大昔の検疫では、船が港に着いたらそこでまず隔離して人の交流をしないようにして、一定期間発病者がいなければ上陸を許す、となっていたことがヨーロッパではありました。最近の新型コロナウイルス肺炎での“検疫"で、クルーズ船が妙な形で注目されることになってしまいました。あれは隔離施設ではなくて客船ですから、もしもどうしても船で「隔離」をしたいのだったら、その大昔のやり方を真似するしかなかったのではないか、と私は思っています。実際には船内感染が猖獗して、まるで「培地」のようになってしまったわけですが。
【ただいま読書中】『客船の世界史 ──世界をつないだ外航客船クロニクル』野間恒 著、 潮書房光人新社、2018年、3000円(税別)
「海の道」は大英帝国によって整備されましたが、その主力は帆船でした。1788年スコットランドでウィリアム・シミントンが蒸気機関の試験船を製作、その実験をアメリカから来たロバート・フルトンが見学・乗船、1803年パリでフルトンは蒸気船を製作、アメリカに帰国後スポンサーにリヴィングストンを得て「スティームボート」を製作、ベッド付き客船に改装して営業運航を始めました。ハドソン川上流は物流は盛んでしたが、内陸の河川は風が弱く帆船には向かない土地でした。そこで蒸気船は強みを発揮、船団を形成し、やがてミシシッピ河へも進出することになります。
1819年にはアメリカの「サヴァンナ」が大西洋を蒸気船として初めて横断(ただ、石炭の搭載量に限界があったため、29日の航海の内気走したのは12日間でしたが)。わずか319トンの小ささですから「大冒険」です。ただ、当時蒸気船には人気がありませんでした。これは「新しいものへの不信感」や「石炭のコストがとても高い」ことが影響していたと著者は考えています。それでも蒸気船は進歩し、大西洋を蒸気機関だけで横断できるようになり、「レース」が行われるようになります(のちのタイタニック号の時代に行われた「レース」と似ています)。そして、蒸気船による定期航路が始まりました。帆船の40日と比較して2週間の航路ですから時間のメリットはありますが、石炭に圧迫されて船室は狭く甲板に出ても外輪がうるさく、快適な環境ではなかったようです。
1836年にスクリューの特許がイギリスとスウェーデンでほぼ同時に登録されています。スクリューの推進効率は外輪の2倍くらいだったため、同じ大きさの船だと機関部や石炭庫がざっくり半分となりその分利益は増すから、外輪蒸気船はどんどんスクリュー船に置き換えられていきました。
北大西洋航路はどんどん発展しましたが、船会社の主な収入源は新大陸への移民でした。
移民と言えば、日本の客船発展にも移民が大きく関与しています。南米への大量の移民輸送に大型客船を作ったのですが、私にとって意外だったのは昭和の時代に日本海軍がそこに関与していたこと。戦争になったときに徴用してすぐに軍用船に改造・転用できるように、設計についていろいろ口を挟んでいたのです。
第二次世界大戦で各国の客船が蒙った被害が列挙されていますが、タイタニックも真っ青の数字がずらずらと。やはり戦争はいけません。
そうそう、本書には「奴隷貿易」は扱われません。あれ?と思いましたが、奴隷は「荷物」だから貨物船で運搬されていたからですね。「奴隷制度」もいけませんねえ。