「日本の海底ケーブル」と言って私がすぐ思い出すのは、日露戦争です。あまり広く知られていないことですが、当時日本は海底ケーブルを日本海に施設し、旗艦三笠は東京の大本営と“直接"やりとりをすることが可能でした。マルコーニからまだ10年、無線はまだ不確実な技術でしたから、海底ケーブルによる円滑な情報伝達は戦争を行うためには大変重要だったはずです。
【ただいま読書中】『情報覇権と帝国日本(1)海底ケーブルと通信社の誕生』有山輝雄 著、 吉川弘文館、2013年、4700円(税別)
「黒船」でやってきたペリー提督は、“手土産"として、小型の蒸気機関車と電信機を持ってきていました。「文明」は日本人に衝撃を与え、開国となりますが、それは人や物流の問題だけではなくて、情報に関しても日本が国際的に開かれることを意味していました。19世紀後半は、電信の普及で情報流通に関して世界が激変している時代でした。日本はそこに放り込まれたのです。
世界中に張り巡らされた情報インフラは「帝国のツール」でした。優位な側は、他国の領土に海底電線を陸揚げすることも容易です。情報の優位は軍事力・経済力・政治力に結びつき、国の間の格差はさらに拡大します。世界を“リード"したのはイギリスでした。19世紀半ばにはドーヴァー海峡に海底電線を敷設、すぐに大西洋に手をつけます。苦闘の末それに成功すると、こんどはインドへ。非常に明確な“プラン(戦略)"を私は感じます。すべては「大英帝国維持」のためだな、と。イギリスからインドへは6つの独立した回線を中継していましたが、東方電信会社の開通祝賀のメッセージがロンドンから送られて、ポンペイから受信確認の返電があったのは発信後4分22秒後だったそうです。それまでの船によるニュース運搬とはとんでもない速度差です。ケーブルはさらにシンガポール、上海へと伸びます。
ロシアとアメリカは、シベリア鉄道沿いにユーラシア大陸を横断する電信線の建設を実行しました。将来的にはアメリカ西海岸まで結ぶ計画です。大西洋海底ケーブルの成功でアメリカは「シベリア経由」から手を引きますが、デンマークの「大北電信」がその後を引き継ぎます。
開国時、日本は北方と南方の「ケーブル」の狭間に位置していたのです。
19世紀には「通信社」も始まっていました。1835年シャルル・アヴァスがパリで新聞社を対象にニュース・サービス(ニュースの販売)を始めます。アヴァスは、フランス政府と密接な関係を持つと同時に広告代理業も営みました。経済・文化と政治の結合です。アヴァスで働いていて独立したのが、ドイツのヴォルフとイギリスのロイター。三社は世界を3分割してそれぞれを独占することにし、それぞれの帝国の発展に尽くすことになります。1870年にはそこにアメリカのAPも加わり合衆国は“APのもの"となります。ちなみに、東アジアは「ロイターの独占地域」でした。ただし開国当時、日本において「海外ニュース」はまだ「船で来るもの」だったのですが。
1870年(明治三年)大北通信社が日本政府にシベリア経由の海底電線陸揚げ許可を求めます。海外と結びつくことは必要です。しかし情報インフラのすべてを海外資本に握られているのは日本にとっては不利です。ではどう交渉すれば少しでも日本に有利となるでしょうか。日本は精一杯の交渉をしますが、大北から見たら日本は「世界戦略の一部の東アジアのさらにその一部」でしかありませんでした。ほぼ同時にアメリカからは太平洋海底電線の陸揚げ許可を求める願い出が。アメリカの“ターゲット"は(他の列強と同じく)清国で日本はそのための中継地でした。
大北は日本国内の電線敷設も申し出ますが、情報インフラを外国に掌握されると、商業・外交・軍事・政治面でデメリットばかりです。だから日本は国内線は自力で建設することにします。しかし工事は難航しました。大北の長崎揚陸は明治四年、東京・長崎線の開通は明治六年でした。
ケーブルを追うように、ロイターがやって来ます。当然のように、日本にやって来る海外ニュースはほとんどが「ロンドン発」となりました。つまり当時の日本は「イギリス製のニュース」によって世界を認識していたのです。
では発信は? 1894年(明治二十七年)日本政府はロイターと年間六百ポンドで、ロイターが公表前のニュースでも重大なものは優先して日本政府に伝えるとともに、日本政府の公式発表をいわば“代理人"として海外に発表すること、を契約します。
20世紀になりアメリカが太平洋海底電線を敷設します。日本はグアム島からの分岐線を望みますが、戦雲が。ロシアは1904年2月、長崎・ウラジオストック間の海底電線停止処置を執ります。開戦直前に日本軍は、朝鮮~満州と北京~チチハルの電信線を破壊します。また旅順のロシア官設海底線を切断して情報的に旅順を孤立させます。同時に、佐世保・遼東半島間に軍事用海底電線を敷設。一般ニュースはイギリスの南回りルートで日本に届き、戦後は太平洋線も使えるようになりました。日本の通信社も育ちます。ロイターと同じく、通信と広告によって経営は安定しました。ロイター頼みだった大新聞は、独自のルートを開発したり自前の通信員や特派員による記事を増やします。
第一次世界大戦で、西欧の通信社は一時的に東アジアから撤退気味となり、日本は中国に地歩を築こうとしますが……
というところで本書は終わります。
19世紀から「帝国」と「情報(通信)」と「広告」とは密接な関係があったわけです。さて、現在のネットも情報と広告が密接な関係を持っていますが、ではこれは何かの「帝国」なのでしょうか?