世間ではあまり広く知られていませんが「児童虐待の防止等に関する法律」には、「児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、これを市町村、都道府県の設置する福祉事務所もしくは児童相談所または児童委員を介して通告しなければならない」と定められています。つまり「疑い」程度でも「発見者」には「通告の義務」が課せられているわけ。もちろん「違反者への罰則」などはありませんが、「事件」のあとテレビなどで「そういえば、以前からそんな雰囲気を感じていた」などとしゃべる人は「私は通告義務違反をしました」と白状していることになります。
なお、職業上の守秘義務を負っている人も、この「通告義務」の方が優先すると法律では定められています(第6条に「刑法(明治四十年法律第四十五号)の秘密漏示罪の規定その他の守秘義務に関する法律の規定は、第一項の規定による通告をする義務の遵守を妨げるものと解釈してはならない」と明記されています)。ご参考までに。
……ところで、たとえば「裏の家でよく悲鳴が聞えるんだけど、児童はいない家なんだよな。だったらおれには通告義務はない」と言うのは、(法律的に、あるいは倫理的に)“正しい”態度?
【ただいま読書中】『父の殺意 ──金属バット事件を追って』前田剛夫 著、 毎日新聞社、1998年、1400円(税別)
まず事件の概要が述べられます。死人に口なしですから、本書に出てくる証言は基本的に生き残った側のものに偏しています。ただ、それを割り引いて読むとしても、長男の家庭内暴力はなかなかのものです。朝の起床を親に依頼して、一度起こされても二度寝をした場合それは親の責任だから、と暴力。服を買ってくるようにだけ言って、親が買ってきたのを見てからそれが好みかどうかを決定して好みでない場合には暴力。とうとう母親は暴力から逃げて別居となり、父親だけがその暴力を受けるようになっていました。そしてある日、父は“一線”を越えてしまいます。すべての感情が鈍磨したような状態で、熟睡している長男の頭を金属バットで繰り返し殴り、首を紐で絞めました。
まず父の生育歴や職歴、そして長男の生育歴について簡単に述べられます。父子ともに、新しいことや困難にぶつかったときにひるんだり不安にかられるということはあります(特に長男は、とても神経質な面があります)が、家族4人の仲は良く過ごしていたようです。長男に対して学校では「我慢強さに欠けてわがまま」というネガティブな評価もありますが同時に「明るくひょうきんなムードメーカー」というポジティブな評価もありました。俗に言う「問題児」ではなかったようですしいじめの問題もなかったようです。
暴力は突然でした。中学生になって、まずターゲットになったのは母。次に父。そして姉にも。親はあせり、本を読み、あちこちに相談をし、「受容」を知り、殴られ続けることを選択します。しかし、母への暴力は常態化、土下座させて頭を思い切り踏みつけて歯を折る(ちなみに、足のサイズは29.5cmだそうです)、など程度もひどくなり、とうとう母は家を逃げ出します。すると暴力は父に向かいました。父は暴力には無抵抗のままですが、自責がひどくなり(「自分の育て方が悪かった」「息子の苦しみを理解できていない」)自殺願望が生じます。精神科で抗うつ剤をもらうと少し楽になりますが、量が過ぎると物忘れがひどくなりそれがまた息子の暴力を誘発します。
後知恵ですが、家族の「暴力を無抵抗に受容する態度」が「暴力のエスカレーション」を誘発しているようです。「暴力を振るう子(の苦しさ)」を受容するための「暴力の受容」でしたが、「暴力の受容」と「人(の苦しさ)の受容」とは区別した方がよかった、は裁判時の父の述懐です。ただ、日常的に暴力を振るわれ続けると、人は絶望を強制されることで視野狭窄に陥り行動は一つのパターンに固着してしまいます。そして「暴力の受容」は結局「殺人という暴力」としての発露になってしまったのでした。
暴力に対する反応としてたとえば「逃避」もあります。しかし、ここで難しいのが、暴力を振るわれる側が「親」であることです。親には「未成年の子に対する扶養義務」があります。それを放棄することはふつう許されません。さらに「親の責任から逃げることは恥ずかしいことだ」という感情論もあります。なかなか“逃げ場”がないのです。
さらに「対応」が「個人レベル」だと、そこには限界があります(せいぜい話を聞いてあげて、口先だけのアドバイスをする程度)。誰かに相談するにしてもその相談された誰かがやはり「個人レベル」でしか対応できないのだと、結局限界のレベルは同じです。ですからこういった問題で持ち込むべきは「社会システム」でしょう。「誰が誰に振るっているにしても、家庭内の暴力には、ここに相談したら複数の専門家が相談に乗ってくれるし、法令に基づいた実効的な対応をしてくれる」という施設があるのがベストかな。ついでにそこに“駆込み寺”も付属していることが望ましい。
裁判の記録もありますが、読んでいて心が冷えます。検察も弁護士も「いかに“勝利”(懲役の満額回答/その減免)を得るか」の視点でだけ主張を繰り広げ、裁判官もただありきたりの決まり文句(たとえば「14歳だから改善の可能性がある」「当時もっとも信頼を寄せていたであろう被告人」)を述べるだけです。(「14歳だから改善の可能性がある」のだったら、改善するまで父は殴られ続けるべきだ、と検察と裁判官は主張していることになります。「もっとも信頼を寄せていた」が本当だったらその信頼を日常的に殴ることで確認していた、ということなんですね。それが裁判所の“常識”?) 裁判って、一体なにを裁いているんでしょうねえ。何を社会にもたらしているのでしょう。私としては、「事実の裏側を明らかにする」ことと同時に「悲劇の再発防止」への“社会的貢献”をしてもらいたいと思うのですが、結局裁判の関係者たちは「社会」ではなくて「個人」の視点でしか動いていない、ということなのでしょうか。