紀初頭、都市労働者という階層が形成されたのと同時に、世界中の都市に労働者階層の大衆歌が形成されましたが、アメリカにおいてはブルースがそれにあたるといわれます。
ところが、そうした音楽にも、時がたてば“疎外”が生じる。ブルースも、音楽として洗練されていきます。
それ自体は、音楽の流れとして当然のことです。
しかし、洗練されたお洒落な音楽になったのでは、魂が消えてしまう。労働者の苦悩や辛酸が感じられなくなる。
そこへ、南からマディ・ウォーターズがやってきた。
野卑で、猥雑なだみ声――洗練によって失われてしまった魂がそこにあった。ゆえに、シカゴの労働者たちにとっては、「これこそブルースだ!」となったのでしょう。
こうしてマディ・ウォーターズは、歴史に名を残すブルースの巨人となりました。
そのブルースは、ロックにも大きな影響を与えています。
ビートルズの Come together の歌詞に出てくる muddy water という言葉は明らかにマディ・ウォーターズを意識したものであり、また、ロッド・スチュワートは「ありがとう、サム、オーティス、マディ」と歌い、サム・クック、オーティス・レディングと並べて彼を讃えました。マディ・ウォーターズの代表曲の一つであるRollin' Stone が、雑誌のタイトルとなり、またローリング・ストーンズのバンド名の由来となったことはあまりにも有名です。
で、そのRollin' Stone です。
しかしながら、YouTubeには公式チャンネルがありました。
その動画も貼っておきましょう。
Muddy Waters - Rolling Stone(Catfish Blues) (Live)
以前ジミヘンの記事で書いたとおり、Catfish Blues という曲がもとになっています。人によっては、同じ曲として扱う場合もあるようです。この動画でも、カッコ書きで Catsifh Blues としてます。昔の歌は、歌詞の一部が変っていたり、同じ曲が複数の違うタイトルで紹介されていたりすることが結構あるので、そういう意味で同じ曲ととらえているんでしょう。
黒人=絶倫というステレオタイプが古くからありますが、ブルースはそのイメージを取り入れているところが多分にあります。同じマディ・ウォーターズでいえば、フーチークーチーマンがその最たるものでしょうが、Rollin' Stone も同系統にあるといえるでしょう。差別を受けている黒人が、白人から投影されたイメージをみずから演じる――という、屈折した構図がそこにあります。
そして、それを白人が真似するというさらに屈折した構図がロックンロールにあるというのは、これまでにも指摘したとおりです。
で、最初の本格的白人ブルースシンガーといわれているのがエリック・バードンなわけですが……やっぱり、聴き比べてみると、マディ・ウォーターズとはずいぶん違います。なにかこう、声が響いてくるその元栓の部分からまったく違うような気がします。ジャズの世界でよく「黒っぽい音」とかいいますが、そのフィーリングに通ずるものでしょうか。どうやったって、こんなふうに歌えるわけがねえ……というコンプレックスのようなものが、後のロックンローラーたちにはあったわけですね。
ちなみに……
恒例の我田引水となりますが、この Rollin' Stone は、トミーゆかりの曲でもあります。
このブログで何度か紹介してきた、連作短編集『トミーはロック探偵』のなかに、この曲を題材にした短編がありました。
……というわけで、ジミヘン記事に引き続いて、強引に自作に寄せていく荒業でした。
ETV特集「辺野古 基地に翻弄された戦後」という番組を観ました。
昨今はジャーナリズムも劣化を指摘されますが……なかなか良質で見ごたえのあるドキュメントでした。
テーマは、辺野古です。
現在の泥沼状態に至るまでを、敗戦後に沖縄が米軍統治下に置かれたところからたどっていきます。
キャンプ・シュワブができる過程では、圧倒的な権力を持つ側の狡猾な戦略が描かれます。
その当時も、基地建設に対して住民の間では激しい反対運動が起きたそうですが、アメリカ側は“アメとムチ”で反対派住民にくさびを打ち込み、分断していきます。
反対してもどのみち勝ち目はない。だったら、基地建設を認めたうえで見返りを得たほうがいい……こうして反対派の一部を条件闘争に移行させることで、反対運動を分断。いったん基地を作りはじめれば、既成事実化し、今さら反対してもしょうがないという空気ができあがる……
これは、沖縄の基地をめぐる闘争において、今にいたるまで何度も繰り返されてきたことでしょう。
見返りをちらつかせ、反対し続けるよりは見返りを得たほうが……という方向に誘導し、住民を分断する。そのたぐいの話は、幾度もありました。
辺野古の歴史を鑑みれば、その“見返り”も結局は一時的なものでしかありませんでした。
そもそも、外国の基地に依存する経済はきわめて脆弱なものでしょう。アメリカ側の事情に振り回され、いつ生活の糧を断たれるかわからない不安定な状態です。これは果たして、見返りといえるものなのか……
そして、現在の辺野古では、普天間返還にあわせてということで新たな基地が作られています。
この工事に関しては、大浦湾に軟弱地盤があることが明らかになり、政府もそのことを認めています。
しかしながら、政府はもう計画を止めるつもりはなさそうです。
以前も指摘したとおり、そういう場所に基地を作るのは、純粋に安全保障という観点から見ても問題があるでしょう。いざ有事というときに、液状化とか滑走路が傾いているとかいうことになって使えなかったらどうするんでしょう。それとも、そんなことはありえないと言い張るんでしょうか……
大量の杭を打ち込むという工事が技術的に可能だとしても、そういうリスクがわずかでもあればそれを避けるのが安全保障ということなんじゃないでしょうか。
現状ではもはや、辺野古に基地を作るということそれ自体が目的化してしまっています。
先日、推理作家協会の作家らが抗議の声明を出した件をこのブログで紹介しましたが、そこにあったように、硬直した政府の姿勢は“異常”と表現されてもやむをえないものでしょう。
ドキュメントでは、旧民主党政権が県外移設を打ち出したものの、結局その方針を変更したことも描かれていました。
この件についても、その背景にあったとされる「65カイリ基準」とか米側による「大使呼び出し」という話が、いずれも後に虚偽であったことが明らかにされています。こうして、目的も、その過程も欺瞞にまみれたなかで、基地建設だけが続いているというのが実情なのです。
このドキュメントのなかで、「相手は巨大な怪物」という言葉がありました。
辺野古住民の一人が口にしたこの言葉は、じつに印象的です。
これを聞いて私は、以前このブログで書いた『ゴジラ対ヘドラ』を思い出しました。
ヘドラは、若者たちの運動を押しつぶす巨大な体制の象徴のようなものともとれると、そこでは書きました。ここでいう“体制”とは、単に政府という意味ではありません。もっと広範な、世間とか、経済とか、そういうものを含めた意味での“体制”です。
辺野古の基地建設に突き進む今の状況は、あの、ヘドラの醜悪な姿そのものではないでしょうか。これをなんとかできるかということで、日本という国が試されているような気さえします。