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【ただいま読書中】『花火(ものと人間の文化史183)』福澤徹三 著、 法政大学出版局、2019年、2600円(税別)
辞書には「狼煙」を「昼の花火」と説明しているものがあります。空中で火薬を爆発させたら、火花と煙が出ますから、そのどちらに注目するか、ということなのでしょう。本書では「花火」を(軍事用途ではない)「鑑賞して楽しむもの」に限定して話を進めています。
文献に残る日本の最初の花火は、天正十七年(1589)「伊達政宗のもとに唐人(明国人)が三人参って花火や歌を披露した」と『天正日記(伊達家の歴史書)』に記録されています。ちなみに、秀吉の小田原征伐はその翌年のことです。24年後の慶長十八年、徳川家康がやはり唐人が持参した花火を鑑賞しています。
江戸時代に花火は国産化されますが、その技術は口伝とされ詳しいことはわかりません。ただ、江戸時代に3冊だけ花火の技術書が出版されています(西暦1700年ころの『花火こしらへ』、18世紀の『水中花術秘伝書』、19世紀の『花火秘伝書』)。その中で紹介されている「柳」という花火は、太い蘆の髄に綿と火薬を詰め込んで吹き出し口に火をつける、というものです。今そのへんの公園や庭で楽しんでいる手持ちの玩具花火のような雰囲気でしょうね。
慶安元年(1648)の町触(まちぶれ)には「一 町中にて鼠火、りうせい其外花火之類仕間敷事 但、川口ニ而ハ格別之事」とあります。隅田川の河口付近以外の江戸市中では「鼠火」「流星」その他の花火は禁止。幕府は市中での凧揚げ(というかその前身のイカ揚げ)も禁止しているし、庶民が楽しむのが気に入らないのかな。もっとも花火禁止は「火の用心」の観点からかもしれませんが。
江戸時代の花火に使われた火薬は黒色火薬(硝石、硫黄、木炭末の混合物)で、せいぜいそこに火花を出すために鉄粉を加える程度で、基本色はオレンジ色でした。今のように様々な色を楽しめるようになったのは明治以降です。
元禄頃には、各地の村でも奉納花火が行われるようになりました。本書には信州の清内路村の史料などが紹介されています。『徳川実記』には将軍が花火を上覧したという記録も多数残されています。身分の上から下まで、日本人は広く花火を楽しんでいたようです。享保二十年七月と八月に、オランダ東インド会社のケイゼルは吉宗将軍の御座船に招待され、1日川遊びをしての締めくくりが両国橋のたもとで花火船がこぎ寄せてきていろいろな花火を目の前で打ちあげてくれる、というショーでした。ケイゼルは商館長ではなかったのですが、その代理ということでのおもてなしだったのでしょう。花火を担当したのは、鉄砲方与力の旗本佐佐木勘三郎孟成でした(公式記録には「大筒役」となっていますが)。自衛隊がさっぽろ雪祭りで雪像造りに取り組むように、鉄砲方が花火に取り組むのも“業務の一環"だったのでしょうね。
18世紀後半に「打ち上げ花火」が開発されました。著者は、砲術方の武士が、大筒の弾薬に発射後遅れて火が付くように口火と点火薬をつけ加えることで開発したのではないか、と推測しています。口火は、火縄銃の口火を応用すれば良いでしょう。砲術方の武士は、鉄砲・大筒・狼煙を担当しますから、そのすべてを総合的に応用したら、打ち上げ花火が生まれても不思議はありません。幕府は打ち上げ花火も禁止としましたが、事実上黙認をしていました。文化の頃には、隅田川の川開き初日の花火は、大掛かりな催しとなっていて、町奉行は禁止ではなくて警備などでの協力をおこなっています。
はじめは「武器」の一種だった花火は、泰平の世の中で「娯楽」へと変化しました。「武器の平和利用」とでも言えば良いでしょうか。やっぱり平和は良いな。頭上に砲弾が炸裂する代わりに花火が花開く方が、私は好みです。