つづき・・・「残響」の作者、田中和夫先生は国鉄の車掌さんでした。勤務の傍ら国鉄北海道文学で文芸活動に関わっていて、たまたま「北海道史人名事典」で村橋久成の記述に出合ったのだそうです。そこが出発点で残響の中身の調査に入ったようです。尊王攘夷の旗頭のような薩摩が、薩英戦争に負け、その直後、英国に青年17名を留学させていたのです。もちろん国禁を破ってです。その中に村橋も入っていたのです。しかし、村橋は1年で帰国していました。
田中先生が残響を書き上げた頃、鹿児島大学の中村晋也先生(日本芸術員課員)が鹿児島駅前に「若き薩摩の群像」という彫刻を作り上げたのです。しかし、その中に居る村橋の活躍は知る由もなかったのです。
田中先生が「残響」を上梓し、鹿児島県知事に贈呈すべく出向かれた時、たまたま中村先生もお出でになりここで田中先生から村橋のことを聞かされ、田中先生が小説で村橋を送りだしたのなら私は胸像で村橋を世に出そうということになり、田中先生が手に入れた一枚の写真をもとに、村氏の胸像を作り上げ、中村先生の美術館に展示してあったのです。
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