【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

専用性と汎用性

2013-12-04 06:32:52 | Weblog

 日本人は食器を多く使い分ける、と言います。対して欧米では同じ皿で肉でも魚でも供する、と。私自身、たとえばうどんや蕎麦をラーメン丼で食べるのには抵抗があります。つまり日本人は食器に専用性を求めるが欧米人は汎用性と言えそうです。では欧米は食器に汎用性だけを求めているのか、と言えば、ナイフやフォークはこれでもかと言うくらいの「専用性」を求めていますね。以前何十種類ものナイフとフォークのセットがずらりと並べられた写真を見て驚いたことがありますが、それに対抗しようと思ったら、たとえば箸を「ご飯専用」「肉専用」「魚専用」「漬け物専用」とかにする必要があります?

【ただいま読書中】『英国ティーカップの歴史 ──紅茶でよみとくイギリス史』Cha Tea 紅茶教室 著、 河出書房新社、2012年、1800円(税別)

 ヨーロッパで「お茶」は、最初は緑茶でした。日本や中国からお茶や茶器を輸入したヨーロッパの宮廷人は、「喫茶」に夢中になります。やがてティーボウル(湯飲みとそっくり)と共柄のソーサーが使われるようになります。まだポットはなく、ボウルから茶液をソーサーに移して飲む習慣が生まれました。ボウルが熱くて持ちにくかったことや、ボウルがポット代わりにお茶を淹れる用具として使われていた(茶葉はボウルに残した)のではないか、と本書では述べられています。この時ボウルに砂糖が残ってスプーンが立つくらいだと「スプーンが立つほど濃い茶を淹れてもらえた」とゲストは感動したそうです。17世紀末に中国で烏龍茶が誕生すると、ヨーロッパでも大人気となります(ボヒー茶と呼ばれました)。茶の輸入量は増え、庶民にも茶の習慣が広がります。1706年にはトワイニング社が誕生。翌年フォートナム&メイソン。
 1740年代には、ハンドル付きのディーカップが作られるようになります。磁器製造法も明らかになりますが、原材料のカオリンが英国で採掘できないため国産磁器は苦戦していました。彼らが手本としたのは有田焼です。やがてボーンチャイナが誕生。商業的に成功したのはウェッジウッド窯(1759年創業)でした。「プリンス・リージェント(のちのジョージ四世)」は伊万里焼(の金襴手)を愛したため、多くの窯は「イマリパターン」を製作しました。18世紀末の「ウィローパターン(中国の風景を描いた作品)」も人気となります。
 1837年ヴィクトリア女王が18歳で即位したとき、最初の命令は「お茶をいただきたいので、持ってきてください。そしてゆっくりとお茶をいただく時間も」だったそうです。結婚をしたときには、ミントン窯で二人用のティーセットを特別に注文しています。この時のデザインは「エキゾティックバード」と呼ばれ現在も継承されているそうです。ちょうどその頃、インドでの茶栽培が成功。「紅茶」の登場まで、あと一歩です。
 1840年代には「アフタヌーンティー」の習慣が生まれます。産業革命によって家庭用の照明が普及し夕食時間は少しずつ後ろにずれ込んでいきました。当然午後も遅くなるとお腹が空きます。そこでちょっと一口、というわけですが、“発祥の地"はベッドフォード公爵のカントリーハウス「ウーバンデビー」だそうです。1859年にはヴィクトリア女王夫妻もこの地に宿泊し(女王が臣下の家に泊まったのはこれが初だそうです)、アフタヌーンティーのもてなしも受けています。ただし茶菓子はまだシンプルなものばかりだったので、器が絢爛豪華なものになっていたそうです。
 紅茶は中産階級から労働者階級にも広がっていきます。そこで問題なったのが「口ひげ」です。通常のカップだと自慢の口ひげが紅茶で汚れてしまう。そこで「口ひげ受けのついたカップ(ムスタッシュカップ)」が作られました。唇だけがうまく液面に触れるように工夫されているカップの写真を見ると笑ってしまいます。ただ、それまでの、エールとかコーヒーではそんな要望は出なかったんですかねえ。
 ヴィクトリア朝後期にはすべての階級に紅茶が普及します。当然子供も例外ではありません。子供に対するティー教育、子供用ティーセット、家族そろって(あるいは学校行事として)のピクニックティー……「文化」ですねえ。紅茶占いも定着します。紅茶占い専用カップ、なんてものまであるそうです。
 豊富に収載された写真を見るだけで、飽きない本です。お気に入りのティーカップを取り出して、ゆったりとティータイムを過ごしたくなります。