干支は、「十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)」と「十二支(子丑寅……)」を組み合わせることで成立します。そのトップは「甲(十干のトップ)」と「子(十二支のトップ)」を組み合わせた「甲子(きのえね、かっし)」となります。(その次は乙丑、その次は丙寅、と奇数番は奇数番と、偶数番は偶数番と組み合わされていきます)
「甲子」と言えば甲子園ですが、甲子園がなぜ甲子園かというと、阪神電気鉄道が開発していた住宅地・行楽地の中核施設としての大運動場が完成したのが1924年(=甲子の年)だったからです。
もっと古い話を出しましょう。「牧野の戦い」は、殷の紂王に対して周の武王が起こしたクーデターですが、それが戦われたのが「甲子の日」だそうです。こんなことを知っていても、何の役にも立ちませんが。
【ただいま読書中】『福島県の歴史』丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作 著、 1997年(2012年第2版2刷)、山川出版社、2400円(税別)
福島県は、奥羽山脈と阿武隈山地によって、東から浜通り・中通り・会津と大まかに三分されています。
3万年以上前の石器が発掘されたこともありますが、これはどうも「旧石器発掘捏造事件」の所産のようです。3万年前から1万年前まで、氷河期で海水面は100mも低下した時代に、福島に人が住んでいたことは確実です。
古墳のでき方からは、大和朝廷との関係が最初は会津が強く、古墳時代後期には浜通り地方・中通り地方の方が大和との関係を深めていたらしいことがわかります。かつての日本には「国造(くにのみやつこ)」という、世襲制の有力豪族がその地方を支配し中央には特産品の献上や人の提供を行なう制度が機能していました。福島県でも7世紀半ばに陸奥の国が建てられるまではこの国造制です。「陸奥」ははじめは「道奥」でした。そこから先は「蝦夷の世界」。大和から見たらいわば最前線ですから城柵が作られ中央から官人が派遣され他の地域からの移民政策も行なわれました。中央から赴任した国司の下に軍団も作られ、かつて政治と軍事を把握していた地方豪族の力はそれでさらに弱められました。
奈良時代から平安時代初期には、政府軍と蝦夷軍の衝突が続きました。蝦夷側の被害は甚大でしたが、政府側も疲弊し、延暦24年に桓武天皇は軍事と都造営の中止を決定しています。
平泉政権が成立して、南奥もその支配下にありましたが、鎌倉政権の成立によってこんどは鎌倉の支配下に置かれます。「関東武士」のための植民地のような扱いでした。建武の新政でその状況が大きく変わります。京都の足利軍を奥州軍が撃破して九州に追い落としますが、結局南朝側はじり貧となり、北奥羽の一部を除いて幕府の支配下にはいりますが、ここで事情を複雑にしたのが、京都の幕府と鎌倉公方の対立です。鎌倉が京都に取って代わろうという野心をむき出しにしたら、奥州には動乱が起きました。さらに奥州には鎌倉への反抗の気運もあります。ややこしいことこの上ありません。
戦国時代から江戸時代、支配者の変遷はめまぐるしいものがありますが、登場する大名の名前は“ビッグネーム”が揃っています。天保の飢饉(と自然災害)によって、会津・中通り・白河藩の村々は大打撃を受けました。相馬中村藩では二宮尊徳の「仕法」が採用されましたが、明治までかけて大成功を収めています。幕末の会津藩は大忙しです。文化元年ロシアの使節が長崎に来航して通商を求めましたが幕府は拒否、その報復にロシア船は帰路樺太・択捉の番屋や漁船を襲い、それに対し幕府は文化四年に蝦夷地警備を奥羽諸藩に命じ、五年には会津にも樺太への出兵を命じています。文化七年(1810)には江戸湾西側の警備。これは10年間続きました(白河藩も同じく文化七年江戸湾の房総側の警備を命じられています)。弘化四年(1847)また江戸湾警備。場所を変えながら安政六年(1869)まで任務は続きます。その褒美は蝦夷地の領地でした(根室から釧路・十勝の海岸線)。さらには京都守護職です。松平容保は一時守護職を免じられて陸軍総裁職に就きますが、結局また守護職に戻されています。そして戊辰戦争へ。会津を目の敵にする政府軍に対して、東北諸藩ははじめは恭順の意を示して会津救命を目指しましたが、政府軍は無条件降伏を譲らず、とうとう奥羽越列藩同名vs新政府軍という構図ができてしまいます。ここで明治政府側がちょっとでも温情を見せていたら、流れる血はもっともっと少なくなっていたはずです。まず浜通り、ついで中通りが政府軍に制圧され、そして会津での一箇月の籠城戦が開始されます。
県外から見ていると、なんだか「口惜しい歴史」に見えます。地方独自の文化を育もうとしていると、常に“中央”がちょっかいを出してきて、自分たちに都合が良いように矯正(強制)をしようとすることの繰り返しのように見えるものですから。
原発もまた、その「歴史」の一環と言うことが可能でしょう。