私はふだんパソコンに小型スピーカーを接続してそれで音楽を聴いています。ある日ふと思いついて、外部スピーカーを外してパソコン本体のスピーカーで懐かしいポップミュージックを流してみました。低音は響かず高音は伸びず、大した音にはならないことは承知の上です。
若い頃にAMラジオで聞いた曲のように聞こえました。いやあ、懐かしい響きです。
【ただいま読書中】『月 ──人との豊かなかかわりの歴史』ベアント・ブルンナー 著、 山川純子 訳、 白水社、2012年、2500円(税別)
カレンダーには「月」があります。一年は12箇“月"だし、毎週“月"曜日があります。人類にとって「月」は、空にある現物はもちろん、それが抽象化されたものも、文化の中で重要な役割を果たし続けていました。ですから世界各地に魅力的な「月の伝説」が残されています。
最初に望遠鏡で月面を観察した記録を残しているのは、1609年7月26日イギリスのトーマス・ハリオットです。同年11月30日にガリレオ・ガリレイも望遠鏡で月面を観測し、翌年『星界の報告』を出版しました。望遠鏡の進歩で月面図もどんどん進化し、19世紀ドイツのヨハン・フリードリヒ・ユリウス・シュミットは32856個ものクレーターが存在する手描きの月面図を残しています。写真が普及したとき、こういった“手描き職人"たちは何を思ったことでしょう?
「月の輝き」に関して面白いことも紹介されています。アデマール・ゲルプは、暗い部屋の中では黒い紙の円盤でもその部屋の中で一番明るければ「白く見える」ことを示しました。「ゲルプ効果」です。つまり、夜空の月は「白く」見えますが、そう見えるだけなのです。「地球照」の話もあります。三日月~新月の時期、太陽が照らす「三日月の部分」以外も地球から見ることができます。それは、太陽光線が地球に当たって反射したものが月面を照らしているからです(この場合日光は、太陽→地球→月→地球、と旅をしています。三日月の明るい部分は、太陽→月→地球)。
「月の生物」に関する記述は、古代ギリシアのフィロラオスまで遡ります。以後もフィクションは途切れなく登場していますが、特筆したいのは、1835年8月ニューヨーク・サン紙の「ジョン・ハーシェル卿が高性能の望遠鏡で月面に様々な生物が生息していることを発見した」というビッグ・ニュースです。この記事はハーシェルではなくてサン紙の記者が想像で書いたものですが、新聞の売り上げは急増、記事は世界中に転載されました。これは「サイエンス・フィクションの豊かな可能性」を示すものでした。そして、ジュール・ヴェルヌが登場します。彼の月世界への旅行は、当時の科学技術の水準を考えると、驚くほど真実に近いものでした。
「月の起源」についてはかつて多くの仮説が唱えられました。現在は「4億5000万年前にガイア(今より小さめの地球)に火星サイズの天体が衝突し、その衝撃で月が生まれた」巨大衝突説が受け入れられています。
満月の夜に産卵する珊瑚のように、月のサイクルに行動をあわせる生物は様々います。では、人間は?
18世紀末、ベルリンにヴァイスレーダーという「月医者」がいました。秘密の呪文を唱えながら窓から患部を月に向かって突き出す、が治療法です。(100年後にロンドンで降霊術が盛んに行われたことを思うと、あまり手放しで笑うわけにはいかないでしょうね) 「月の周期」と「病状」に密接な関係を認める医者もたくさんいました。コレラの死者は、満月・新月・月が地球に近づいたときに発生する、と唱える医者もいました(そういえば昔の日本でも、人は満潮の時に生まれ引き潮の時に死ぬ、と言っていましたね)。
第二次世界大戦後、月は戦略的にも重要になりました。核ミサイル基地を置けば、世界のどこでも簡単に攻撃可能だ、と(『月は無慈悲な夜の女王』にもそれに類した記述がありましたっけ)。デモンストレーションのために、月面に核爆弾を打ち込んで「巨大なキノコ雲」を作ろう、という計画もあったそうです。月面で「キノコ雲」はできないと思うんですけどね(たとえ巨大な火球ができても、対流で上昇しませんから)。
そして、アポロ。ここでは、ケネディ大統領がソ連のフルシチョフ首相に、米ソ共同探検を提案したがソ連に拒絶された、とか、アメリカの世論調査ではアポロ計画に賛成する人は多数派ではなかった、とか、興味深いことが書かれています。ただあの計画は「壮大なムダ」ではなかったと私は考えます。なにより、月面からカメラが地球に向けられたとき、私たちは「自分は地球人だ」という意識を持ちませんでしたか? 私は持ちました。ジェミニの地球周回軌道からは地球は「大きな星」に見えますが、月からは「小さな寂しい星」に見えて、だからこそ愛着を持ってしまったのです。「アポロの月着陸はなかった」陰謀説も本書に登場しますが、著者はどちらかと言えば同情的な扱いをしています。いくら証拠を並べられても頑なに拒絶するには、彼らにはそれ相応の理由があるのではないか、と。
別に中秋でなくても、月見はできます。もし空が晴れていたら、今夜の月を愛でるのも一興では?