私の父は話が上手だった。ひとと喧嘩するような話は聞いたことがない。小学校長として、の方たちを前に話す話はとても小学生の私が聞いても上手だと思う話ぶりだった。奉職して聞いた町長さんの話は何ともひどかった。それなら私でもしゃべれると思うほどだった。それが数年たったら結構聞けるようになった。上手になったのです。何でもそうですが、場数を踏めば、それなりに力が付いてくる。しかし、型通りの話を型どおりにできるようになるだけで、話の中にウイットを聞かせたり、笑いを取ることをしてみたりすることは、話し上手、弁舌にたけた人となる。それも考え抜いた原稿でなく、当意即妙に話せる人こそ弁舌にさわやかな人となるのでしよう。そんなことを思いながら自分を振り返る。何とも話し下手の情けなさがこみあげてくる。数えきれないくらい挨拶などはしていますが、上手にやれて良かったという思いでがない。其れよりも、話の途中で横道にそれてまとめるのにとんだ苦労をしたことの方が多い。
最近は、挨拶をしなければならないような場面もなくなり、その必要が無いだけにますます頭の中が空洞化して、とてもまとまった挨拶もできないだろうと思うようになっている。弁舌はおろか、駄べりすらおぼつかない自分にあきれている。
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