【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

無料のソフト

2014-01-19 08:05:07 | Weblog

 無料のソフトといえば、今は「アプリ」でしょうが、私は「PDS」や「フリーソフト」のことを思い出します。私がNiftyServeの活動を開始した頃にはまだ「フリーソフト」ではなくて「PDS(PublicDomainSoftware)」と言っていたはず。アメリカではそれでOKだったのですが、日本の法律では著作権を完全に放棄することができないので、そのうちにこのことばは使われなくなった、と私は記憶しています。通信ソフトやテキストエディター、ゲームなど、当時は大変お世話になりました。“恩返し"が全然できていないのが、残念ですが、そのうち別の形ででも返していけたらいいな。

【ただいま読書中】『インヴィジブル・ウェポン ──電信と情報の世界史1851-1945』D・R・ヘッドリク 著、 横井勝彦・渡辺昭一 訳、 日本経済評論社、2013年、6500円(税別)

 昨年12月1日に『情報覇権と帝国日本(1)海底ケーブルと通信社の誕生』を読書したばかりですが、関連したテーマの本をまた読んでみました。しかし、この手の本はどうしてこんなに高いのでしょう。
 19世紀、西欧列強は国内に政府が管轄する通信線を整備します。当然“便利"のために各国の線を繋ぎたくなりますが、そのためには「国際協定」が必要でした。そして国際協定を国際紛争が追いかけることになります。19世紀半ばには水中電信が可能となり、まずドーバー海峡や地中海に電信ケーブルが敷設されます。この時代、海中に大金を(文字通り)投じる事ができたのは英国だけでした。各国が国内の通信ネットワークを整備するのがやっとだったのに対して、海底ケーブルで“大英帝国"を繋ぐことで世界に対する優位を英国は築き上げます。1887年に英国は世界の海底ケーブルの70%を所有していたのです。英国は「情報の支配」によって、政治的・軍事的にも世界で優位を確保しようとします。それが如実に表れたのが、米西戦争・ファショダ事件(アフリカでの英仏の対立)・ボーア戦争でした。「他国に支配された通信網に頼ることは、自国の不利益になる」と各国は学び、自前の通信網をせっせと整備することになったのです。地上と海底ケーブルが最盛期を迎えます。
 そこにマルコーニの無線が登場します。これは遠距離通信ができるというだけではなくて、無線ゆえに「国境」を無視できるという特徴を持っていました。また、海上でも通信可能という点で海軍にも大きな影響を与えます。
 第一次世界大戦では、「情報」もまた武器となりました。検閲・プロパガンダ・機密・諜報です。同時に、開戦早々、敵側の海底ケーブルの切断や無線所の破壊もおこなわれました。ただし、著者は「破壊能力」ではなくて「切断されたケーブルや破壊された無線局を修復する能力」が“武器"だと述べます。ドイツ側のケーブルは一度切断されたらそれっきりでしたが、連合国側のものはすぐに修復されていたのです。それは当然戦局に大きな影響を与えることになりました。各国は、戦いながら情報戦のやり方を学びます。現在から見たら「何をやってるんだ」と言いたくなるようなこともたくさんありますが、それは「これまでなかった戦い」を強いられていた人々には、ある程度仕方の無いことだったでしょう。
 第一次世界大戦で通信分野での“ライバル"のドイツを退けたイギリスは、こんどはアメリカの挑戦を受けることになります。それにしても、1920年の「公職機密法」では「イギリス政府の管理下にある通信線を通ったすべての通信文はその内容をイギリス政府に引き渡すこと」と定められているというのは、なかなか露骨にすごい法律ですな。アメリカがそれに抗議すると「通信文は預かるが、中は見ずに返却している」と返事しているのはイギリス流のユーモアなのでしょうか。アメリカが本気で“自前の通信線"を設置したくなるわけです。そして、第二次世界大戦前には、技術の大躍進と激しい商業戦争が繰り広げられ、長距離電信の需要が高まり、世界中に無線通信局が建設されることになります。イギリスは衰退し、アメリカが世界のケーブル網を牛耳ることになります。
 第一次世界大戦が塹壕線だとしたら、第二次世界大戦は機動戦であると表現できます。当然新しい通信技術が必要となりました。それを現実としたのが、無線、特に短波無線(トランシーバー)です。これによって戦術は変革されました。もう一つ発達したのが、暗号(とそれに対する諜報)です。戦場に暗号が普及することは、諸刃の剣でした。暗号機器を持ち歩くことで敵に対して秘匿した行動を素早く取ったり離れた味方と協力し合うことが可能になりますが、敵に暗号機器を奪取される機会も増えるわけですから。その好例が、ドイツのエニグマです。イギリスは捕獲した潜水艦や飛行機から得た機器からエニグマの暗号を解読したのです。そして「暗号を解読したこと」を「秘匿する」ことも「武器」としました。
 第二次世界大戦でイギリスが戦勝国になったのには「情報」を制したことが大きかったのですが、その代償もまた大きなものでした。「情報の世界のリーダーシップ」をアメリカに譲渡せざるを得なかったのです。それはつまり、大英帝国の終焉でもありました。
 本書は1945年で終わります。しかし、情報の世界での「検閲」「プロパガンダ」「機密」「諜報」の重要性は21世紀になっても変わりません。インターネット時代となってその重要性はもっと増しているのかもしれません。


宮沢賢治

2014-01-18 07:40:38 | Weblog

 私が宮沢賢治に初めてであったのは小学生の時、「注文の多い料理店」「よだかの星」「セロ弾きのゴーシェ」のどれかのはずです。あるいは「風の又三郎」だったかもしれません。
 そのどれだとしても、私の人生のどこかは常に宮沢賢治につながっています。残念なのは、彼との“縁"を(文章が上手くなるとか、の)人生の“糧"にできなかったことですが、文学作品に物質的な“ご利益"を求めちゃいけませんよね。

【ただいま読書中】『銀河鉄道の夜』宮沢賢治 著、 新潮文庫、1989年(2007年44刷)、400円(税別)

 アニメ映画「銀河鉄道の夜」が「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご存じですか。」という先生の言葉で始まったとき、私は思わず泣きそうになりました。原作の言葉がまるっきりそのまま使われていたのですから。登場“人"物がほとんど「猫」であっても、全然気になりませんでした。
 困るのは、本書を読んでいるときに、脳裏に猫が歩くことです。


作品批評

2014-01-17 06:50:56 | Weblog

 「この作品は面白い!」という意味のことが上等な文章で書かれている批評は「良い文章を読む喜び」が感じられるからそれ自体が読むに値しますが、つまらない文章で書かれていたらそんな批評を読んでいる暇に当の作品を読んで自分で判断する方がマシだと思います。もちろん「上等の文章」で書かれた肯定的な批評を読んだら、やはり当該作品も読みに行きたくなります。
 ところで「この作品は面白くない!」という内容の批評は、その文章の上手下手は別として、誰に読ませてどんな行動を起こさせたいのでしょう?

【ただいま読書中】『時の地図(下)』フェリクス・J・パルマ 著、 宮崎真紀 訳、 早川書房、2010年、800円(税別)

 「2000年の地球」で、人類側の指導者はデレク・シャクルトン将軍でした。そして、デレクは、19世紀の少女クレアと愛し合う仲になります。タイムパラドックスは一体どうなるんだ?なんてことを言ってはいけません。第一部に登場した人がちらちらとこちらでも登場しては小さな芝居をしてさっさと消えていきます。著者は明らかに楽しんでいます。そして「時を超えた文通」が始まり、そこに登場するのが、またもやH・G・ウェルズです。
 第二部の舞台は第一部と同じ19世紀のロンドンです。場所も時間も重なり合っています。そこで、第一部と微妙に絡み合ったストーリーが違う視点で展開するのは、なかなかスリリングです。どこかで偶然の出会いがあるのではないか、なんて期待もしてしまいますが、その期待は裏切られません。
 第一部と同様、ウェルズは「想像力」で人を救わなければならなくなり、生まれて初めての恋文を書く羽目に陥ります。そしてその返事が、まるで出来の悪いソフトポルノのような恋文です。出来の悪いのは当然で、素人の女性が書いたものだからなのですが。しかし、「階級」だけではなくて「時間」でも隔てられた恋人たち、という設定は秀逸です。離れているからこそ愛が深まる、という過程にも説得力があります。「水仙の押し花」も絶妙の“アクセント"となっていて、いやあ、なんとも素敵なラブストーリーです。あちこちひねくれてはいますけれどね。
 そうそう、本題とは無関係ですが、本書にはウェルズが「タイムマシンの実物大模型」にまたがって楽しむシーンがあります。ここを読んでいて私が想起したのが、(アメリカのテレビ番組)「ビッグ・バン・セオリー」のどこかのエピソードで、主要登場人物のオタクたちが「タイムマシンの実物大模型」に乗り組んで大喜びするシーンでした。そんなものが目の前に置いてあったら、私も楽しんでしまいそうです。
 第三部は、惨殺された浮浪者の死体で始まります。胸に直径30cmくらいの穴が貫通していてその周囲が焼け焦げています。まるで「熱線」が通過したかのように。検視官は「こんな事ができる武器は“現代"には存在しない」と断言しますが、「2000年ツアー」に参加したことがあるギャレット警部補は「2000年のシャクルトン将軍がそんな武器を使っていた。つまり彼が犯人だ」と断定します。ギャレットは(やはり2000年ツアーに参加したことがある)ルーシー(第二部の主人公クレアの友人)に恋し、シャクルトン将軍の逮捕状を懐に、マリー旅行社に向かいます。
 サスペンスなのか冒険小説なのかラブストーリーなのかお笑いなのか、私は混乱させられてしまいます。ところがここでまたまたH・G・ウェルズが登場し、「殺人犯人捜し」を引き受けてしまいます。おやおや、推理小説だったんですか。犯人は殺人を繰り返し、現場に(19世紀末には)まだ未発表の小説の一節を書き残します。その一つはウェルズの「透明人間」でした。犯人に“招集"された作家は、ウェルズの他は、ヘンリー・ジェイムズとブラム・ストーカー。そして“招集した人"は……いやあ、とんでもない人です。ここで推理小説は○○小説(ネタバレ防止のためジャンル名は秘します)に変貌してしまいます。第一部で私が感じた違和感が、ここでちゃんと伏線として生きています。著者は一体いくつの仕掛けを本書に施しているのでしょう? もちろん「本書の語り手」もまた「伏線」の一つです。いやもう、最後は“お腹いっぱい"になってしまいました。
 さて、次に読むべきは『宙の地図』(フェリクス・J・パルマ)か、あるいはH・G・ウェルズから何か一つ、かな。図書館にあれば良いのですが。



米帝

2014-01-16 06:48:33 | Weblog

 大学紛争が盛んなとき、近くの大学の正門に「米帝反対」とでかでかと書かれた立て看板がしばらく置いてありました。
 「USA」を正確に翻訳したら「アメリカ合衆国」ではなくて「アメリカ合州国」だ、と指摘したのは本多勝一さんだったと記憶していますが、もしも「州」が「国」だとしたら、「合州国」はそのまま「アメリカ帝国」と言うことも可能になります。ただ、現在の状況では各州は「独立運動」は起こさないでしょうね。メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいですから。

【ただいま読書中】『時の地図(上)』フェリクス・J・パルマ 著、 宮崎真紀 訳、 早川書房、2010年、800円(税別)

 ヴィクトリア朝の大英帝国の“裏側"イーストエンド。大富豪の息子アンドリューは、不思議な出会いで得た恋人メアリーを切り裂きジャックに惨殺されてしまい、まるで廃人のようになって8年を過ごします。
 まず私が気になるのは「語り手」です。本書は「読者」に向かって「語り手」がアンドリューの物語を語る、という形式となっています。ところが語り手の正体は誰なんでしょう? ずいぶん饒舌で、アンドリューについて(その内面も含めて)非常に詳しく語ります。さらに「時間」についての言及が多すぎます。
 そして「歴史」が変です。こちらの世界では切り裂きジャックは逮捕されるのです。さらに、H・G・ウェルズの「タイムマシン」によって科学研究に火がつき、とうとう時間旅行が実用化されてしまいます。アンドリューは「過去への旅」を求めます。メアリーを救うために。
 時間旅行を扱うマリー社の社長は、アンドリュー(といとこのチャールズ)にあっさり時間旅行の秘密を教えてくれます。時間の流れから一度“外"に出てから特定の時空間にまた入る、という“魔法"によるやり方を。ただしそれでは「(メアリーを失った)過去」へは戻れません。マリー社の“ツアー"で行けるのは(今のところ)「西暦2000年の未来世界」だけなのです。
 アンドリュー(とチャールズ)は、ウェルズを訪問することにします。ここで登場するのが「ウエルズの人生」と「『タイムマシン』の内容紹介」が細かく切り混ぜられたものです。ともかく、ウェルズは小説家であって科学者ではありません(科学教育はうけていますが)。だからウェルズのところに現物のタイムマシンがあるはずがないのですが……「あるはずのないもの」がなかったら話はそこで終わるのですが、本書はここでまだ上巻の2/3。話は続くのです。
 アンドリューは8年前に戻ります。過去を改変するために。弾を込めたピストルを持っていますが、それは当初の自殺目的ではなくて、切り裂きジャックを殺すためです。そして本書の「第一部」は幕を閉じます。ものすごく意外な“大団円"です。ウェルズは「想像力」で人を救い、アンドリューもまた「想像力」で自分自身を含む多くの人を救ったのです。これ、SF仕立てにはなっていますが、純文学としても扱えるテーマとその解決法の提示がされています。いやあ、すごい。
 第一部の主人公は優柔不断をそのまま具現化したような青年でしたが、第二部の主人公は「社会から押しつけられる淑女像」に反発をしているクレア・ハガティです。うっかり「嬢」をつけたら、叱られるかもしれません。彼女の望みは「現在からの脱出」。行き先は……もちろん「西暦2000年の未来世界」です。友人のルーシーは、帰った後の土産話で友人たちの目を丸くすることを想像して旅行に行く前からにこにこしています。しかしクレアは、帰る気がありません。
 2000年のロンドンは破壊されていました。人類と自動人形の大戦争が繰り広げられていたのです。なんだか「ターミネーター」の世界のようです。
 第一部では「過去を変えることができるか」がテーマでしたが、第二部では「未来を変えることができるか」がテーマとして登場します。それも意外な人物の口から。
 そして……ああ、これは書けない。ネタバレになっちゃうから、何も書けません。しかし、語り手が急に饒舌でなくなったと思ったら、この展開ですか。まったく、著者は一筋縄ではいかない人物のようです。


人に何かを仕込む方法

2014-01-15 06:48:40 | Weblog

 「人間」を「鞭を振るわなければ“芸"が仕込めない動物」と定義している人がこの世にはいます。そんな人には「人間はそんな動物ではない」という概念を“鞭"で頭にたたき込んで上げようか、と思うこともあります。

【ただいま読書中】『人体解剖図 ──人体の謎を探る500年史』ベンジャミン・A・リフキン、マイケル・J・アッカーマン、ジュディス・フォルケンバーグ 著、 松井貴子 訳、 二見書房、2007年、3200円(税別)

 「人体解剖図」と言われて私がすぐに想起するのは『解體新書』、それから解剖教育をうける医療系の学部(医学部、歯学部、看護学部、リハビリ、など)で使う解剖学の教科書です。だけど対象となるのは「人体」ですから、筋肉は筋肉・骨は骨・内臓は内臓……教科書によってそれほど大きな違いはないのではないか、とも思いますよね。ところが違うのです。
 中世の解剖学は、古代ローマのものがそのまま生きていました。「古代ローマの教科書」がいわば“聖書"のように扱われ、「実際に人体内がどうなっているか」ではなくて「“聖書"にどう書いてあるか」の方が重要視されていたのです。
 そこで登場するのはレオナルド・ダ・ビンチ。彼の解剖図の“目的"は「芸術」です。彼は極力“客観的"に「人の内部」を描こうとしますが、「時代の様式の制限」「技術的制約(死体の保存が難しいこと、使える道具・材料の制限、など)」「個人の資質(癖、どこに注目するか、など)」によって「写真に撮ったような客観的な図」とは遠いものができています。
 近代的な解剖図は、1543年にヴェサリウスが出版した「ファブリカ」によって始まりました。ところがこの解剖図で、たとえば骸骨は遠くの山をバックにしてポーズを取っています。1545年シャルル・エティエンヌの「人体解剖図」でも、たとえば妊婦はお腹の中身をさらけ出して街の中でやはりポーズを取っています。1560年ファン・ワルエルダ・デ・アムスコの「人体解剖学」では、解剖されている途中の人体がもう一つの人体を解剖しています。
 昔のヨーロッパ人にとって「死体」は「物体」ではなくて、ナニカ(魂? 神?)に駆動されるもの、というとらえ方だったのかもしれません。それでもキリスト教界はヴェサリウスを攻撃しました。「神の最高の制作物」に対して人間が「どうなっているのかくわしく知ろうとする」こと自体が不敬の極み、ということだったのでしょう。
 そういえば「解體新書」も「漢方医学に対する一種の異議申し立て」でしたね。現代社会のパラダイムの中に生きる人間にとっては、“それ"があまりに当たり前のものですから、かつての世界を支配していたパラダイムがどのようなものだったか、そこに新しいパラダイムがいかに構築されたのかを実感をもって感じることは難しいものです。想像することはできますけどね。そこで役に立つのが「図版」でしょう。文字通り「百聞は一見にしかず」「一目瞭然」です。
 面白いことに、18世紀の解剖図でもまだ死体はポーズを取っています。それが19世紀のものでは「ばらされた部品の集合体としての死体」が描かれています。フーコーが『臨床医学の誕生』で、近代医学の誕生を18世紀末としていましたが、この解剖図の変化もまた、フーコーの主張を支える“傍証"として使えそうです。
 そして有名な「グレイの解剖図」(1858年)の登場です。そういえば『グレイ解剖学の誕生 ──二人のヘンリーの1858年』の読書日記は2011年1月24日に書いていましたっけ。
 死体や臓器の画が満ちた本なので、嫌いな人には近づくことはお勧めしません。ただそういったものに忌避感がない人には、何か新しいものが見つかることは保証できます。


閏年

2014-01-14 06:39:49 | Weblog

 グレゴリウス以前の年、特に紀元前の年を数える場合、閏年はどうなるんでしょう?

【ただいま読書中】『暦と時間の歴史』リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ 著、 正宗聡 訳、 丸善出版、2013年、1000円(税別)

 本書は「時間経過の計測法」についての本です。
 遙かな昔、ホメーロスの時代から「時間計測」は重要でした。係争があった場合、どちらの出来事が先に起きたか、が重要となるからです。そこでとりあえず使えるのは、地球の自転・月の公転・太陽の公転。
 古代エジプト人は、昼と夜をそれぞれ12等分していました。日中は日時計、夜間は星座の動きで時を測定していたのだそうです。江戸時代の日本と同じく、ヨーロッパでも不定時法を採用していましたが、機械時計が普及すると、日没または日の出を一日の起点にするよりも正午または真夜中を起点とする方が便利であることに人々は気づきます。
 グリニッジ標準時の採用には、抵抗がありました。だってグリニッジから子午線で東西の地域は「真上に太陽がないのに正午」ということになるのですから。その「抵抗」の名残として、オックスフォードのクライスト・チャーチ・カレッジ(西経1度15分)には「グリニッジ標準時から5分遅れても遅刻とは見なさない」という風習があるそうです。要するに“地元の標準時"ではグリニッジより5分遅れて“正午"がやってくると言うことなのでしょう。
 現代の「西暦」は、紀元前46年にユリウス・カエサルがそれまでの暦を改革し、さらにそれを教皇グレゴリウス13世が1582年に改革したローマ暦です。実はグレゴリウス13世以前にも暦のずれは無視できないものになっていましたが、なかなかうまくいかず、さらに宗教改革の嵐がそれらの動きを吹き飛ばしてしまいました。
 問題は「復活祭」です。もともとこの祭りは、ユダヤ教の「過越しの祭り」(ニサンという月の14日に仔羊が生贄にされ15日に食べられる)が起源です。聖ヨハネの福音書ではキリストの復活は「ニサン月の14日」とされています(他の三人の福音書では15日とされていますが、著者は14日の方が理に適っている、としています)。そして、キリストの復活が「日曜日」であったことから、太陰月での「14日」をまず確定しその次の日曜日を祝うことになりました。素直に「過越しの祭り」と同時に祝えば良いとも思えますが「ユダヤ人と同じではまずい」という政治的判断があったようです。ここで日付確定に使われた論拠や計算式については、私には説明ができません。昔のお偉いさんや学者たちが激烈な論争をしていた話題ですから、私ごときの能力では手に余るのですが、とにかくまあ複雑怪奇です。
 古代ローマは「八曜制」でした。これがのちに「七曜制」と競合することになります。占星術が盛んだった古代バビロニアでは「土曜」から始まる「七曜制」でした。ユダヤ人は、「6つの労働日」と「1つの安息日」からなる「週」を使っていましたが、この安息日は偶然バビロニアの土曜日と一致していました。キリスト教徒も「週」はユダヤのをそのまま採用しますが、曜日の名前は惑星の名前とキリスト教の名前が各国で競合し、様々な“方言"が生まれます。ゲルマン語族では各曜日に彼らの神の名前が割り当てられています。
 人類は「巨大な時計」として「地球、月、太陽、星座」を使いました。しかしその「巨大な時計」には目盛りが刻んでなかったから自分たちで勝手に刻みました。私たちは生まれたときから「暦」の中で生きていますから、ついついその存在を“当たり前"“絶対的なもの"と勘違いしてしまいますが、実は単に人為的な産物だった(だからこそ、地球の各地で、あるいは歴史の流れの中で様々な“暦"が用いられている)、ということが本書でよくわかります。日本の「紀元」が、天皇の治世と一致するようになったのは明治以降の新しい習慣だということとか、「西暦」が実は巨大な「紀元」という宗教的な存在であることも私はついつい忘れがちでした。もう一度自分たちの生活を新しい目で見ることも無駄ではなさそうだと思えます。


一網打尽

2014-01-13 07:52:16 | Weblog

 「<宇宙ゴミ>漁網で除去へ 町工場とJAXA協力」(yahooニュース(毎日新聞))
 二つの意味で興味深いニュースです。一つは「宇宙をきれいにする」。これ自体とても素晴らしいことです。デブリは少しでも少ない方が良いですから。もう一つは「町工場」。大企業ではなくて町工場が最先端の場で頑張っている、と聞くだけでなんとなく嬉しくなっちゃうのは、なぜなんでしょう?

【ただいま読書中】『深海の超巨大イカを追え!』NHKスペシャル深海プロジェクト+坂元志歩 著、 光文社新書650、2013年、900円(税別)

 本書は「23分間」のために10年間を捧げた人々の物語です。
 どんな話にも“前日譚"があります。だけどどこかから始めなければなりません。本書は2002年の小笠原から始めようとしますが、実際にはその20年くらい前から話は動いていたのでした。
 まず始まるのは、マッコウクジラ・イカ釣り漁船・カメラ、の三題噺です。国立科学博物館の窪寺とNHKが組み、深海に棲むダイオウイカを撮影するプロジェクトが開始されます。
 ここで登場するのが「データロガー」。昨年1月27日に読書した『ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ ──ハイテク海洋動物学への招待』(佐藤克文、光文社新書)で扱われていた、海洋動物に背負わせるカメラや測定器具です。本書ではマッコウクジラにカメラを背負わせて、ダイオウイカとの闘いを自分で撮影させよう、なんてプロジェクトも紹介されています。
 スミソニアン博物館のクライド・ローバーは、世界に100万頭以上のマッコウクジラがいて毎日1~2匹のダイオウイカを食べていたら、その消費量を補うために深海には何百万ではきかない数のダイオウイカが生息しているはず、と推定します(ただしこの意見が論文になったときには、マッコウクジラの数は36万頭、それが毎月一匹のダイオウイカを食べたら年間430万匹のダイオウイカが消費される、となったそうです)。それだけの数がいるはずなのに、ダイオウイカが生きて泳いでいる姿の目撃例はありませんでした。それでもNHKのチームのところには、ダイオウイカを食った直後のマッコウクジラの写真(口からダイオウイカの足が1本だらりと垂れ下がっている)が寄せられ、海中カメラマンは顔にダイオウイカの吸盤の痕が残るマッコウクジラの撮影に成功します。一歩一歩ダイオウイカに人々は迫っていきます。
 ダイオウイカを撮影するために、深海に縄を垂らしました。一番下に餌の(生の)スルメイカ、その少し上にデータロガーがセットされています。そして2004年、クルーはダイオウイカの写真撮影に成功します。これによって歯車が勢いよく回り始めます。「次は動画だ」と。深海撮影用のカメラを船から吊しての撮影が試行され、同時に、海洋研究開発機構の深海潜水艇を使っての撮影を望んでの提案書が海洋研究開発機構に繰り返し提出されます。さらに深海用ハイビジョンカメラの開発も。
 西洋ではダイオウイカはとても“人気"があります。「生きたダイオウイカの写真撮影成功」のニュースはまず欧米で火がつきました。チームの根気のおかげか、こんどは生きたダイオウイカがテレビカメラの前で釣り上げられます。あと欲しい「絵」は、深海で泳いでいる姿。しかしNHKではなかなか企画が通りません。「ダイオウイカ? 何それ」といった雰囲気です。国内で無理なら、国際企画です。チームの人間はディスカバリーチャンネルに企画を売り込み、即決でOKをもらいます。しかし、ここから苦難の日々が続きます。それも何年も。さらに2011年の東北大震災。チームは小笠原に留まって自分たちの仕事を継続するように命じられます。しかし……
 2012年の夏、取材チームは「最後の勝負」に出ます。これまでに得た経験すべて、集めることができるだけの機材、世界中の専門家たち、考えに考え抜いた戦略、それらのすべてを手を変え品を変え深海に潜むダイオウイカにぶつけるのです。
 私は残念ながらこのドキュメンタリー番組は見逃しています。ただ評判は聞いていたので、本書である程度“補完"はできました。次はできたら「マッコウクジラ vs ダイオウイカ」の場面を撮って欲しいなあ。


簡単なアプリ

2014-01-12 08:10:18 | Weblog

 学問の世界などでは、詳しい人ほど断言を避ける(詳しくない人間ほど簡単に断言する)、という傾向が見られることがありますが、アプリの世界でも似たことがあるようです。この前ネットを見ていたら「○○で××の機能を持ったアプリはないのか」という質問があって、それに対して詳しい人から「技術的な問題と法律的な問題があるので、現時点では困難」という返事があったのですが、それに対して質問者からは「ごちゃごちゃ言ってないで、アプリなんて簡単なものはちゃちゃっと作って欲しいものだ」という反応がついていました。
 アプリがそんなに「簡単」なものだったら、ご自分でちゃちゃっと勉強してちゃちゃっと作ったら良いのでは?と単純に思った私もやっぱり“もの知らず"ですか?

【ただいま読書中】『健康食品・中毒百科』内藤裕史 著、 丸善株式会社、2007年、2800円(税別)

 医薬品は動物実験・人体実験が行われてその安全性と有効性が確認され、さらに使い方や使う量が決められてから使用されますが、それでも予期しなかった副作用が大々的に発生することがあります。健康食品にはそのような「事前の手続き」はありません。なんとなく有効そうでしかも薬より安全、というイメージで大々的な宣伝がおこなわれ、用法用量についても何の規定もなく世の中に放たれます。
 しかし、「ある物質が生きた細胞や臓器に作用する」ということは「思わぬ作用が出る」ことを同時に意味するはずです。「人間が望む作用だけしか出ない」という都合の良い保証はどこにもないのですから。
 本書はいわゆる「健康食品」で生じた健康被害を、エビデンス(証拠・根拠)の文献とともに紹介しています。
 とりあえずぱらりと開くと……「ウコン」には肝機能障害・自己免疫肝炎・薬疹がありますが、肝機能障害については1994年~2003年に日本で発生した健康食品・民間薬(やせ薬以外)で発症した肝障害の1/4をウコンが占めているのだそうです。
 イチョウ葉エキスでは……アレルギー反応、薬疹、出血、けいれん……あらあら、これもけっこう大変な副作用があります。
 蜂蜜や漢方薬にも副作用があります。
 ここで気をつけなければならないのは、「副作用があるから危険だ」と全否定するのではなくて、「副作用があることを前提に、気をつけて使う」態度を使うことでしょう。薬と同じことです。この世に「無料の安全」なんかありません。「絶対の安全」もありません。「健康食品だから安全」とか「自然だから安心」とかあっさり思考停止に陥るのではなくて、常に「自分は何らかのリスクを摂っている」という意識を持っていること、でしょう。それにしてもそういったリスクがあるものを大量に販売している業者やそれをバックアップしているテレビの「健康情報番組」は、もう少し何とかならないものですかねえ。


あの世

2014-01-11 07:48:58 | Weblog

 古事記では死んだ人が行くあの世は「黄泉の国」です。仏教(浄土教)でのあの世は「地獄」と「極楽」です。では、「黄泉がえり」の黄泉は、地獄なのでしょうか、それとも極楽? お盆に「御先祖様が帰ってくる」のはどこから? もしも「地獄」からだったら、そんなに簡単に出してもらえるとは思えません。「極楽」だったら、わざわざそこを脱出して里帰りをする意味がわかりません(というか、本当に成仏していたら「この世」への未練や執着はもうないはずです。そんなものがあったらそれは仏教的には大変まずいことのはず)。
 日本人にとっての「あの世」って、一体どんなものなんでしょうねえ。

【ただいま読書中】『日本人の地獄と極楽』五来重 著、 吉川弘文館、2013年、2100円(税別)

 日本人の「他界」には、山中他界・海中他界、天上他界・地下他界があります。竜宮城は海中他界です。ところが「平家物語」では竜宮を「海の底の地獄」と表現しているところがあります。本書では、天上他界は極楽・地下他界は地獄、とまずは簡単にまとめられていますが、伊弉冉尊が死後に行った黄泉の国や素戔嗚尊が行った根の国は「地獄」ではないですよね。
 日本の山には、「賽の河原」や「地獄谷」が多くあります。つまり日本人にとって「山中他界」と「地獄」は大変身近なものでした。修験道では地獄は実在するものでした。山でその地獄を体験しその体験に耐えることができたものは即身成仏してそのまま浄土に至るのです。つまり「山岳修行」は、「山=地獄」で苦しい修行をすることで極楽浄土へ行くことができる、という「地獄」が魂の通過儀礼のプロセスのような扱いです。日本人の精神の根底には先祖崇拝がありますが、「先祖が地獄に落ちたまま」というのは耐えられませんから「通過するプロセス」と捉えようとしているのかもしれません。
 仏教(浄土教)では「地獄」は「極楽」とセットです。ところが地獄については饒舌に語られますが、極楽の描写はそれほどでもありませんでした。さらに興味深いのは、日本には「地獄巡り」と「地獄破り」があることです。地獄破りで有名なのは狂言の「朝比奈」ですが、地獄に落ちた朝比奈は閻魔大王と鬼たちをやっつけて自力で極楽に上ってしまいます。ドラゴンボールZですか? 地獄破りが初めて文献に登場するのは鎌倉時代の「吾妻鏡」ですが、ということはそれ以前から民衆の間ではそれが言われていたのでしょう。
 
 著者は「インテリとしての僧の仏教理解」と「庶民の仏教誤解」とを区別しています。そして「誤解」には「日本人の原始的な神の観念や他界観念」が強く作用しています。つまり、日本人が昔から持っているあの世観に浄土教の地獄と極楽が重ね合わされて理解(誤解)され受容されたのです。著者はそこで「僧の苦労」を思います。「庶民の論理」をいかにすくい取るか、良心的な僧はそこで苦労をしていたはずだ、と。
 著者が危惧するのは「現代日本」です。心の中に「地獄・極楽」あるいはそれに類する世界観を持たない人は、どのように生きて死ぬのだろうか、と。私自身、自分が死すべき存在であることを(知識ではなくて)実感するようになったのはわりと最近のことですから、ちょっと考え込んでしまいますね。


長寿

2014-01-10 07:31:05 | Weblog

 昭和の頃には「百歳である」だけでニュースにしてもらえました。21世紀になると、それだけでは不十分で、何か「芸」(現役の医者とか詩作とか)ができないとニュースにならなくなりました。これは“良いこと"なんですかねえ。

【ただいま読書中】『兎とかたちの日本文化』今橋理子 著、 東京大学出版会、2013年、2800円(税別)

 2012年、日本には「うさぎカフェ」が11店存在しているそうです。実は日本では“伝統的"に「うさぎブーム」が存在しているのです。
 明治時代には「うさぎバブル」が起きました。投機の対象としての兎が大人気となったのです。大阪府は明治5年に「兎売買ノ市立・集会禁止」の布令を出し、東京府でも同じ布令だけではなくて明治6年には「兎税」を府達しさらに密告の奨励まで行ってブーム(兎バブル)を潰しました。
 「ピーター・ラビットのおはなし」の初翻訳は1912年のオランダ語訳、と言われていたそうですが、実はその6年前に「お伽小説 悪戯な子兎」として日本語訳が発表されていました。つまり世界で初めての翻訳だったのです(著作権をクリアしているかどうかは疑問ですが、明治39年にそれを求めるのはまだ無理だったかもしれません)。ただ、兎ブームの記憶を持っていたであろう明治の人間たちにピーター・ラビットは単に「愛らしい兎」であったかどうかはわかりません。
 日本各地には「うさぎ神社」があります。岡崎神社(京都)では、狛犬ではなくて狛兎があり、ご神紋は跳ね兎、おみくじはうさぎおみくじ……なんだかやたらとうさぎが満ちている神社だそうです。調(つき)神社(埼玉)にも狛兎や兎の土人形がありますが、写真を見るとなかなかキュートで可愛いものです。
 この「兎を可愛いと感じる感覚」は、実はアジア地域では日本特有のものなんだそうです。それも現代になってから。
 もともと兎は「田の神」「山の神」でした。あるいは「月に住むもの」。図像では、月を描かなくても兎を(特に空を仰ぐ姿で)登場させることで月の代用とする手法があります。「波に兎(波兎(はと)文様)」も日本では伝統的に用いられています。「玉兎(ぎょくと)」と「金烏(きんう)」はペアで、月と太陽の異名として用いられてきました。これは東アジア全体で、宗教の枠を越えて広く用いられてきた象徴です。
 和菓子に「兎」は多く登場します。2009年の月見のシーズンに著者は新宿周辺のデパート6軒を買い回り、兎関連の和菓子を30種類ゲットしています(本書にその一覧表があります)。神社で神前に供えられるお菓子にも兎型のものが多く見られます。
 和風小物にもうさぎは多く登場します。伝統的にはうさぎは秋草と組み合わされるものでしたが、近代になって桜との組み合わせが多くなっています。さらに現代では「うさぎ」には「かわいい」というテクスチャーがしっかり貼り付けられてしまいました。現代の日本人は「かわいい」を抜きにしてうさぎを見ることが困難になってきています。それは「日本の伝統」を見えなくすることではないか、と「自分は決して兎好きではない」著者は危機感を抱いたそうです。そのため、本書には「逸品」の兎模様の読み解きがいくつも添えられます。私自身、「うさぎ」=「かわいい」という思い込みを持っていることに本書を読んで初めて気づかされました。若い女性が「かわいい」の連呼をするようになったのは2~30年前からでしたっけ? その流れの中に「うさぎ」もあるのかもしれません。これもまた、新しい「日本文化」になっていくのかな。