私は20世紀に「全市停電」という異常事態を経験したことがあります。その時交通信号も全部消えていたのですが、その直後にはどのドライバーも速度を落とし、交差点を注意深く通過していたのが印象的でした(もちろん私もそうやって通過したり横断したりしました)。「危ない状況」だからこそ「安全運転」が徹底していたのです。信号は復旧せずやがて警察官がやって来て手信号で車の流れを制御しようとすると、車の速度は上がり、無理して通過しようとする人(車)も登場して、かえって危ない状況になりました。もしかしたら「これは危険な状況だ」としっかり全員がわかっていたら、かえってその道は安全になるのかもしれません。なんだか逆説的ですが。
【ただいま読書中】『となりの車線はなぜスイスイ進むのか? ──交通の科学』トム・ヴァンダービルト 著、 酒井泰介 訳、 早川書房、2008年、1800円(税別)
最初に登場するのはディズニー映画「グーフィーの自動車大好き」。はいはい、私は日本の白黒テレビで、ハンドルを握ると性格と行動が激変するグーフィーの姿を大笑いしながら見ました。当時我が家にはまだ「マイカー」はなくて、家族旅行などで必要になると親父は親戚から借りてきていましたが、幸いなことに穏やかな運転だったので「グーフィー」を車内で見つけることはありませんでしたっけ。
運転車は車と一体化ししかも匿名性を得るためか、自我が肥大や解放される傾向があります。さらに車同士のコミュニケーションは限定的となります。「お気に入りのステッカーを貼っている車に共感を示そうとクラクションを鳴らしたら、挑発されたと思ったのか中指を立てて返された」とか「クラクションを鳴らされたので挑発されたと思ったら、トランクが開いているのを教えてくれていた」とかの例が挙げられています。
各国の調査では、後続車にクラクションを鳴らされやすい車の条件は「後ろの車より安い(車格の低い)車」「女性ドライバー」「外国人や初心者のドライバー」でした。どの国でもその傾向は同じ、というのは、なにやら考えたくなります。
本書は「自動運転自動車」が開発され始めた時期に書かれましたが、面白い指摘があります。無人の自動運転車には運転者がいません。それが停止していたとして、歩行者は安心してその前を横断できるだろうか、というのです。運転者とアイコンタクトをし、運転者が手で「どうぞ」と合図をしたら安心ですが、運転席は空っぽ。つまり「コミュニケーション」が不可能なのです。さて、あなたならどうします?
人間は自己評価が下手ですが、運転に関してもほとんどの人が「自分は平均以上」と数学的にはあり得ない自己評価をしているそうです。しかし、車内カメラなどで「客観的な自己評価」をした調査では、(本人を含む)見た人が茫然とする結果だったそうです。ちなみに「ながら運転」では、「運転」も「ながら」もどちらもおろそかになっているそうです。「自動車運転」は、実はけっこう集中力を必要とする作業なのです。「ハインリッヒの法則」や「ヒヤリハット」が本書にもありますが、「事故の本質」は「事故そのもの」よりも「ヒヤリハット」の方にたっぷり含まれているのです。
「自動車通勤ラッシュ」についての考察で「軍隊アリ」が登場します。彼等は即席で「上りと下りのあるハイウェイ」を設定しますが、そこでは「渋滞」がほとんど発生しません。食糧を背負ってのろのろと巣に戻る列をはさむように元気いっぱいの空荷のアリは二列に分かれて食糧のところに向かいます。この「三車線」形成は、単にフェロモンによるガイドだけでは説明がつきません。ロサンゼルスでは、コンピューターや熟練の交通技術者が、信号を調整することでリアルタイムに渋滞に介入していますが、それでも渋滞を完全に解消するのは無理です。すると人間は、集合知としては軍隊アリに劣る、ということに? もちろん人間がアリに優っている点もあります。たとえば「全体を見渡すことができる」とか。
進化が人間に許した速度を自動車ははるかに超えているようです。だから事故が起きる。だったら、速度を落とすか、人類の進化を待つか、あるいはテクノロジーなどの補助を発達させるか、のどれかが“解決策"になるのでしょう。