戴益の詩で残ってきているのはこの詩だけです。「春だというので、小さな春を探して、一日中杖を突きながら幾つもの山を歩き回ったけれど、ついに見つけることが出来なかった。そして帰宅して庭の梅の枝を見ると、梅の芽は大きく膨らみ今にも咲きそうな状態ですでに春が兆していた。」といった意味の詩です。多分、「立春」の頃の詩なのでしょう。
日本の和歌などにも、「春立つ日」として読まれたものも多い。暦の上の春は、春には遠いのです。そんな趣と、一日中尋ね回ったが、見つけられなかった春が、なんとすぐ家の前に来ていた、というあたり、身近なところにある真実を見逃しがちなわれわれの生き方に対する比喩が秘められているのかもしれない。
例年、この時期の天気の良い日には、カメラを持って春を探しに出かけるのですが、今年はそんな気を起こさせるようないい日が無い。情けない春です。
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