【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

退位

2013-03-04 06:44:46 | Weblog

 ローマ法王ベネディクト16世の退位がニュースになっています。そこで触れられているのが「「自己の意思による退位」は1415年のグレゴリウス12世以来、約600年ぶり」という昔の話。ということは「自己の意思」によらない退位は、過去にけっこうざらにあった、ということなんですね。ところで、このグレゴリウス12世の時代には教皇が3人いました。「教会大分裂」の時代で、対立教皇としてヨハネス23世(20世紀のローマ教皇ヨハネス23世とは当然別人です)と、アヴィニョンにはやはり対立教皇のベネディクトゥス13世がいました。日本の南北朝をもう少し複雑にしたみたいなものですかね。下々にはよくわかりませんが、“上の人”にはそれなりの苦労があるようです。

【ただいま読書中】『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』スティーヴン・グリーンブラット 著、 河野純治 訳、 柏書房、2012年、2200円(税別)

 さて、対立教皇ヨハネス23世が退位して失職した教皇秘書ポッジョは、1417年1月にドイツにいました。目的は「本探し」です。
 この冒頭数頁で、魅力的な「謎」がいくつも提示されます。「当時の教会のありかた」「ドイツの状況」「ヨーロッパの状況」「本というものの社会的な地位」「ポッジョが見つけた本は一体何か」「ポッジョとはそもそも何者か」……
 ポッジョはどこの修道院を訪問したのかは明かしていません。著者は貴重な写本コレクションで有名だったフルダ巡礼教会ではないかと推定しています。ともかく“そこ”でポッジョはローマ時代初期から筆写を繰り返されてきた貴重な写本の数々に出会います。その中で最古の作品が紀元前50年頃に書かれた『デ・レルム・ナトゥラ(物の本質について)』(ティトゥス・ルクレティウス・カルス)でした。
 古代ローマ時代、ルクレティウスの詩は非常に良く読まれていました。キケロは(ルクレティウスの哲学原理には反対していますが)哲学と科学の「すばらしい才能」とただならぬ詩的力をあわせもつものと評価しています。しかし彼の生涯はほとんど知られず、彼の詩はほとんど消滅寸前でした。ただ、『物の本質について』が、ルクレティウスに数世紀先立つエピクロスの思想を世に広めようとする作品であることは明かです。
 ここで話はエピクロスに移ります。
 エピクロスの思想は、単純化したら「原子論」です。そして、その原子の基本的構成要素とその運動を支配する普遍的法則を理解すること(朱子学の理気二元論を思い出しますね)、それこそが「人生の最も深い喜びの一つ」なのです。 ですからエピクロスは、神の怒りなどの「迷信」を信じません。エピクロスの反対者は、「喜び」という単語に狙いを絞ってエピクロスを貶めるために「享楽主義(肉体的な快楽を求める)」と名づけ、その狙いはけっこう成功しているようです。実際にはエピクロスはきわめて質素な生活ぶりだったようですが。
 エピクロスを一番熱心に攻撃したのは、キリスト教徒でした。「魂の不滅」「肉体の復活」という基本教義に対する最強の批判者でしたから。多神教は、その曖昧さを「一神教の明確さ」で突破することが簡単ですが、「宗教そのものを否定する」エピクロスは相手として厄介だったのです。そして攻撃の最も有効な手段は「黙らせること」でした。数百年かけての努力の結果、エピクロスを「黙らせること」にキリスト教会はほとんど成功しました。エピクロスもルクレティウスも忘れられ、「その一冊」が(権力に近く、信仰心の点で問題を抱える)ポッジョの目の前に現われたのは、単なる偶然でした。そしてこの時代、キリスト教は「攻撃する側」ではなくてむしろ「攻撃される側」になっていたのです。
 ルクレティウスは言います。「万物は原子からなる」「原子は不滅である」「原子は無限の真空の中に存在している」「万物は『逸脱』の結果として生まれる」「自由意志は『逸脱』から生まれる」「自然は絶えず実験を繰り返している」「人間は唯一無二の特別な存在ではない」「霊魂は滅びる」「死後の世界は存在しない」「組織化された宗教はすべて迷信的な妄想である」「宗教はつねに残酷である」「人生の最高の目標は、喜びを高め、苦しみを減じることである」「物の本質を理解することは、深い驚きを生みだす」……ルクレティウスがキリスト教会に憎まれるわけです。危険思想ですな。
 ポッジョは『物の本質について』の写本を作らせ、さらにそれをどんどん増やします(この本の15世紀の写本は50冊以上が現存しています)。グーテンベルクの技術が確立すると印刷本も製作されました。こうして「原子論」は復活します。ただし当面は嘲笑の対象として、でしたが。
 ここで気をつけなければならないのは、原子論が科学だけではなくて哲学・宗教の範疇の話であることです。地動説が科学だけではなくて宗教の話でもあったのと似ています。そして、「今自分たちが生きているキリスト教世界とは違う価値観に基づく「世界」が存在している」ことを知った人々は、たとえば「ユートピア」を描くことで「異なる価値観」を公表するようになります。西洋世界は変わろうとしていたのです。
 蛇足です。19~20世紀でも、(科学としての)原子論はたとえばマッハによって厳しい批判にさらされています。ただ、ルクレティウスの「無限の宇宙空間で原子が不規則に動きまわっているだけ」という寒々とした世界認識は、後のニュートンの「宇宙の中を質点としての惑星が動いている」という寒々とした宇宙観に通じるものがあるように私は感じます。「寒々としている」のはそれが「非人間的な見方」だからですが、世界って人間のためのものでしたっけ?