ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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中上健次「十九歳の地図」

2018-04-30 21:01:11 | 小説
今回は、小説系記事として、中上健次の「十九歳の地図」という作品を紹介します。

タイトルをみるとすぐわかるように、尾崎豊の『十七歳の地図』のタイトルはここからとられているんですね。

以前尾崎豊に関する記事を書き、そこからこの「十九歳の地図」のことを思い出したので、ちょっとした小ネタとして紹介しようかと思いました。



尾崎の作った歌を聴いたプロデューサーの須藤晃さんは、これは「十九歳の地図」に描かれた感覚に似ていると思ったといいます。それで、「十七歳の地図」ということになったのだそうです。


しかし、「似ている」といわれると、どうなんでしょうね。

現物が目の届く範囲にないので確認できないんですが、中上健次の「十九歳の地図」は、もっと殺伐としていて、出口のみえない感じがあったように記憶してます。映画の『タクシー・ドライバー』みたいな感じで。

そこへいくと、尾崎の「十七歳の地図」は、やっぱりどこか青臭い。
“もとの歌”(尾崎の死後に発表された STREET BLUES という歌)のほうは結構殺伐としてますが、デビューアルバムに収録された「十七歳の地図」は、Jロックふうにちょっと浪花節調なところがありますね。「電車の中 押し合う人の背中にいくつものドラマを感じて 親の背中にひたむきさを感じて この頃ふと涙こぼした」みたいな歌詞がそんなふうに感じられるんです。

そこと比べると、中上健次のほうが、パンクっぽいぎらついた絶望感が漂っていたように思います。

小説の「十九歳の地図」の内容は、新聞配達かなにかで暮らす青年の日々の生活です。
それこそ、タクシードライバーのような、見通しのない日々……その鬱屈が描かれています。
これはまさに、パンクです。
中上健次本人はパンクに特に興味もなかったろうと思いますが、エッセイでジミー・クリフがいいと書いていたような気もします。ジミー・クリフといえばレゲエの人で、レゲエももとをたどれば抑圧に抗するレベルミュージック……そういう意味では、ベクトルは共有しているんだと思えます。実際のところ、パンクはレゲエとかなり親和性がありますからね。

そこが、「十七歳の地図」と「十九歳の地図」の違いかなと思います。

「十七歳の地図」の、上に引用した一節なんかは、世の中との“和解”の匂いがします。

でも、パンクは世の中と和解なんかしません。どこまでも非妥協的にケンカし続けるからこそパンクなんです。

尾崎の場合、もとの歌であるSTREET BLUES に先の一節はないんですが、メジャーデビューするにあたって曲を作るとなって、こういう歌詞になりました。尾崎自身に心境の変化があったのか、須藤さんがプロデューサーとしてそういう方向性を出すよう提案したのかはわかりませんが……ともかくも、完成した「十七歳の地図」は、出口のない地図ではなく、“和解”の道筋を示しているように思えるのです。

こういう経緯をみていると、やはり日本はパンクにとって不毛の地なんだなと思います。
儒教的な価値観が浸透していて、世の中との和解をいやでも強いられるから、パンクはアングラな世界に追いやられるんでしょう。
“世間”が大きく強すぎるから、世間と戦おうとしてもはなから勝負になりっこない。だから、社会の抑圧を告発するのではなく、その抑圧と自己の軋轢を“内面の葛藤”としてと描く……日本では、文学にもそういう傾向がたぶんにあると思いますね。
そこでは、抑圧は所与のものとされていて、変革する対象にはなりえない。だから、日本の社会運動はほとんどの場合において挫折する。で、「いちご白書をもう一度」みたいなことになる。結果、封建的なムラ社会が温存されていく……これじゃ、パンクははやらないわけです。


……なんだか、なにを言いたいのかよくわからなくなってきました。まあ、いつものことではありますが。
別に、尾崎豊をディスろうなんていうつもりはないんです。
こういう見方もできるんじゃないかな……というぐらいに読んでいただければと思う次第です。

歴史的南北首脳会談

2018-04-27 23:07:06 | 時事
韓国で、南北首脳会談が行われました。

およそ70年近くにもわたって続いている南北の対峙を終息させることを目指す、歴史的な会談です。

もちろん、北朝鮮という国が相手ですから楽観視はできませんが……しかし、これまでの経緯を考えれば、大きな進展でしょう。

前にも書きましたが、これが正しい方向性だと思います。

対話によってしか解決は望めないんです。

韓国の文大統領は大統領選のときから北朝鮮との融和路線を掲げていましたが、その路線が実ったということなんでしょう。

それにしても、日本はまったく蚊帳の外ですね。
振り上げたこぶしをおろせずに水を差すようなことばかりいって、のけ者にされたというところでしょう。
先にも書いた通り、北朝鮮の融和姿勢をそのままに受け取ることにも問題はあるでしょうが、それにしても、ひとまずは和平への一歩を歓迎するべきじゃないでしょうか。

金正恩は、「安倍政権は一切とりあうな」なんて指示を出してたそうですが、この問題に関して日本はすっかり浮いてしまってますね。

あまつさえ、南北首脳会談の日に、エリート官僚のセクハラに関する処分が国内ニュースのトップを飾るという……なんとも情けないかぎりです。

尾崎豊について考える

2018-04-25 20:01:58 | 音楽批評
今日は4月25日。

尾崎豊の命日です。

尾崎豊……

私にとっては、複雑な感情を持つアーティストです。

十代の頃は、かなりはまっていました。

しかし、その後歳月を経るにつれて、変化もありました。

尾崎豊なんていうと、ロック界隈では冷ややかな目で見られることも少なくないです。
大人になってから聴くと、あの頃の大人たちがそういう見方をしていたのもなんとなくわかる気はします。しかしそれでも、自分がたどってきた音楽を考えると、はずすことはできない存在なんだと思います。そこで、今日は尾崎豊について書きます。


(こちらの画像は、遺作となった『放熱への証』のジャケット。身の回りに置いてあるCDから探してみたところ、これが見つかりました)



尾崎豊を特徴づけるのは、あの青臭いメッセージ性ですね。
そこが、好きな人は好きになるところで、嫌いな人は嫌いになるところでしょう。

尾崎豊は、ジャクソン・ブラウンに影響を受けたと自ら語っていますが、青臭さもジャクソン・ブラウンの影響と思われます。
「愛という言葉をたやすく口にするのを嫌うのも、いったい何が愛なのか、それは誰にもわからないから」と歌うという……
アンチの人からすると「それ歌でやる必要ある?」ということになるんだと思いますが。
さらに、歌だけでは足りず、演奏をバックに朗読みたいなこともやっていて「ほざき豊」と揶揄されたりするわけです。
しかし私の場合は、そういうところを“深さ”と認識して、惹かれていました。

もっとも、私が尾崎豊を知ったのは、OH MY LITTLE GIRL という曲です。
すでに尾崎が世を去ったあとで、この曲がテレビドラマの主題歌として使われていて、それで知ったのでした。
この歌は、純然たるラブソングであって、青臭いメッセージ性みたいなものはあまり感じられません。それでも、この曲が私の心に訴えかけてきたわけです。そこから尾崎豊という人に興味をもち、「卒業」とか「15の夜」とかを聴いて青臭さの方向にいったのは、そのあとのことでした。
当時うちの近くにあったレンタル屋では、CDを丸ごと貸すのではなく、歌詞を印刷した紙と一緒にディスクを貸し出すスタイルでした。その質の悪いモノクロ印刷のざらついた感じが、歌詞に絶妙にマッチしていたのを覚えています。

それにしても、尾崎豊の入り口が、特にメッセージ性のあるけでもない OH MY LITTLE GIRL だったというのは、後から考えると不思議なことです。

そのころの私は、音楽を聴き始めたばかりのころで、日曜日にラジオでやっているランキング番組を聴いていました。
その番組は、50位から1位までをすべて放送する(もちろん切り取り方の長短はありますが)というスタイルで、通しで聴いていると大量の音楽が入ってきます。そして、その大量の音楽のなかから、尾崎豊が特別なものとして響いてきたのです。特に上位にランクインしていたわけではないにもかかわらず……

それはなぜなのか?
そのあたりのことを考えると、尾崎豊が単に「ほざき」だけのアーティストなのか、それとも、もっと深い何かを持っているアーティストなのかということを考える一助になるかもしれません。

ここで、私が読んで「へえ」と思った一つの説を紹介しましょう。

それは、下河辺美知子さんという人の研究です。
下河辺さんによると、尾崎の歌は、歌詞とメロディの関係に特徴があるといいます。
日本語の単語にはそれぞれ固有のイントネーションがあるわけですが、尾崎の歌では、そのイントネーションと逆になるようなメロディがつけられていることが多いというんです。

その代表として、「15の夜」のサビに入る前のところが挙げられています。
「15」という単語は、ふつうは特に高低をつけずフラットに読むでしょう。しかし、「15の夜」の該当部分では、「じゅう」から「ご」にかけて、逆に上がるメロディになっています。しかもその上がり方が、1オクターブもあるのです。あたかも、言葉のイントネーションという秩序に対して真っ向から反逆するかのように……

計算してのものなのか自然にそうなるのかはわかりませんが、尾崎の歌にはこういう言葉のレベルでの「反抗」がひそんでいるというわけです。その反抗が若者の心をとらえるんじゃないか……下河辺さんは、そういった分析をしています。

そんなふうに考えると、尾崎豊も実は結構深いんじゃないか。
単に青臭いだけのミュージシャンでもないんじゃないか。
そうも思えてきます。

26歳という若さで夜を去った尾崎ですが、彼がもっと長生きしていたら、どんなことを歌っていただろうか……そんなことを思う4月25日でした。

『バーレスク』

2018-04-23 16:36:30 | 映画
突然ですが、今回からこのブログでは、映画についても書こうと思います。
私は別に映画に詳しくもないんですが、このブログはなるべく多くの人にアピールしていこうという趣旨なので、まあ、多角経営の一環といったところです。

はじめに紹介するのは、『バーレスク』という映画。


この映画、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』のなかでもちらっと言及されています。
一応、『ホテル・カリフォルニアの殺人』ゆかりの映画ということで。


もっとも、お読みになった方はご存知のことと思いますが、じつはこの映画、『ホテル・カリフォルニアの殺人』では、やや否定的に語られています。“アメリカンドリーム”の幻想に基づいた安易なサクセスストーリーを描いているということで……
たしかに私の中にそう評価する部分があるのも事実ではありますが、しかしそこを差し引いても、本当に面白いんです。

ストーリーは、ありきたりといえばありきたりな話。

主人公は、アイオワの田舎町でバイトしながら暮らす娘アリ(クリスティーナ・アギレラ)。
彼女はある日、意を決してLAにむけて旅立ちます。

「見回して気づいたの そこに私の人生はないって」
と、アリはいいます。

そして、LAで働きはじめたのが、「バーレスク」。

Burlesque というのは、妖艶で猥雑なショーのこと。

まさにその名の通りの、バーレスクです。

その主は、往年のスターであるテス(シェール)。

この、“落ちぶれた往年のスター”というキャラが、まずぐっときます。
バーレスクにはチャップリンみたいな感じのコメディアンもいたりして、『ライムライト』とか、そういう雰囲気を醸し出しています。

しかしこのバーレスク、実は経営難に陥っているのです。

借金を返済しなければ、いつなくなってもおかしくない自転車操業状態。やり手実業家が、買収を狙ってあたりをうろついています。


そこで、アリが活躍します。

彼女は、パワフルな歌声を披露し、一躍スターに。そして、バーレスクの業績も回復していきます。

しかし、それだけではまだ経営難を克服するには至りません。

いよいよ、借金返済の期限がせまってくる……そんななか、アリは、バーレスクを救う起死回生の策を見出します。

それはいったい何なのか……?

そこは、ネタバレになるので伏せておきましょう。
結果としてそれは成功し、バーレスクは破たんを免れます。この逆転劇で、サクセスストーリーは大団円に。

この一発逆転の爽快さと、サクセスストーリー、そしてアギレラの圧倒的な歌唱力が、この映画のポイントでしょう。

ですが、それだけではありません。

会話なんかがとてもいかしてるんです。

たとえば、借金の督促を受けたテスのもとに、店のナンバー2であるショーンがやってくる場面。
催告の書類を紙飛行機にして飛ばすテスにむかってショーンは、「たかが金だ。ただの数字」といいます。そこから、以下のようなやりとりに。

テス「嘘をいって」
ショーン「君は裁縫が上手だ」
テス「新しい嘘にして」
ショーン「君を愛してない」

こういうやりとりがいいですね。

この軽妙な会話にのせて、アリとテスの交流も描かれます。
まわりから浮いてしまう、どこか似た二人……この映画は、表通りからはじかれた者たちが自分の存在を証明するストーリーでもあるのです、

そこに、ラブロマンスもからんできます。
チープな展開ではありますが、そのチープさが、この作品にはマッチしているように思えます。これらの要素がバーレスクの猥雑さのなかに溶け込んで、この作品は名画となっているのです。

日米首脳会談からみえる日米のいびつな関係

2018-04-21 22:28:01 | 時事
日米首脳会談が行われました。

しかしアメリカの側は、TPPの問題や関税問題で、日本側の要求を拒み、成果は乏しかったようです。

なぜ日ごろこんなに尽くしているのに、冷たい仕打ちを受けるのか……?
そう疑問に思う人もいるかもしれません。

しかし私は、これは逆だと思います。

尽くしている“のに”ではなく、尽くしている“から”こそ、冷たい仕打ちを受けると思うんです。


従属的な態度は、駆け引きの余地をなくします。

ギブ&テイクという言い方をよくしますが、どちらか一方がギブするだけの関係だと、もう片方はギブをしなくなります。ギブする必要がないからです。このとき、両者の関係は対等ではなく、“主従”関係になってしまっています。

“主”の側にとっては、“従”の側はいい加減に扱ってもいい相手です。ですから、自分に都合が悪くなれば遠慮なく切り捨ててしまいます。丁寧な扱いをする必要がないからです。

日米関係は、こういう状態になってしまってるんじゃないでしょうか。

こんなふうに考えれば、日本がこれだけアメリカの言いなりになっている状態で、アメリカが冷たく突き放すような態度をとることが理解できると思うんです。

思えば、そもそもアメリカのTPP離脱もそうでした。
日米首脳会談の直後に、日本側のメンツを丸つぶれにするようなかたちで、アメリカはTPP脱退を表明してます。

アメリカにとって、日本はそういう存在なんです。

なにも与える必要はない。どうせ、どんな扱いをしたって、これまでどおりに従うだろうから……というわけです。
そういう状態であれば、いざというときに助けてもらえる保証もありません。

「たとえ従属的とみられて、もアメリカに媚びを売っておかないと有事のときに困る」という人がいるかもしれませんが、私はそれも逆だと思います。媚びを売り、従属的な態度をとればとるほど、ますます日本は「どんなひどい扱いをしてもいい国」になっていきます。それはつまり、いざというときに助ける必要もないということです。従属的な態度は、いざというときに助けてもらえる見込みも薄くしてしまうんです。


この状態を脱するためには、逆説的なようですが、一方的なギブの関係をやめることが必要でしょう。
場合によっては、こちらからギブしない、あるいは、相手にとってマイナスになることもする……それではじめて、むこうも「後々のことを考えると、あいつもなんかケアしとかないとな」と思うようになるはずです。それで、ギブ&テイク、貸し借りの関係になります。およそ“先進国”と呼ばれるような国の二国関係は、どこでもそれが普通だと思うんです。日米関係も、そういう対等な関係を目指していくべきでしょう。