消息知れずのシャツが、そ知らぬふうの川風に揺れている。
その少し厚手のグレーの長袖は、ハンガーにかけられたまま
川道に沿って立つ金網に吊り下げられ、
主が探し当ててくれるのを待っていた。
この数日、春の陽気を運ぶ風が強かった。
その風が、近くのマンション、あるいは住宅の
洗濯物をここまで飛ばしたのだろう。
それを誰かが見つけたものの、
住所や名前が書いてあるはずもなく、
せめて、運よく見つけられることを願いながら、
目につきやすいようにと金網に吊り下げてくれた。
そんな様子が容易に思い浮かぶ。
Puccini: Tosca / Act 3 - "E lucevan le stelle"
CDケースを漁っていたら、
三大テノールの一人、ホセ・カレーラスの名唱集が、
ポピュラーソングやフォークソングの中に紛れ込んでいた。
クラシック音楽に関しては無知に等しい僕が、
カレーラスのCDを買うはずがない。
なぜ、ここにあるのか——覚えがない。
首をかしげながらプレーヤーに乗せた。
ある曲、それは「星は光りぬ」(歌劇「トスカ」のアリア)
だったが、その旋律が流れ始めた途端、
まさに打たれるように思い出した。
11歳違いの次兄だ。この兄は、僕とはまるで違い
クラシック一辺倒。
僕がプレスリーを聞いていると、
「そんなもの聞くんじゃない。不良になるぞ」
そんなたしなめ方をする兄だった。
随分昔のこと、何の用事だったか思い出せないが、
兄の家に行った時、確かにこの曲が流れていた。
そして帰り際、「お前もたまには、こんなものも聞け」
と渡されたのが、このCDだったのだ。
今となれば形見のようなものである。
その兄は3年前の11月に亡くなった。
死を知ったのは、葬儀が終わった後だった。
義姉はあいにく認知症を患い、甥は神奈川県川崎市の在住、
もう一人の姪は主人の仕事の都合で5年とあけず、
あちこち転居を繰り返している。
加えれば、この兄は他家の養子となった身だった。
そんなこともあり、知らぬうちにこの家族とは
すっかり疎遠になってしまっていた。
甥や姪にすると父の死を知らせようにも、
父のただ1人残った弟である叔父の電話番号さえ知らず、
連絡する術がなかったのに違いなかった。
やっと電話がつながった甥は、血のつながりを感じさせぬ
淡々とした口調で、事の経緯を語った。
墓を訪れた僕は、頭を深くして許しを乞うしかなかった。