ちょっと調べたら日本中で様々な文学賞が競われていますが、あれって「作品」の出来不出来を競っているんです? それとも「作家」?
もしも「作品」の出来を評価しているのだったら、「著者名」は伏せて純粋に「作品」だけで勝負をすれば良いのに、なんてことを私は思います。俳句の句会では俳号は伏せられて審査がおこなわれるはずですが、それと同じことが小説でできないのは、なぜでしょう?
【ただいま読書中】『世界一わかりやすい俳句の授業』夏井いつき 著、 PHP研究所、2018年、1400円(税別)
「俳句のタネを播く」ことを自らの使命としている著者の俳句入門書です。いやあ、非常に取っつきやすい。
まずは「三種の神器」を揃えましょう、から始まります。「歳時記かな?」と半可通の私は思いますが、「紙」「筆記具」「俳号」とお金がかからないものばかり。なるほど、私もすぐに自分の俳号を思いつきました。
次は「俳句とはどのようなものか」の説明。「(17文字ではなくて)17音でできている」「季語が必要」というこれまた当たり前に思えることの再確認。
そして、素人にはとてもわかりやすい「12音の文章」+「5音の季語」の「王道パターンの“型"」が紹介されます。この時重要なのは「季語はあとから選択する」ですが、それは一物仕立て(季語の説明に終始する句)になることを防ぐためだそうです。そのへんの詳しいことは本書を読んだら実にわかりやすく書いてあります。
俳句って、頭の中からひねり出す文系のもの、というイメージがありましたが、著者は「観察の重要性」を強調します。「季語」を「観察」することで自分の中に「季語」を取り込み、それからそれをアウトプットする、するとそれは「自分の言葉」になります。ついでにアウトドアでの観察を繰り返すことで、体力が養われたり認知症予防ができるかもしれません(できないかもしれませんが)。あるいは理系のやり方で、方程式を解くように句を組み立てる方法もあるそうです。
私自身は「観察」は好きなので、これまでの生活を特に大きく変えることなく俳句に取り組むことが可能そうです。ふうむ、一句ひねってみようかな。とても良いのができたら、伊藤園のコンテストにでも出してみようかしら。〆切りは今月末なので、まだ間に合います。