手編みセーター
寒くなるとなぜかセーターを編みたくなりますが、今から編み始めてもどうせ暖かくなってからの完成だよな、なんてネガティブなことを思うともう始められません。
【ただいま読書中】『ゆび織りで作るマフラー&ショール』箕輪直子 著、 河出書房新社、2013年、1200円(税別)
「ゆび織り」というから、棒針の代わりに「指」を使ってチクチク編むのかな、それだと幅がえらい狭いまるでネクタイのようなマフラーしかできないよなあ、なんてことを思って本を開いてみました。
まったく違いました。大体、書名をよくよく見ると「編み」じゃなくて「織り」じゃないですか。
「織機」では、まず縦糸を張り、その間に横糸を通すことで「織」っていきます。ゆび織りはその織機を使わずに「手で織る」という独自性を主張しています。
まずは定規のようなものにたくさんの毛糸をずらりとぶら下げます。定規を持ち上げると縄のれんのように毛糸が垂れ下がりますが、それが「縦糸」です。
棒針編みだとまず作り目を作りますが、ここでは定規に引っかかっている部分がその「作り目」に相当するものです。では「横糸」はどうするのかといったら、一番左側の縦糸をそのまま右端まで縦糸を交互にくぐらせていきます。二番目の横糸は、最初は2番目にあった(現在は一番左側にある)縦糸を使います。
なるほど。こうするときっちり織れていきますね。で、縦糸の色を変えておくと、織るにつれてその色が少しずつ斜めにずれていくことになります。これだけだと単調な斜め縞しかできないのかと思っていたら、格子やアーガイルチェックも作れるそうです。
「指が40cmくらいある人だったら、両手の人差し指を使って“指編み"ができないだろうか」と未練たらしく考えていて、編んでいる最中にトイレに行きたくなったらどうするんだ、と思いつきました。編み目を全部棒針に移してから移動します? それだったら最初から棒針で編めば良いですよね。
バスターズ
と言えば私は「ゴースト・バスターズ」なんですが、最近のアメリカのテレビでは「怪しい伝説( MythBusters)」でしょうね。嘘か本当か怪しい、都市伝説や超常現象を、ひたすら非・真面目に(不真面目、ではありません)、再現実験を行い“それ"が本当か嘘かを判定する、という番組です。
これって日本の「探偵! ナイトスクープ」からヒントを得たものなのかな?
【ただいま読書中】『全国アホ・バカ分布考 ──はるかなる言葉の旅路』松本修 著、 太田出版、1993年、1748円(税別)
「東京ではバカと言い、大阪ではアホと言う。ではその境界線はどうなっているのか?」という疑問に答えるために、著者がプロディーサーを務めるテレビ番組「探偵! ナイトスクープ」が調査を始めました。アホらしくもばかばかしい、しかしとてつもなく面白い結果が得られると予想もせずに。
単純に新幹線で各駅停車をして聞き取り調査をしたら“境界線"が描けると思ったら大間違いでした。名古屋で「タワケ」が登場したのです。アホとバカだけではなかった! さらに、バカは九州にもあり、ダラやアンゴ(アンゴウ)が近畿を挟んで東西に存在することもわかります。「『蝸牛考』だ!」というヒントをもらって著者は本を開きますが、文章の難解さに即座に本を閉じてしまいます。あらあら惜しいなあ、面白い本なのに。
鎌倉時代にはアホもバカもなくて「ヲコ(おこがましいのご先祖様)」が使われていたこともわかります。全国からも情報が寄せられます。しかし、日本中を調査するのはとてつもなく大変な作業です。ちょうど番組も関西ローカルから全国あちこちにネットができるようになってきた大切な時期でした。多忙なスタッフを日常の番組作り以外の作業に駆り立てるわけにはいきません。著者は一時調査を封印することを決意します。しかし……
ここでの著者と上司、著者とディレクター、著者とプロダクション社長とのやりとりが絶妙です。著者は本当に人に恵まれた環境にいるようです。
調査が再開されます。番組のキーコンセプトを「方言周圏論」に置こうとした著者は、柳田国男自身がこの論に絶対の自信を持っているわけではないことを知ります。のちの国立国語研究所の研究でも全国調査された285語のうち周圏を示したのは76語だけでした。なおこの研究に「アホ・バカ」はありません。ならば「アホ・バカ」の調査によって、方言周圏論に一つの肯定的な結果を付け加えることができるのではないか、と著者は期待を持ちます。
できあがった分布図を見せたとき、言語地理学の徳川宗賢教授は「もし柳田先生がこの地図をご覧になったら、きっとお喜びになったことだろうと思います」と言います。こちらの背筋までしゃんとしてしまいそうな評価です。
単に「この地域ではアホ・バカをこう言う」という分布図ではありません。そこには「地理的条件」と「ことばの歴史」と「人の流れ」とが描かれているのです。たとえば沖縄の方言から著者は卑弥呼の時代の日本語がそこに保存されていることを(きわめて論理的に)導き出します。徳川教授が日本方言研究会で発表しろ、と言い出すわけですが、データというのは「データそのもの」だけではなくて「データの背景」「データの関係性」にまで目を配れば、とんでもないお宝が発掘できる、という好例でしょう。
ところで、どうしてここまで「悪口」のバリエーションが日本では豊かなのでしょう。著者は「悪口で言葉遊びをしていたから」と考えています。相手を傷つけるためではなくて皆で腹を抱えて笑うために悪口の言い方に工夫を凝らしていたから、京では次々新しい表現が生まれたのだ、と。なるほど、成熟した文化の特徴は「笑い」である、ということです。
「探偵! ナイトスクープ「全国アホ・バカ分布図の完成」編」は大反響、民間放送連盟賞・テレビ娯楽部門最優秀賞を受賞します。めでたしめでたし。だけど、著者の「言葉の旅」はまだまだ続きます。本もまだやっと半分です。
優れた研究は、過去の疑問に回答を与えると同時に、新しい疑問を提示します。著者も次々疑問にとりつかれますが、最大の疑問は「アホ」「バカ」の語源は? 著者は「バカのルーツ」を求めてさ迷います。
「ことば」の意味は、使う人とそれを聞く人が共同で与えます。決して「言葉自体」が内包しているわけではありません(そのことをソシュールは明確に述べていますね)。ならば「バカの語源」を知るためには、昔の人が何を常識や教養の基本としていたかも知っておく必要があります。ということで著者が取り組むのが白楽天です。いやもう、すごい馬力です。
しかし「アホ・バカ」で胸が熱くなるとは、なんとも不思議な本です。まだ未読の方は、ぜひ。
「専門家」は(腕が良ければ)尊敬されます。何でも屋は、便利には使われますが(専門家に比較すると)尊敬はそれほどではありません。
具体的には、教師・医者・大工・料理人・主婦・タレント……「何でもできる」人は「専門家」より軽く扱われる傾向があります(たとえば小学校の教師と大学教授を比較してみましょう)。でも、身近には「自分の専門分野以外は手を出さない(役に立たない)」という専門家よりも、「とりあえず何とかしましょう」という何でも屋がいてくれた方が、助かるのでは?
【ただいま読書中】『蝸牛考』柳田国男 著、 岩波文庫、1980年、350円
「改訂版の序」に、表現は大変上品ですが、要するに「『蝸牛考』をきちんと読まずに勝手なことを言うやつが多すぎる」という意味の文章があり、私は思わず恥じ入ります。私もきちんと読んでいない一員ですから。
ちなみに「本書は方言周圏説の証明のための本」と言うのは、上記の「勝手なこと」になるそうですので、ご用心。著者は「方言周圏」は改めて証明する必要のある「説」なんかではない(当然の前提)だと言うのですから。もっとも、それは改訂版の時の話で、初版の時には「言葉が京を中心として東西南北にゆっくりと(それこそまるで蝸牛が這うように)じわじわと日本中に広がっていく」というイメージはそれこそ日本中に衝撃を与えたはずです。
あ、そういった点で「蝸牛考」は秀逸な書名ですね。「蝸牛」という言葉に関する本であると同時に、言語の歴史的にゆっくりとした伝播のイメージも重ねることができ、さらに日本地図に各地の方言を描くと(まるで蝸牛の殻のように)環のような模様を見て取ることができる、ということになるのですから。このイメージだけでも“美しい"言語感覚の本だと言えます。
そういった「感覚」だけではなくて「空理空論」ではなくて「現実(実際に使われている方言)を数多く拾い上げ、その“ビッグデータ"を実証的に論じること」の大切さを論じている点も、戦前という時代を考えたらとても先駆的な態度だと思えます。
「蝸牛」は日本各地の方言で140種類以上の言い方をされています。巻末に一覧がありますが、その中の「ヤ」のところだけでも「ヤブタヌシ(越中の一部)」「ヤマシタダミ(八丈島)」「ヤマツブ(陸中平泉)」「ヤマミナ(薩摩知覧郡)」「ヤミナ(鹿児島方言)」、とこれだけあります。解説によると著者は別のところで「日本が今のような細長い形ではなくて大きな丸島だったら、ぶん回しで同心円を描いたように方言がきれいに表れるだろう」と述べたのだそうですが、そういった「補助線」を使えばごちゃごちゃした地図に「何か」がだんだん浮き上がって見えてきます(幾何学の問題が、適切な補助線一発で解けるように)。著者の場合「見えた」のは「周圏」でした。そしてその「周圏」を作り出した「人々の生活」と「時の流れ」(プラス「人の動き」)。周圏論だけで日本語のすべてが解明できるわけではないだろうと思えますが、それでも大変魅力的なアイデアです。
もしも著者が現在活動されておられたら、ネットで言葉を収集するのかな? “補助線"なしでは収拾がつかなくなりそうな気もしますが。
クレヨンしんちゃんに「正義の反対は「また別の正義」なんだよ」というとても深いことばがあります。
では「悪の反対」は「また別の悪」なのでしょうか。
【ただいま読書中】『悪人列傳』海音寺潮五郎 著、 文藝春秋新社、1961年、340圓
目次:蘇我入鹿、弓削道鏡、藤原藥子、伴大納言、平将門、藤原純友
「蘇我入鹿」の種本は、「日本書紀」と「太子傳歴」です。この「列傅」は著者の主張ではあくまで「伝記」であって小説ではないので、とりあえず史書を「事実を元に書かれたもの」とするしかなかったのでしょうが、著者はあちこちで不満を漏らし、推測を多く付け加えています。
崇仏と廃仏の対立は、信仰論争だけではなくて、諸豪族の勢力争いと皇室内の争いとがからみ、さらに皇室と有力豪族(特に蘇我氏)の対立も内包して、日本の政治状況は大変複雑なことになります。それでも厩戸皇子(聖徳太子)の時代には、皇室と蘇我(馬子)との関係は良好でした。しかしその次の時代、蘇我蝦夷の専横が目立つようになります。日本書紀にはその専横ぶりがちょこちょこ登場しますが、著者は「蝦夷天皇」が実質的に機能していたのではないか、と根拠をいくつか挙げて推定しています。
実は「入鹿」は中大兄皇子のクーデターのところでちょこっと登場するだけです。むしろ蘇我氏の歴史、といった感じの作品ですが、見る立場が違えば「悪人」の定義も変わることがよくわかる作品でした(江戸時代には、儒学者や国学者から見たら聖徳太子も“悪人扱い"だった(蘇我氏の専横を見逃していたことが“罪状")、なんて面白い指摘もあります)。
「弓削道鏡」でも、まずは長々と孝謙天皇と藤原仲麻呂(恵美押勝)について述べられます。いつになったら道鏡が登場するのかな、と焦れったくなるくらい。しかし「道鏡は大悪人だ」とか「和気清麻呂は、反道鏡派の言いなりに動いただけ」といった俗説を「あまりに悪意に解釈しすぎ」とすぱっと退ける手際の見事さには、読んでいてほれぼれします。歴史に残る人々の行動を、「読む側の心理を投影して解釈する」のではなくて「その人々の立場に立って解釈する」手法は、その結果もきわめて納得しやすいものです。さすが小説家、伝記(史伝)を書いても(よい意味で)小説的なテイストを持つ作品を仕上げてくれています。
しかしこうしてみると、昔の日本の史書は、どこを切り出しても優れた小説になる素材に満ちていますね。蘇我氏のところだけでも、長編小説が何編も作り出せそうな素材の宝庫です。たとえば渡来人の少年を主人公にして、彼が見た当時の日本の姿と……おっと、私は読む側で書く側ではありませんでした。そういった作品が出てくるのを期待して待つことにします。
言葉の内容はとても真っ当なことを言おうとしているのはわかるのですが、全体の調子がなんだかとっても薄っぺらく感じるのは、そこに満ちているのが自慢と自己愛と全能感だからかな。
【ただいま読書中】『決定版 切り裂きジャック』仁賀克雄 著、 ちくま文庫、2013年、950円(税別)
1887年、大英帝国ではヴィクトリア女王在位50周年の祝典で盛り上がっていました。ヴィクトリア朝は絶頂で、大英帝国は世界に覇を唱えていました。しかし、爛熟と退廃も“お盛ん"となっていました。人口300万のロンドンに売春婦は1万人、殺人事件は毎日起きています。
そして1888年、ロンドンのスラム街イースト・エンドに「切り裂きジャック」が登場しました。彼(彼女?)の犯行の全貌は不明ですが、著者はその「第一の殺人」を1888年8月31日未明のメアリ・アン・ニコルズの殺人としています。死体発見現場はイースト・エンドのバックス・ロウ(事件以降あまりに悪名が高まってしまったため、のちにダーウォード・ストリートと改名されています)。第二の殺人は9月8日。犯人が人体解剖または動物の解体に手慣れた者であることを示唆する、死体の状態でした。
「売春婦」と簡単に言いますが、殺された女たちは「プロの売春婦」というよりは、食い詰めて手っ取り早く稼げる“内職"として売春もする貧民でした。男から声をかけられたら当然“商売"ですからついて行き、そのへんの路地や裏庭ででも用を済ませます。犯人としては自分が有利な状況を選びたい放題だったのです。
事件が評判となり、恐いもの見たさの人々がイースト・エンドに押しかけます。便乗商法として、小さな蝋人形館の主は、女性の蝋人形を血まみれにして展示し、小銭を儲けますがすぐに閉鎖を命令されてしまいました。しかし、一番の便乗商法は、マスコミでしょうね。あることないこと書き立てて新聞を売りまくったのですから。
ロンドン警視庁は別名スコットランド・ヤードと呼ばれました。1829年に内務省の直属機関として創設されましたが、ロンドンの官庁街ホワイト・ホールの、スコットランド王族がロンドンで滞在するための離宮中庭跡地に庁舎が置かれたのが名前の由来です(東京警視庁を桜田門と呼ぶのと同じ感覚ですね)。近代的な捜査を志向するスコットランド・ヤードですが、マスコミや世論は容赦なく「とにかく犯人を、それが無理なら犯人らしいやつを捕まえろ」とプレッシャーをかけます。そのため、何の証拠もないのに「犯人」が逮捕されました。ユダヤ人、刃物の扱いに慣れている、残忍そうな人相、前科持ち、あだ名が「レザー・エプロン」(新聞が当時切り裂きジャックにつけていたあだ名)、が決め手でした。すぐにアリバイが立証されると、散々あおり立てた新聞社は責任をスコットランド・ヤードに転嫁します。時代は変わってもマスゴミはかわらない、ということなのでしょうか(当時の日本にも「羽織ゴロ」と呼ばれる新聞記者がいましたっけ)。
そして、第三・第四の殺人が9月30日夜に連続して起こります。最初の殺人では喉をかききったところで邪魔が入って解剖までできなかったために、続けて別の売春婦を殺して“きちん"と解剖をしたものと思われます。問題は管轄がスコットランド・ヤードとシティ警察に分かれてしまったため、捜査上無用の対立や混乱が生じてしまったことでしょう。
そして、新聞通信社への投書(犯人からの挑戦状?)から「切り裂きジャック」の名前が定着します。連続凶行と犯人のふてぶてしい態度に対して世論は沸騰しますが、同時に、悪戯目的の「予告状」が大量に新聞社や自警団などに送りつけられるようになります(スコットランド・ヤードに88年10月中に届いたものだけで1400通)。皆さん、楽しんでます?(ついでですが、1930~50年代には、「実は自分が切り裂きジャックだった」という遺書が次々発見されて、また一騒ぎになりました) こういった投書や遺書の中に、実は“本物"が混じっている可能性はあるのですが、警察は数の多さからまじめに取り合ってはいなかったようです。
ヴィクトリア朝時代は、道徳を強調し、経済的な繁栄を享受していましたが、その内側には貧困と腐敗と悪徳が蔓延していました。街に溢れる売春婦は、そういった時代の“腐臭"だったのですが、上中流階級の人に必要なのは「臭いものには蓋」政策でした。切り裂きジャックは、その「蓋」をも切り裂いてしまったのです。(マルクスは社会主義、穏健な知識人たちは啓蒙主義でそういった「社会」に対応しようとしていたことも本書には描かれています)
“無能な警視総監"は首になりますが、そこで第五の殺人が。これまででもっとも酸鼻な現場状況でした。死体の写真が載っていますが、気の弱い人は見ない方が良いでしょう。
結局「ジャック」は捕まりませんでした。様々な推理が展開され、様々な人が犯人と名指しされました。被害者よりも“犯人"の方が数が多いのではないか、と私には思えるくらい。
著者も、独自のプロファイリングをしたり、他の連続殺人者を取り上げたりしてくれますが、結局「切り裂きジャックは誰で、なぜこのような凶行に走ったのか」は謎のままです。ただ、彼(彼女?)の犯行によってヴィクトリア朝の暗部がしっかり“標本"として歴史の舞台に貼り付けられたことは確かでしょう。これは「教科書的な歴史」が好きな人には忌々しいことでしょうけれど。
大学で私は第二外国語がドイツ語でしたが、けっこう苦戦しました。ただ独文和訳の時に、独文を一度英語に置き換えてから和訳するとなぜかドイツ語を直接日本語にするよりもはるかに楽なことに気づいてからは、試験だけはなんとか楽に通過できるようになりました。
遊びの発想ですが、日本語でも似たことができるのではないかな、なんてことを突然思いつきました。古文や漢文をまず英語に訳してからそれを現代日本語に翻訳すると、古文・漢文も英語も現代国語も一挙に勉強できて“お得"じゃないです?
【ただいま読書中】『よくわかる マンガ 微積分教室』田中一規 著、 講談社、2008年、1000円(税別)
マンガだろうと、文字と数式の本だろうと、微積分は微積分です。マンガだから簡単にわかる、わけはありません。ただ、マンガには「ほぼすべてを絵で表現できる」という利点があります。たとえばグラフも、文字の本だと文字の流れとは別のところにはめ込む必要がありますが、マンガだと絵の流れの一部としてそのまま表現できます。
ということで、マンガによる微積分教室がいかなるものか、ちょっと読んでみることにしました。
数学は好きだけど苦手な高校生が、美人の数学教師に微積分を放課後教わりに行く、という設定です。
まずは基礎、「数の種類」から話が始まり、関数について述べられ……って、せっかくのマンガを文字で説明したらあまり意味がありませんね。微分係数とか導関数も当然登場します。いやあ、懐かしい言葉です。40年ぶりくらいの“再会"ですか?
三角関数の微分のところでは、sin(x)のグラフをまず書いてみて、切りの良いところで一つずつ導関数をプロットしていってフィーリングで結ぶと……と、マンガの威力で導関数をスムーズに導き出して見せます。ここの部分、高校の授業ではどう習ったかなあ。
意外に、と言ったら作者の方に失礼な言い方になってしまいますが、予想外に“使える"本でした。もう一度高校レベルの参考書を読みたくなってしまいます。
今日は曇っていて空が見えない、と思う日。宇宙からは、今日は雲で日本が見えない、となっているんですよね。さて、その雲は何を見ているんでしょう。
【ただいま読書中】『世界の太陽と月と星の民話』日本民話の会・外国民話研究会 編訳、 三弥井書店、2013年、2800円(税別)
「昔空には複数の太陽があった」。オロチ(ロシア)では3つ(創造神ハダウが矢を放って二つの太陽を殺します)。バシキール(ロシア)では2つ(勇者ウラルが金剛石の矢で一つを真っ二つに割って、夜が生じます)。漢(中国)では10個(二郎神(西遊記では天界を騒がせた孫悟空をつかまえた強い神)が玉皇大帝(道教の最高神)の命令で9つを山の下に押さえつけます)。ミャオ(中国)では9つ(ついでですが、月も9つ。ミャオの勇敢な若者ミナションが「偽物の太陽と月」8つずつを退治します)。日本では、新潟県十日町に「三本足のカラスが太陽に化けたので、俵藤太が色の薄い方を矢で射た」、埼玉県入間には「行者が二つの太陽の一方を射ると、三本足のカラスになって落ちた。だから射魔 → 入間」というお話が残っているそうです。
「月と兎」。アジア・エスキモー(ロシア)「魔物が太陽を盗んで地下に隠した。動物たちが相談して兎を派遣、ツンドラの地下に隠された輝くまりをたたくと、小さい方が天に張りついて月に、大きい方は太陽になった」。インドの仏教説話「インドラをもてなすために動物たちが食物を持ち寄ったが、何も持っていない兎は火中に飛び込んで自らをご馳走とした。それに感動したインドラは兎を月宮に住まわせた」。中国「嫦娥(じょうが)という女性が不死の薬を盗んで月へ逃げ蝦蟇蛙(古語で「顧兎」)になった」。ホッテントット(南アフリカ)「月が兎を人間のところに遣わし、人間が月のように永遠不滅の存在だと伝えさせようとした。しかし兎は嘘をつき、人間は兎と同じく死んだら生き返ることはない、と伝えた。月は怒って兎の唇を裂き、兎は月の顔をひっかいたので、その傷跡が今でも月面に見える」。ユカギル(ツンドラの狩猟民)「兎が鍛冶屋と一緒に月にいる」。フランスの民謡「月の中には年寄り兎が三匹、プラムを食べている、いたずらっ子みたいに」。
月に人の姿が見える、は、バシキール(ロシア)、アイヌ、黒竜江省(中国)、ドイツ、フランス、ウクライナ、イタリア、スイス、ルーマニア……
月に蛙、も世界各地にあります。
月の満ち欠けに関しても、人間の想像力はここまで豊かなのか、と言いたくなるくらい様々な話が世界中にあります。ここまでいろいろ語られていたら、もう何か新しいものを付け足す余地は残っていないような気もしますが、それはおそらく私の想像力の限界を語っているだけなのでしょうね。
「星(星座)のお話」では、日本ではなぜかギリシア神話が有名ですが、もちろんギリシア以外の全世界にも魅力的なお話がたっぷりあります。私が気に入ったのはウォスコウ(アメリカ)の「コヨーテが、まず北斗七星を配置し、次いで星々を満天に配置し、最後に天の川まで作った」という壮大なお話です。しかし、なんで、コヨーテ?
太陽・月・星は昔の人間にとって「自分たちには手が届かない存在。定期的に変化するがそのメカニズムは説明できない。しかし、その変化によって自分たちは確実に影響を受ける」という、知的にはなかなかやっかいな存在だったはずです。それを「想像力」によってなんとか説明しようとする作業が世界中で行われていたことに、私は素直に感銘を受けます。こういった作業も「世界を説明する」ための「器用人の仕事」(レヴィ=ストロース)と言って良いのではないかな、と思えますので。
尖閣諸島をめぐって、週刊誌などには「日中開戦!」なんて文字列が躍っています。戦前にも「日米もし戦わば」なんて文字列で“雰囲気"を盛り上げようと躍起になる人たちがいましたっけ。
ところで開戦するとして、どこまでやるんです? 尖閣諸島を“賞品"として黄海海戦をする「第二次日清戦争」にします? この場合、海戦に勝った方が領有権を確定、です(相手が素直に負けを認めれば、ですが)。もう一つの方法は、第二次世界大戦のように「島」ではなくて「相手の首都」を陥落させることが目的の戦争です。帝国陸軍でも無理だったので、自衛隊単独ではこれは無理っぽいですね。すると「連合軍」が必要ですが、日本と組んで軍を出してくれる国、どのくらいあるでしょうか。
【ただいま読書中】『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子 ──独立の闘士たちが見た日露戦争後の日本とは?』白石昌也 著、 彩流社、2012年、1800円(税別)
19世紀にフランスはベトナムに手を出し、1883~4年に全ベトナムを占領します。宗主国の清はそれを認めず清仏戦争が起き、フランスが勝利、天津条約でベトナムに対する保護権を清に認めさせます。87年にはベトナムとカンボジアで(のちにラオスも編入)「仏印」が形成され、ハノイに総督府が置かれました。フランスは、南部ベトナムは直接支配、北部ベトナムはフエ朝廷を残して間接支配、中部ベトナムはその中間的な支配形態をとっていました。支配形態と内容に「差」をつけることで民族のエネルギーを内紛に向ける「分割統治」です。
日露戦争の“衝撃"は、たとえばフィンランドやトルコといったロシアの圧力をもろに受けていた国には好意的に受け入れられました。アジアでも、自らの国をヨーロッパの隷属から救い出すために「ヨーロッパに対するアジアの勝利」から学びたいという人々が続出します。インドのジャワハルラール・ネルー(独立インドの初代首相)やベトナムのファン・ボイ・チャウもそういった人々の一人でした。
ファン・ボイ・チャウは32歳のとき(1900年)科挙の郷試に首席で合格します。しかし彼の目的は、立身出世ではなくて、「科挙に合格」という名声を活かしての独立運動でした。まずは仲間を集めようと全国を行脚。そこで21歳の青年皇族クオン・デと出会います。時はちょうど日露戦争の真っ最中。ファン・ボイ・チャウは密出国をし、日本を目指します。日本人や中国人と漢文による筆談で意思を通じ合い、ベトナム独立のための軍事支援を引き出そうと活発に活動をします。紹介されて出会った日本の政治家たちは、性急な軍事行動ではなくてまずは教育と人材育成を、とファン・ボイ・チャウに説きます。ファン・ボイ・チャウは考えを変え、ベトナムから有望な若者を次々日本に呼びよせます。東遊運動の始まりです(東=日本、遊=遊学・留学)。最盛期の1907年には200人近くのベトナム青年が日本で学んでいたそうです。ファン・ボイ・チャウが“理想のモデル"としたのは吉田松陰でした。
振武学校(清の官費留学生に日本語や一般科目だけではなくて、軍事教練や軍事科目も教え、卒業生は日本軍に配属後、陸軍士官学校に入学させるための学校)にベトナム人も中国人のふりをして数人潜り込むことができました。しかしあまり人数が多くなってフランスにばれると外交問題になってしまいます。残りのベトナム青年たちは、民間の東京同文書院(日本留学を目指す清国青年のための予備校)にまとめて入り、特別に退役軍人から軍事教練を受けることになりました。
当時の清国は「保皇党」と「革命党」が対立していました。ファン・ボイ・チャウを支援する日本人も当然「独立後のベトナム」の政治体制について興味を持ちます。しかしファン・ボイ・チャウはそのへんはあまり深く考えていませんでした。「独立運動」だけで精一杯だったのです。そこで“旗印"としてクオン・デが日本にやって来ます。
「東遊運動」の噂はベトナム中に広がり、様々な階層や宗教や考え方の違う人々が来日するようになります。当然のように路線対立が生じます。まずは「立憲君主制」vs「民主共和制」です。さらに「軍事優先」か「合法的活動優先」か、でも。
日露戦争後、日本は「日仏協約」など列強と次々条約を結び、協調路線を取ることにします。それに対して反発したのが、日本の社会主義者たちの中でも(幸徳秋水、大杉栄など)急進的なグループとアジア各国の独立運動活動家たちでした。
ベトナムでは、農民運動や蜂起未遂事件が起きます。フランスはベトナムで弾圧を始めます。さらに東京のフランス大使館を通して日本当局にも協力を求めます。日本外務省は困ります。フランスに協力する必要はありますが、あまりベトナム人を弾圧すると、彼らに熱心に協力している野党の政治家(たとえば犬養毅)を刺激することになりますから。
居づらくなった日本を脱出したファン・ボイ・チャウはしばらく中国に潜伏しますが、清と革命党の対立が激化し、辛亥革命が勃発しました。共和国誕生に刺激されたファン・ボイ・チャウたちは、ベトナムでも共和制を目指すこととし、革命組織の名称を日本で使っていた「ベトナム維新会」から「ベトナム光復会」に改めます。(ただし、南部ベトナム出身者には、皇室への忠誠心が強く、立憲君主制を主張する者が多くいました) しかし、フランスの弾圧はきわめて厳しいものでした。
昭和の時代になり(特に満州事変勃発後)、日本に潜伏していたクオン・デにそれまで手厚く支援してくれていた犬養だけではなくて、右翼系(たとえば頭山満、何盛三、大川周明)や軍部が手をさしのべようとしてきます。欧州大戦が勃発し、日本では「南進論」が強く唱えられるようになります。そして仏印進駐。ベトナム人は喜び、日本軍に熱心に協力します。ついに「解放」かと。しかし……
日本は「仏印静謐保持」政策を採りました。ドイツ占領下にある「フランス政府」と協力してインドシナはフランス植民地のまま保持、その“上"に乗っかって美味しいところだけ頂く政策です。その中でも親日的なベトナム人を増やそうとする日本人がいました。ベトナム愛国党のゴー・ディン・ジエムもそういった動きを受けたベトナム人の一人です。戦局が悪くなった1945年、フランス当局や植民地軍に対する奇襲攻撃(明号作戦)が決行されました。フランス植民地軍は解体、総督には日本軍司令官が就き、ベトナムはフランスから「独立」しました。クオン・デは東京でむなしく日本の敗戦を迎えます。
日本軍降伏と同時にベトミン(指導者はホー・チ・ミン)が一斉蜂起、臨時革命政府を樹立しました。しかしフランスは独立を認めず、46年にインドシナ戦争が始まります。
こうした歴史の流れを見ていると、「列強からのアジアの解放」がタテマエではなくてホンネだったら、日本は今頃は「アジアの尊敬されるリーダー的存在」だったかもしれないと強く思います。とてももったいないことだと思います。
ファーストフードばかり食べていると、和食の繊細な味わいがわからなくなる、という危機感を抱いている人々がいます。
ネットでの露骨な悪口の応酬や街宣車でのがなり立てやヘイトスピーチに関する報道を見聞すると、そんなことばかり言っていたら日本語の繊細な味わいがわからなくなるぞ、と言いたくなることが私にはあります。
それともこの国では、文化的な「日本らしさ」はもうどうでもよいことに分類されてしまっているのでしょうか。
【ただいま読書中】『窓を開けなくなった日本人 ──住まい方の変化六〇年』渡辺光雄 著、 農文協、2008年、2667円(税別)
「起居様式」という言葉があります。生活様式の一つで、住まいの中で展開される諸行為の特徴を言います。著者は、日本人の起居様式が最近非常な速度で変化しているのではないか、と関心を持ったことがきっかけとなって本書を執筆したそうです。
60年前の人気連載漫画「サザエさん」と「ブロンディ」の比較が行われます。「縁側」と「地下室」の“対決"です。さらに「庭に塀があるかないか」「赤ちゃんはどこでハイハイをするのか」といった“問題"も取り上げられます。そして、かつての「サザエさん」は少しずつ「ブロンディ」へと変化していったのではないか、と著者は考えます。
この60年間で日本人がやらなくなったことはたくさんあります。たとえば「夕涼み」。実は夕涼み以前に「近隣の人影」が見当たらなくなっていたのです。さらに「普段着で行き来できる生活圏(狭域の生活圏)」が消滅していました。
日本住宅の歴史的な特徴は「ビルトイン」です。たとえば「畳」。はじめは置物や敷物だったものが敷き詰められて畳室になりました。布団箪笥がビルトインしたものが押し入れです。ところがこの60年、家具があまりの勢いで増加したため、新しいものをビルトインしていく余裕がありませんでした。その中で著者が注目しているのは「下駄箱」です。現在日本の住宅の下駄箱の半数くらいはすでに玄関壁にビルトインされています。つまり、私たちは「下駄箱ビルトイン」の“瞬間"に立ち会っているのだそうです。
日本人が現在迷っているのが「床の使い方」だそうです。西洋のように「歩くための床」にするか、これまでの畳のような「複数の機能を持たせた床」にするか。著者は後者を推奨していますが、さて、これからの日本の住宅ではどのような「床」の使われ方が主流になっていくのでしょうか。
そして「窓」。サッシの普及によって日本人は「窓を開けなく」なりました。これはつまり「エアコンの普及」も意味しているのですが。これを著者は「冬夏中心の生活」と言います。「寒いか暑いか」で気候を判断する生活です。しかし著者は「春秋中心の生活」も意識したらどうだろう、と提案します。夏の中でもさわやかな夜、冬でも穏やかな日だまりの日、そんな日には「窓を開けよう」と。窓を開けるかどうかは、「生き方」の話なのです。
ユニバーサルデザインの話も示唆的です。障害者や高齢者だけではなくて、たとえば小柄な人や左利きの人にも現在の住宅(特に火や刃物を使う点で危険がある台所)は使いやすく設計されているか、と。
このまま“住宅の西洋化"が進行すると、どうなるでしょう。著者は「ホテル暮らし」を例に挙げます。あそこで感じるとまどい(どこで靴を脱ぐか、どう入浴するか、ベッドでどう寝るか、エアコンはどうするか、大型トランクをどこで広げるか)が、日常的に延々と続くことになるのだ、と。
「ホテル暮らし」も慣れれば快適なのかもしれません。ただ私は、時々でも良いから、畳の部屋で大の字になりたいな。こんなことを言うのは、もう古いですか?
未来の足跡
「賞」とか「勲章」は、いわば「その人の過去の足跡」を褒め称えたものです。もしももらった本人がそこで立ち止まって振り返り「自分の過去の足跡」をつくづく鑑賞してしまったら、もう「新しい足跡」は生まれないことになってしまいます。
【ただいま読書中】『新版 遠野物語』柳田国男 著、 角川ソフィア文庫、1955年(2004年新装初版、13年25刷)、476円(税別)
岩手県の遠野で著者が聞き書きをした民間伝承の数々が列挙された本です。
本書によく登場することばに「恐れ」「恐ろしい」があります。当時の山は人が支配できない領域で、自然の恵みを得ることはできましたが、人が行方不明になったり死んだりする恐ろしい領域でもあったのでしょう。そういった「恐ろしさ」が具現化したものが、たとえば、山男、山女、ザシキワラシ、天狗、人をだます狐、人を襲う熊や狼、化け物、幽霊、山姥などだったのでしょう。
ザシキワラシは、私が知っているのは童の姿をしている家の守り神で、子供たちが遊んでいるといつのまにかその中に気づかれずに混じっている、というものですが、本書ではしっかり認識できる「見慣れぬ童子(男児または女児)」の姿となっています。ちょっと恐いのは、「福の神」だから「この神の宿りたまふ家は冨貴自在なり」なのですが、出て行かれるとその家はあっさり没落してしまうことです。
オシラサマは民間伝承と言うより神話に近い物語です。遠野の曲がり屋は人家と厩がくっついています。で、ある家の娘が馬を愛して毎晩厩で寝ていたら、馬と夫婦になってしまいます。父親は馬を桑の木につり下げて殺しますが娘は切り落とされた馬の首に乗って昇天して、そのときオシラサマという神が生まれ、馬の首の形の白い虫(お蚕様)が生じた、と言うのです(遠野物語拾遺にはまた別の由来が載せられています)。
本書を読んでいると、昔の日本人は奇怪な民間伝承とともに生きていたんだなあ、とまず思います。そして次の瞬間「ともに」ではなくて「中で」……「私たちから見たら奇怪な民間伝承の世界の中で生きていたのだ」ということに私は気づきます。彼らにとってはおそらく“それ"が“リアルな世界"だったのでしょう。
ということは、21世紀の私たちもまた“奇怪なリアル世界"に生きているのかもしれません。