子供の頃に「人喰い人種」の話を本で読んで私は震え上がりました。だけど、その話をもたらした人は、人食いの現場を目撃した後どうして喰われずに脱出できたんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『人喰いの社会史 ──カンニバリズムの語りと異文化共存』弘末雅士 著、 山川出版社、2014年、2600円(税別)
『史記』には人肉喰いの描写があります。皇帝が逆臣を弑してその肉を臣下に配る、という、忠誠心を確認するための儀式でしょうか。まさか「ご馳走」扱いではなかったと思うのですが。飢饉の時には人肉食があり、病気の親に子が自分の股の肉(滋養が特にあるそうです)を調理して食べさせる「割股行孝(かつまたこうこう)」も親孝行の典型とされました(「自傷するな」の孝経の教えはどうなるんだ、とも思いますが)。
コロンブスは探検で訪れたハイチやキューバなどで「他の島には人喰い人種がいる」という話を通訳とした現地人から聞かされそれを信じました。ただし確認はできていません。ヨーロッパ人が定着して現地の娘を妻妾とすると、彼女たちも人喰い人種の話を語りました。こういった通訳や妻妾たちは、何を目的としてヨーロッパ人に人喰い人種の話をしたのでしょうか。しかもこの「人喰い人種の話」は、アメリカ、オセアニア、アフリカ、東南アジア……ヨーロッパ人が進出した地域のどこでも聞こえるのです。
北スマトラでは「内陸部に人喰い人種が」という噂に、ヨーロッパからのスパイス商人が怯えて“安全”な港町に留まったため、港湾部は栄えることになりました。もっともやがてヨーロッパ人たちも内陸部に入るようになり、「人喰い人種」の話は立ち消えになってしまったのですが。
ヨーロッパでは「人喰いは蛮族の野蛮な風習」という捉え方が一般的でしたが、中にはひねくれた人がいて「人喰い種族の中にも、高潔な人間がいる」なんて主張をする者もいました。相対主義の走りでしょうか。
「人を喰う」という行為は、おそらく世界中のあちこちに存在しているはずです。日本人でも江戸時代の飢饉の時や第二次世界大戦中に戦地で人を喰った人はいたようです。ただ、本書ではその行為の是非を問うのではなくて、「その行為に関する言説」に焦点が当てられています。“私たち”がなぜその行為に注目し、どのように論じるのか、と。そういえば、“私たち”は「食べる側」に身を置いているのでしょうか?それとも「食べられる側」?
「新国立」に関して、最初のザハ・ハディド案があまりにコストがかかりすぎる、と「ゼロベースで見直し」になって(ところでなんで「ゼロベース」? 単に「最初から見直す」で私には通じますけど)、ところが新しい案にやっと決まったと思ったら「聖火台がない」。「オリンピックを開きたいのではなくて、単に千億円単位の金を動かしたいだけか?」と毒づきたくなります。ところで、私の記憶では、最初のザハ・ハディド案でも聖火台は屋外に置かれることになっていたはずです。やっぱり最初から「オリンピックを開くための競技場を作りたい」ではなかったようですね。
【ただいま読書中】『「新国立」破綻の構図 ──当事者が語る内幕』日経アーキテクチュア 編、日系BP社、2015年、1700円(税別)
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なんだかケチがついてばかりの「東京五輪」ですが、新国立競技場として最初に選定されたザハ・ハディド案がどうして駄目にされたのか、そもそもそれがどうして選定されたのか、を当時の連載記事とその後の取材を並べることで探った本です。
建設業界に関して、日本は「大工の文化」です。発注者は予算と希望を大工に伝えたら、あとは大工の腕次第。国際標準では、発注者はプロジェクトマネージャーの助けを借りて、施工者側が出したプランを精査し、自分の希望と予算との限界を探りながら具体的にプランを変更・調整していく必要があります。ところが「新国立」ではこの「プロジェクトマネージメント」が欠如していました。
最初に「戦犯」扱いされたのは、国際デザイン競技審査委員長の安藤忠雄さん。しかし安藤さんは「1300億円のデザインを選んだだけで、その後のコストアップは何も聞かされていない」と。「巨大なキールアーチ」も槍玉に挙がりました。しかしそれを設計したザハ・ハディド事務所は「キールアーチそのものは230億円くらいで、あそこまでのコストアップはもたらさない」と。さらにザハ・ハディド事務所は日本の設計チームと最初から基本設計の共同作業をしていましたが、問題はJSC(日本スポーツ振興センター)だと主張します。競技場の最高高さを75m、客席を78000にすれば理想的な競技場ができるのに、JCSは70m、80000席を譲らず、しかも具体的な予算を設計作業の基本設計締め切りの2箇月前まで示さなかった、のだそうです。基本設計を見て施工業者が示したのは「工事費3000億円、工期56箇月」。設計側は驚き、コストカットのためにさまざまな修正案を提示しますが、ことごとくJSCに却下されました(ここに紹介された「技術的な解決策を“文系”の官僚がすべて却下する態度」を見ていて私が思い出すのが、以前読んだ『「安全第一」の社会史』に紹介されていた、戦前の官立工場で「法学部」出身の官僚が工場の管理者となり「工学部」出身者はせいぜい技師としてしか扱われずそのカイゼンの提案はことごとく却下された、という制度です。現場を知らない人間が現場をえらそうに指揮する態度は「日本の伝統」なのでしょう。そういえば原発でもそういう態度が横行していましたね)。なお日経アーキテクチュアは施工業者にもインタビューを申し込んでいますが、断られたそうです。デザイン競技の審査委員だった都築雅人さんは「ザハ・ハディド事務所はコスト高の汚名を着せられたが、それは冤罪だ」と本書のインタビューで述べています。
「新国立」で強く批判されたのは「巨大な規模」と「見積もりの甘い建設コスト」でした。それで苦しんだのは、設計の人たちです。さらに、「神宮外苑にふさわしくない外観」「五輪後の採算性(維持費の巨大さ)」も。それに「議論を尽くさない」「情報公開をしぶる」JSCの態度が拍車をかけます。2013年10月11日シンポジウムで建築家の槇文彦さんは明確に「批判」の声を上げます。そして、それに賛同する声が結集。そういった異論に耳を貸さず、文部科学省とJCSは“粛々と”旧国立競技場の解体を始めます。ところがその入札で明白に不自然な行為が。内閣府は契約破棄と入札やり直しを命じます。結局「官製談合ではない」とはなりましたが、工事は遅れに遅れます。解体が始まる前に早くも新設の施工業者が決定されますが、屋根は竹中工務店、スタンドは大成建設でした。ところが両者の見積もりを合計したら3088億円、工期は66箇月! 文科省はJCSにコスト縮減や工期短縮を指示しますが、その話は非公開とし、旧競技場の解体をニュースとしてマスコミに提供します。これは私の想像ですが、もうどうしようもない時期になるまで待ってから「高いけれど、これで行くしかない。行かないとオリンピックに間に合わないぞ。それでいいのか?」で押し切る気だった人(たち)がいたのでしょう。
ところが500億円の負担を求められた「都」は、押し切られませんでした。この頃から盛んに“犯人捜し”が行われるようになります。槍玉に挙げられたのは「複雑なデザイン」「キールアーチ」「開閉式の屋根」などなど。しかしそういった“目に見える物”ではなくて、本書で“犯人”と名指しされているのは「無責任体制」「多すぎる船頭」「リーダーシップの不在」といった“目に見えないもの”つまり「日本というシステム」です。本書からその問題点をきちんと学ばなければ、また別のプロジェクトでまた似たような問題が発生することになるでしょう。私たちに、学ぶ気が、そしてそれを改善する気がありますか?
ちょっと思いついて、「国際」がつく学部を持つ大学が日本にどのくらいあるのか、ざっと検索をしてみました。
「苫小牧駒澤大学国際文化学部」「秋田大学国際資源学部」「国際教養大学国際教養学部」「筑波大学社会・国際学群」「宇都宮大学国際学部」「群馬県立女子大学国際コミュニケーション学部」「共愛学園前橋国際大学国際社会学部」「共栄大学国際経営学部」「東京国際大学国際関係学部」「獨協大学国際教養学部」「文教大学国際学部」「武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部」「千葉大学国際教養学部」「敬愛大学国際学部」「城西国際大学国際人文学部」「千葉商科大学国際教養学部」「東京外国語大学国際社会学部」「青山学院大学国際政治経済学部」「亜細亜大学国際関係学部」「学習院大学国際社会化学部」「学習院女子大学国際文化交流学部」「順天堂大学国際教養学部」「上智大学国際教養学部」「創価大学国際教養学部」「大東文化大学国際関係学部」「東海大学国際文化学部」「東京農業大学国際食糧情報学部」「東洋大学国際地域学部」「二松學舎大学国際政治経済学部」「日本大学国際関係学部」「法政大学国際文化学部」「明治大学国際日本学部」「明治学院大学国際学部」「早稲田大学国際教養学部」「横浜市立大学国際総合科学部」「関東学院大学国際文化学部」「東洋英和女学院大学国際社会学部」「フェリス女学院大学国際交流学部」「新潟県立大学国際地域学部」「新潟国際情報大学国際学部」「山梨県立大学国際政策学部」「山梨学院大学国際リベラルアーツ学部」「静岡県立大学国際関係学部」「愛知大学国際コミュニケーション学部」「金城学院大学国際情報学部」「椙山女学園大学国際コミュニケーション学部」「中部大学国際関係学部」「名古屋外国語大学現代国際学部」「名古屋学院大学国際文化学部」「日本福祉大学国際福祉開発学部」「鈴鹿大学国際人間科学部」「立命館大学国際関係学部」「龍谷大学国際学部」「追手門学院大学国際教養学部」「大阪観光大学国際交流学部」「大阪学院大学国際学部」「大阪経済大学国際学部」「大阪国際大学国際教養学部」「大阪女学院大学国際・英語学部」「関西外国語大学英語国際学部」「近畿大学国際学部」「阪南大学国際コミュニケーション学部」「神戸大学国際文化学部」「関西学院大学国際学部」「天理大学国際学部」「中国学園大学国際教養学部」「広島市立大学国際学部」「広島女学院大学国際教養学部」「山口大学国際総合科学部」「山口県立大学国際文化学部」「北九州市立大学国際環境工学部」「福岡女子大学国際文理学部」「九州国際大学国際関係学部」「九州産業大学国際文化学部」「西南学院大学国際文化学部」「福岡女学院大学国際キャリア学部」「別府大学国際経営学部」「立命館アジア太平洋大学際経営学部」「宮崎国際大学国際教養学部」「鹿児島国際大学国際文化学部」「鹿児島純心女子大学国際人間学部」「名桜大学国際学群」
「国際」ではなくて「グローバル」「異文化」なんてことばがついた学部もありました。いやあ、これからの「グローバル化」に向けて、日本の将来は安泰ですねえ。
【ただいま読書中】『「ニャオ」とウシがなきました』エマ・ドッド 作、青山南 訳、 光村教育図書、2013年、1400円(税別)
イギリス生まれの絵本です。
農場でのんびり眠っていたネコがおんどりの「コッッケーコッコーオオオオオ!」という大声に眠りを邪魔されてしまいます。魔法が使えるネコは、いたずらで、農場の動物たちの鳴き声を入れ替えてしまいます。おんどりは「チューチュー」、ブタは「コッコ、コッコ」、めんどりは「ブーブー」、ヒツジは「ワンワン」、イヌは「メーメー」、ウシは「ニャオ」、ネズミは「モー」。いやもう大混乱です。
居眠りをしたかっただけのネコはその大騒ぎの不協和音でかえって眠れません。さらに動物たちはこの魔法をかけたのがネコであることを知り、みなでネコを追い回します。さて、この騒動の結末は……
絵本を読んでいるときには気づかなかったのですが、こうしてあらすじを書いてみると、結局おんどりの声を誰が担当することになったのか、が問題ですねえ。さて、誰だと思います?
十二支は本来「陰陽で自然界の季節の移ろいを表現したもの」でした。ところが秦の時代頃から「十二支とは動物のことである」という誤解が始まり、その誤解が漢の時代に定着します。もう2000年以上その「誤解」が通用しているのですから、私も抵抗せずに「十二支は動物のこと」と言わなければならないのかもしれません。なんだか抵抗を感じるんですけどね。
【ただいま読書中】『十二支になった動物たちの考古学』設楽博己 著、 新泉社、2015年、2300円(税別)
まずはネズミ。コロンブス以前にヴァイキングが“新大陸”に到達していたことは確かなようですが、グリーンランドのヴァイキングの遺跡からはヨーロッパのネズミの骨が見つかるのに、カナダの遺跡からはヨーロッパのネズミの骨は出ません。つまり、ネズミが定着することができないくらいヴァイキングの新大陸での生活は短かった、と推定できるのだそうです。東南アジアからメラネシア・ポリネシアにかけてのナンヨウネズミのDNA分析からは、人類がどのようにこれらの島に広がっていったかも追えます。ネズミは船に潜んで渡海したはずですから。さらに島によってはネズミが貴重なタンパク源だったことも窺えます。
ウシは日本でも、食用でもあり役牛でもありました。牛車は平安貴族専用ではなくて、奈良時代以前から用いられていました。また、奈良時代の墨の分析で、その膠にウシのコラーゲンが使われていたこともわかりました。
殷や周の青銅器にはトラの文様があります。ウサギでまず登場するのは、徳川将軍家の正月の吸い物が兎の肉だったことや、明治天皇が肉食を公表したときにもそのリストの中に兎が入っていた事実。龍は、6500年前の中国西水坡遺跡から出土した貝殻で描かれた「龍の絵」が登場します。写真を見るとたしかに龍にしか見えません。新石器時代にすでに龍がいたんですね。日本の龍は、弥生後期の青銅鏡の模様です。ただしこれは中国からの輸入品。
遺跡からの出土品を、十二支で再編集して並べた、という面白い本です。自分の十二支が本書でどんな扱いになっているか、そこだけ読んでも楽しいかもしれません。
日本プロ野球の複数のチームで、試合前の円陣で声出しをした人に、試合に勝てば皆からご祝儀、負けたら罰金という“験担ぎ”をやっていたそうです。これって、声出し以外の人から見たら「試合に勝てば支出、負ければ収入」となるわけで、試合の当事者が試合の勝敗とお金の出納とを連動させた“遊び”をしてはまずいでしょう。どうしても金を賭けたいのだったら、野球とは無関係なもの、たとえばその円陣の中で相撲でもやったらどうです?
【ただいま読書中】『大相撲の歴史に見る秘話とその検証 ──触れ太鼓・土俵の屋根・南部相撲など』根間弘海 著、 専修大学出版局、2013年、2800円(税別)
まず登場するのが「座布団投げはいつから?」。私は大相撲での座布団投げが好きではないのですが、これのルーツは、ご祝儀を投げる「投げ纒頭(はな)」のようです。ご祝儀だけではなくてご祝儀代わりの物を投げる「物投げ」も江戸時代に相撲の慣習となりました。明治42年の国技館開館の時に、投げ纒頭も物投げも禁止されましたが、物投げはなかなかなくならず、今の座布団投げにつながっているそうです。なーんだ、座布団を投げる人はご祝儀を節約しているんだ。ひいきの小野川が番狂わせで谷風を破ったとき、興奮のあまり着ていた羽織も着物も帯も全部投げ出して裸で帰っていく、なんて熱狂的なファンの姿が本書には紹介されています。しかし、着物とかミカンなら怪我人は出ませんが、明治時代の新聞にある、たばこ盆・火鉢・ビール瓶などを土俵めがけて投げる人って、何を考えているのでしょう? 物投げを取り締まるために警官が待機し、目に余る者は逮捕していました。それでも「文化」として物投げは大正・昭和と続いています。
「触れ太鼓はなぜ土俵を反時計回りに三周するか」「土俵がいつ頃から作られるようになったか」「土俵の吊り屋根(4本柱の上にある場合は「屋形」)はずっと同じ形か」「行司が持つ軍配の房の長さや房飾りの本数は」などなど、相撲のトリビアが実に実証的に取り上げられています(吊り屋根は写真が載せられていて一目瞭然です)。根拠があやふやな資料は使わずにこれらの疑問に応えようとするまじめな態度からは、もしかしたら本書は最初は論文を目指していたのか、とも思えます。ともあれ、相撲が時代に合わせて実に柔軟にその姿を変えてきたことは、本書からよくわかります。さすが、国技。
「宝くじはギャンブルではない」という説を昭和の頃に聞いた覚えがあります。その根拠は「あれはただの運試し。“本物のギャンブル”は、カードにしても競馬にしても、知恵と運とその両方が必要なものだ」というものでした。それが“ギャンブルの公式の定義”かどうかは知りませんが、宝くじが確率だけに頼る運試しであることは確かです。だけど、だからこそ「民主主義の社会」にはふさわしい“ギャンブル”と言って良いかもしれません。参加することに、「個人であること」以外にどんな資格も資質も問われないのですから。
【ただいま読書中】『宝くじの文化史 ──ギャンブルが変えた世界史』ゲイリー・ヒックス 著、 高橋知子 訳、 原書房、2011年、2400円(税別)
古代ギリシアのアテナイでは、ほぼすべての政治家や官職のポストがくじ引きで決定されていました。一種の「究極の民主主義」ですが、その由来は宗教にあります。アテナイでは神職を決定するときに「豆によるくじ引き」が行われていたのです。神意がくじで決まるのなら、民意もくじで決める、ということなのでしょう。そう言えば日本の「あみだくじ」も「阿弥陀」による決定で、室町幕府で将軍を決めるのに用いられたことがありましたね。
古代ローマでは、皇帝がくじを愛好しました。インフラ整備のための資金集めや貴族を支配することが目的ですが、賞品として困るものもありました。たとえば生きたライオン。これを一体どうしろと?
古代ローマではくじ券の数はせいぜい数百枚でした。ところが「ゼロ」が導入されることによりくじ券発行数は(理論上は)無限大になります。13世紀頃宝くじが大々的に売り出されるようになり、さらに印刷機の普及によってその発行枚数は飛躍的に増えることになります。16世紀はじめのアントワープでは数十万枚のくじが発行されて豪華賞品が配られました。1549年にはアムステルダムで国営宝くじが売り出されます。
北海沿岸諸国での人気ぶりを見て、イギリスでもエリザベス一世が国営宝くじを売り出そうとします。ところがイギリス国民は、宝くじを信用していなかったのか女王を信じていなかったのか、宝くじは見事な不人気でした。
1600年頃ロンドンには物乞いや浮浪者や外国人が満ちあふれていました。そういった人々を厄介払いするためにヴァージニア会社が設立されます。甘言でだまして新大陸へ移住させることが目的です。彼らが到着したジェームズタウンは地獄でした。6000人の入植者のうち半数が餓死します。入植地に冷ややかで国庫支出を渋っていたジェームズ一世は、支援のため公営宝くじ開催の勅許を下します。この宝くじは成功し、ヴァージニア会社は倒産の危機から救われました。
面白いのは、昔の宝くじは「はずれ」も抽選されていた、ということです。まず「番号」を抽選し、次いでそれが「あたりか外れか」を抽選する、という複雑なやり方でした。エリザベス一世の時には抽選会が4箇月続いたわけがわかります。
「奴隷解放」目的の宝くじもありました。『ローマ亡き後の地中海世界』(塩野七生)に、イスラムの海賊が地中海沿岸を襲ってはヨーロッパ人を奴隷としてアフリカに攫っていったことが書いてありましたが、その中にけっこうな数のイギリス人が混じっていました。地中海だけではなくてイギリス沿岸までイスラム海賊は襲っていたのです。人質解放の身代金のために募金活動がおこなわれましたが、とても足りません。そこで参考にされたのが、フランスで売り出された「奴隷となった自国民解放のための身代金集め宝くじ」でした。
17世紀末頃イギリスでは宝くじの人気が高まります。システムが近代化され、汚職や抽選の不正が追放され、女性が「投機」に参加するようになったことが大きな要因でしょう。当時の女性は「自分の財産を投資する」ことは許されていませんでしたが、宝くじならOKだったのです。
フランスではカザノヴァが国営宝くじ創設を支援しました。この宝くじは大成功で、カサノヴァは(一時的にですが)金持ちになりました。カザノヴァは詐欺は働きませんでしたが、成功した宝くじには、ファンだけではなくて詐欺師も群がることになります。
18世紀末のイギリスで、それまでの「高額賞金は年金払い」を「一括払い」にするという射幸心を高める工夫がされます。宝くじ人気は益々高まりますが、それで身を持ち崩す人も次々と。さらにくじの密売人なんてものも登場し始めます。なんだか現代社会の麻薬と似ていますね。あまりの過熱ぶりに反対論も高まります。19世紀初めの有名な「宝くじ反対論者」はウィルバーフォース(イギリスの奴隷制度反対論でも有名な人です)。ついに1823年に「宝くじ法(国内外のすべての宝くじを禁止する法)」が可決され、26年に「イギリス最後の宝くじ」が発売されます。世間は大騒ぎとなりますが、くじ券は半分が売れ残り、くじ自体としてはそれほどの盛り上がりを見せずにイギリスの宝くじは終了しました。
アメリカでも宝くじは人気がありました。ジョージ・ワシントンも熱心なファンで開催の支援もしていましたが、「疑惑の当選」なんてものもあるそうです。イギリスとは違って19世紀にもアメリカでは宝くじが盛んで、この収益が西部開拓の原動力になりました。道路・街灯・学校などや、200以上の教会も宝くじの売り上げで建築されました。アメリカ人は(今も昔も)税金が嫌いで、公債制度が整備されておらず銀行もまだ貧弱だった時代、宝くじが新しい国家建設に必須だったのです。
サッチャリズムのイギリスでは宝くじ復活運動がありましたが、サッチャーは反対論者でした。しかし後任のメージャーは「健康保険制度の原資」にすることを目的として宝くじを復活させます。この時点で、ヨーロッパで宝くじがないのはアルバニアだけになったそうです。
刑務所に服役中に高額賞金のくじに当選した人もいます。「囚人に受け取り資格があるのか」とか大騒ぎになったそうですが、えっと……賞金を受け取りにいけたんでしょうか? 1970年頃には、国連が主催者となって全世界規模での宝くじ、というアイデアがあったそうです。これが実現していたら、どんなことになっていたんだろう、なんてことも夢想します。
そうそう、「議員をくじで選ぶ」は私には「民主主義的な手続き」に思えます。「議員の子が議員になりやすい」よりもね。「能力のない人間が選ばれてしまう」という反論もあるでしょうが、それに対して私は二つの意見を持っています。
1)現在の議員たちは皆「能力のある人間」ばかりなの?
2)くじで選ばれても議員ができる程度の義務教育を全国民にしたら良いのでは?
広島県の中学校での「万引きをした、という誤記録によって推薦入学を断られたことを苦にして生徒が自殺」が大きなニュースとなっています。これでふっと思ったのですが、もしも「万引きをした」という記録が「誤記録」ではなくて「本当の記録」だったらこのニュースの扱いはどうなったでしょう? もしかして「自業自得」とでも?
私は「記録が正しくても、問題は同じ」と考えます。もちろん「過去に万引きをしていた。今も万引きをしている」のだったら「推薦」は難しい。だけど「過去には確かにそんなことが合ったが、今は改心して、これからも非行に走る心配はない」場合だったら推薦しても大丈夫では?
魔が差す、ということは、誰にでもあるでしょう? 「過去の記録」も大切ですが、もっと大切なのは「現在と未来のその人の姿」のような気がします。
【ただいま読書中】『野坂昭如の酒呑童子』野坂昭如 文、「酒呑童子絵巻」(曼殊院蔵)、集英社、1982年
一条天皇の御代、都から美女が次々姿を消す怪事件が起きました。人々は警戒を強めますが、池田中納言の一人娘まで忽然と姿を消してしまいます。中納言は陰陽師阿部晴明に泣きつくと「都の東、伊吹山の奥深く、千丈ヶ岳の鬼の棲家に姫は囚われている」という神占を得ます。帝もそれを聞き、源頼光に鬼退治を命じます。頼光は家来の四天王、綱・金時・定道・季武に保昌を加えた6人で勇気凜々出立します。
ところがこの一行、絵巻で見るとあまり表情が冴えません。命令に不満でもあるのか勝ちが確信できていないのか。やっと千丈ヶ岳の入り口に辿り着くと、そこに八幡大菩薩の化身が待っていて道案内をしてくれます。辿り着いた鬼の棲家は、まるで宮中のような御殿でした。というか、絵巻で見る限り「鬼(筋骨隆々の半裸で角が生えている姿)」がいないんですけど。牛頭馬頭といった感じの「鬼」ばかりです。酒呑童子もでかい人間、というスタイルです。ただ、やってることは「鬼畜の所業」です。捉えた女性たちを弄び、生き血をすすり、その生肉を食する、というのですから。ただ、当時の人間も、切羽詰まったらそれに近いことをやっていたのではないか、と思えますが。つまり「鬼の所業」というよりも「人間が行う鬼のような行い」です。
さて、山伏に化けた源頼光一行は、まんまと鬼の棲家に入り込みます。歓迎の宴会で出されたのが「血の酒」「切ったばかりの女性の脚」。怪しまれないために一行はそれを口にします。お返しに、と鬼たちに提供したのが、毒を入れた酒。
妙におどおどしていたり急に殺気立ってすぐにその気配を収める一行に、酒呑童子はその正体を怪しみます。怪しむけど、信じて客として入れたのだから、と疑った自分を恥じます。なんかそのへん、とっても人間的な悪役です。やがて酔っ払い、毒も回ってふらふらになった酒呑童子は、寝室に引き揚げてしまいます。鬼たちも寝てしまいます。さて、討ち入り、という場面ですが、そこで戸のカギが開きません。困ったところでまた八幡大菩薩のお導きが。鍵は開けてくれるし、酒呑童子の手足を縛る黒がねの弦を授けてくれます。サービス満点です。
さて、めでたく酒呑童子を討ち取った一同ですが、ここでちょっとしたドンデンが。いや、よくできた物語です。
あとがきで野坂昭如さんは「どう考えてみても、酒呑童子の方が、魅力的人物である」と言っています。いやいや、私はその意見に大賛成です。
「点火茎」……点火用の茎
「陰茎」……日陰者の陽根
「水茎の跡」……水と茎だけ用いる書道作品
「茎針」……茎に生えた針
「茎葉」……茎に生えた葉
「茎茶」……茎だけで構成されたお茶
「歯茎」……歯のような茎
「包茎」……プレゼント用に包まれた茎
「茎長」……茎の長さ
「茎韮」……茎だけになった韮
「酸茎」……酸っぱくなった食用の茎
【ただいま読書中】『南蛮音楽 その光と影──ザビエルが伝えた祈りの歌』竹井成美 著、 音楽之友社、1995年、2233円(税別)
「西洋音楽」は明治時代に日本に導入された、と私は思っていましたが、実はザビエルの時代にすでに日本人は「西洋音楽」と出会っていました。宣教師たちは「教育」を重視し、西洋寺子屋といった感じで各地に「教理学校」を設立しました。その数は1583年には西日本だけで200校を超えたそうです。そこで教えられたのは、読書・算数・作法そして音楽でした。子供たちはグレゴリオ聖歌をすぐに覚えました。実際にどのような歌だったかは、1605年に長崎で出版された『サカラメンタ提要』が2冊日本に現存していて(東洋文庫と上智大学)、その中にグレゴリオ聖歌が19曲収載されているので確認可能です。単旋律の曲ばかりですが、これは当時のヨーロッパで「多旋律(ポリフォニー)では歌詞が聴き取りにくく、宣教には不向きではないか」という議論があったことが影響しているのかもしれません。
宣教師は音楽の力を認識していたようです。都地方の区長オルガンティーノ(ウルガン伴天連)は1577年に「オルガンや聖歌隊を送ってくれたら、九州より布教が遅れている五畿内でも信者をどんと増やしてみせる」とイエズス会総長に手紙を書き、79年に実際にオルガンが2台日本に到着しました。その1台は安土、もう1台は豊後臼杵に設置されました。このオルガンについて資料は残っていませんが、おそらく人力でふいごを操作するパイプオルガンだったはずです。音色についても不明ですが、1600年頃日本で製作されたオルガンは、竹筒のパイプで、西洋のブリキのパイプに比べて「やわらかい音色」だったそうです。私は「尺八の音色のオルガン」を想像してしまいました。
1582年天正遣欧使節団が出発。航海の途中で、ユリウス暦がグレゴリオ暦に変更される、といった“イベント”もあり、暦の計算がややこしくなっています。当時のヨーロッパは、ルネサンス・宗教改革・大航海時代で揺すぶられていました。大陸では宗教戦争が続き、イギリスでは国教会が確立していました。イベリア半島は前世紀のレコンキスタからやっと落ちついてきた時代です。ポルトガルのエヴォーラの大司教座教会で、正使の伊東ミゲルと千々石マンショは教会付属の三段鍵盤のオルガンを見事に弾き、聴衆の喝采を浴びました。なおこのオルガンは現存するそうです。ローマでは教皇グレゴリウス十三世に謁見。使節団は各地で熱狂的な歓迎を受けていましたが、着物姿が新聞などで嘲笑の的になっていることに心を痛めた教皇は、洋服をプレゼントしてくれます。ところがその教皇が死去。一行は、葬儀ミサと新教皇シクストゥス五世の戴冠ミサに出席する栄誉に浴します。帰国の途、1588年にマカオに寄港した一行は、自分たちを派遣したキリシタン大名大村純忠と大友宗麟がともに亡くなり、秀吉が伴天連追放令を出したことを知ります。知恵を絞って「インド副王の使節」という名目でやっと帰国できたのは1590年のことでした。一行は秀吉に謁見、そこでも楽器演奏が行われます。秀吉は珍しい楽器に強い興味を示しましたが、伴天連追放令の撤回はしませんでした。なお、この時演奏された曲目については「ジョスカン・デ・プレの曲ではないか」という推測が紹介されています。使節団は楽器だけではなくて、印刷機も持ち帰っていました。ローマ字の活字と字母ももたらされ、すぐに漢字の木製字母も作られ、和漢字の縦書きの「どちりなきりしたん」などが出版されました。さすがに楽譜は難しいだろう、と思ったら、最初の段落に書いた『サカラメンタ提要』にちゃんと楽譜も印刷されていました。ただ、ちょっと歌ってみたのですが、これは難しい。西洋音楽に不慣れな日本人がどこまで歌えたのだろうか、なんてことを私は思っています。
「おらしょ」とは、ラテン語・ポルトガル語の「oratio(オラツィオ・祈り)」が日本語に転訛したものですが、いわゆる「隠れキリシタン(これはあくまで他称で、自称は「離れ」「むかしキリシタン」「旧(ふる)キリシタン」などだそうです)」がこっそりと伝えた「祈り」です。もとはほとんどがラテン語ですが、それを隠れキリシタンの人たちは口授で伝え続けていました。著者が注目したのは、生月島に伝わる「歌おらしょ」です。これはほとんどグレゴリオ聖歌の原形を保っているのだそうです。もちろん現在ではその「意味」は失われ、ほとんど呪文のように唱え続けられているだけですが、信仰と習慣の力のすごさですね。
現代日本には西洋のクラシックやポップミュージックが定着しています。これは「音楽」だけではなくて「文明」「文化」も同時に流入し日本の文明や文化を攪拌しているからできたことでしょう。「音楽だけ」を輸入しようとしてもそれは定着しないことは、安土桃山時代のことを思えば明らかです。これ、国粋主義者には気に入らない事態かもしれませんが、私は音楽に関しては西洋音楽も楽しめる今の日本が好きです。
ゆるやかに温度が上がっていくのではなくて、「冬」と「春」を繰り返しながらだんだん暖かくなるのは不思議です。そこで一つ仮説をでっち上げることにしました。
低気圧が日本列島の南を通ると北風が大陸から日本に吹きつけます。これが「寒」。しかし日本列島の北を通れば南風が低気圧に引き込まれます。これが「温」。つまり、三寒四温は低気圧の通過ルートによって規定される場合があるのではないか、というのが私の仮説です。で、シベリア高気圧がだんだん元気がなくなると低気圧のルートが北寄りになることが多くなる、つまりどんどん日本列島は暖かくなる、ということです。
さて、この仮説の信憑度はどのくらいでしょう? 3:4くらい?
【ただいま読書中】『英雄から爆弾犯にされて ──アトランタ五輪爆弾・松本サリン・甲山事件』浅野健一 編、三一書房、1998年、2300円(税別)
アトランタ五輪で、パイプ爆弾を発見して人々を避難させたガードマンのリチャード・ジュエルを、その3日後アトランタ・ジャーナルは「実は爆弾を置いた真犯人だった」と号外で人々に知らせました。しかしその内容は、ただの憶測とでっち上げでありそこに描かれた人間像はまったくのでたらめでした。FBIは違法な取り調べをしてその内容を新聞にリークし、逮捕もされていないジュエルの自宅や家族の回りにメディア・スクラムが敷かれます。これは、その直前の松本サリン事件の時の河野さんを巡るマスコミと警察の動き(薄弱な根拠に基づく強力な思い込みによる違法な捜査(「被疑者不明の家宅捜索」というわけのわからないものでしかもその令状が「何の根拠もなく『殺人罪』と決めつけている」というとんでもないもの)と、その情報のマスコミへのリーク)の、ほぼ相似形です。そして、そのマスコミ報道を信じた人々が、冤罪被害者に対して社会的制裁(無言電話、脅迫電話、脅迫状など)を熱心にするところもそっくり。
アメリカは「推定無罪」の原則が強く機能し、弁護士は取り調べ段階から同席・アドバイスができます。そのアメリカでさえ冤罪が起きました。だったら、人権感覚や公正な裁判や取り調べに関する意識がアメリカよりはるかに希薄な日本では? まあ、こういった疑問は書くだけ無駄ですね。冤罪の山や報道被害の大海がその回答となっています。
「取り調べの可視化」に対して日本では反対論が強いのですが、実はアメリカでもそれを始めるときに反対論が強力に唱えられたそうです。ところが実際に始めてみたら、反対論者の主張はほとんどが杞憂だったことがわかったそうです。むしろ取り調べの技術が向上し(ことばできちんと真犯人を追い込む必要があるし、黙秘をする容疑者に対してはきちんとした証拠を示す必要がありますから)「可視化」はアメリカに定着しました。
しかし、アトランタ・ジャーナルの主張はすごい。「自分たちは事実を報道しただけで、何も悪くない」なのですから。で、何が「事実」かと言えば「FBIがジュエルさんを犯人だと疑った」ということ。ところが、FBIの誰がそんな情報をリークしたのか、といえば「それは秘密」。情報の裏をきちんと取ったかどうか、も「それは秘密」。自分の行動が、無実の人間だけではなくて社会にも害をなしているという「事実」から目を背けているのは誰なんだ?と私は感じます。間違ったことをしたらごめんなさい、は子供の躾の基本なんですけどねえ。
ダイアナ妃に対するパパラッチについても興味深い指摘が行われています。たとえばあの事故後、非倫理的な行動から得られた写真をイギリスの大メディアは買わないように自主規制を始めた、とか。また、メディアの仕事は、弱者に対して強者が何をしているか、国民に対して政府が何をしているか、を明らかにすることだ、という主張もあります。きょとんとするマスコミ人が日本には多いかもしれませんが。だって「メディアは娯楽だ」という意識が強そうですから。でも、それで良いのかなあ?
東京オリンピックのマラソンではエチオピアのアベベが優勝、日本の円谷が3位でした。では、2位は誰?
【ただいま読書中】『アベベ・ビキラ ──「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯』ティム・ジェーダ 著、 秋山勝 訳、 草思社、2011年、1800円(税別)
東京オリンピックでアベベは靴を履いて走り優勝しました。この「靴を履いた」こともニュースになるくらい、アベベは特異な存在でした。私がテレビで見ていると、他の選手はゴールインしたら力尽きてばたばた倒れるのに、アベベは余裕たっぷりにぴょんぴょんといった足取りでウイニングランと整理体操をしていた記憶があります。ところが本書の著者は、「ローマ、東京の連覇は彼の人生の序章でしかない。本当の物語はここから始まる」なんてかましてくれます。本当にそうか、これは読むしかありません。
今でこそマラソンでは「アフリカ勢」という言葉がふつうに使われますが、その先駆けとなったのが(1960年ローマオリンピックでの)アベベでした。ただしこの時は「25年前にイタリアのファシスト党が占領しようとしたのがエチオピア。そこの皇帝の近衛兵がローマで金メダルを取った」という政治的な意味の方が注目されていました。アベベは「脱植民地・独立・新生アフリカ」のシンボルに祭り上げられます。しかし著者はエチオピアだけではなくて、1940年のフィンランドにも注目しようとします。
アベベ・ビキラは1932年にエチオピアの貧しい村で生まれました(27年という説もあるそうです)。35年にイタリア軍がエチオピアに侵攻、皇帝は国際連盟にその非を訴えますが、国際連盟は何もしませんでした。アベベは羊の群れを追ったり村対抗のガンナ(フィールドが数kmにわたる長距離ホッケーのようなもの)に夢中になって成長、皇帝親衛隊(貧しくても優秀な男子なら入隊できるエリートコース)に入ります。平和な時代で、アベベはサッカー、ついでマラソンに打ち込み、その才能を開花させます。開化させたのは、親衛隊のスポーツトレーナー、オンニ・ニスカネンでした。
ニスカネンは1910年フィンランドのヘルシンキ生まれ。一家は戦争を避けるため13年にスウェーデンに移住します。オンニはそれなりに名を知られる競技者となりますが、むしろその天分は、クラブなどの組織をまとめる方で発揮されていたようです。39年ソ連軍がフィンランドに侵攻。ニスカネンはスウェーデン義勇軍に加わり、戦場に向かいます。ニスカネンは“冒険”が大好きで、スポーツも女性も義勇軍もすべて“冒険”の一部だったようです。義勇軍の創設者の中には、イタリアがエチオピアに侵攻したときに戦いに参加した者がいました。彼らの中には、戦後になってエチオピア皇帝ハイレ・セラシエに招聘されてエチオピア軍の整備を行った者がいました。そしてニスカネンも46年に「エチオピアに行ってみないか」と声をかけられます。ニスカネンにとってこれは大好きな「冒険」でした。親衛隊士官のスポーツ訓練・学校での体育教育・ボーイスカウト育成・エチオピア赤十字の立ち上げ……ニスカネンは並外れた活動を続けます。そして56年(メルボルン・オリンピックの年)ころにアベベと出会ったようです。海抜3000mの高地を、通勤や買い物のために日常的に走り続けていたアベベはニスカネンのスウェーデン流のトレーニングで記録をどんどん伸ばします。ローマ代表選考レースで国内三番手と思われていたアベベは2時間21分23秒という驚異的な記録(これまでの自己記録を18分更新、あのザトペック以上の記録)で優勝します。そしてローマへ。さまざまな問題がありましたが、その一つが「ランニングシューズ」でした。アベベたちはふだん裸足で走っていました。しかしローマで裸足? 国の沽券に関わります。しかし試しにシューズを履いて走ってみたら、足が痛くなって記録が落ちます。国内のオリンピック参加反対派を黙らせるためにも、ともかく「勝利」が必要です。ならば裸足で。マラソンはローマで初めて最終日に開催されました。夕闇の中、松明を持った狙撃兵たちがコースを示します。選手のシルエットがローマの荘厳の中をまるで幻影のように走り抜けます。「あの裸足のゼッケン11番は誰だ」。観衆も記者も騒ぎます。「名前はなんと読むんだ」「どっちが姓なんだ」とも。
アベベの凱旋直後、親衛隊によるクーデターが起きます。アベベも短期間拘留されますがすぐ釈放。ニスカネンは負傷者救護の活動をしていました。クーデターは失敗しましたが、皇帝の権威は失墜し(それまでも低落してきたからクーデターが画策された、とも言えますが)旧体制は少しずつ崩壊へ向かっていました。その崩壊の過程はアベベの人生とほぼ重なっています。
1961年ニスカネンは重大な決断をします。大阪毎日マラソンでコースの状況(数km続く砂利道)を見てアベベにシューズを履かせよう、と。シューズを請け負ったのは鬼塚喜三郎(オニツカタイガー、のちのアシックス)。はじめは嫌がったアベベですが、実際に履いてみてその利点に気づき、以後はシューズで走るようになりました。走法も変化します。ローマの時には「完走するための走法」でしたが、東京の時には「勝つための走法」に進化していたのです。
エチオピアでは、外国人(で皇帝の覚えがめでたい)ニスカネンに対する反対派が根強く活動していました。そのため東京オリンピック直前までごたごたが続きます。さらに悪いことに、東京オリンピックのレース35日前にアベベが「盲腸(急性虫垂炎)」に。さらに東京の選手村では乗ったことのない自転車にトライして転倒、手と膝を打撲してしまいます。それでも号砲が鳴ると、レースは「走るメトロノーム」のものでした。
アベベはメキシコを目指します。しかし「セレブ」となったアベベを周囲は放っておきません。トレーニングよりも宴会です。ニスカネンの小言は無効となり、二人の関係は変わってしまいます。メキシコオリンピック自体にも問題が。まず南アフリカ参加を巡ってアフリカ諸国のボイコット運動が(主導したのはエチオピアでした)。南アフリカが参加禁止となってこのボイコットは収まりますが、次にソ連のチェコ侵攻を巡って北欧諸国のボイコット運動が。メキシコでは学生と警察の衝突が続いています。不摂生とトレーニング不足と足の故障でアベベの調子は最悪でした。コーチ陣はもう一人の代表マモに期待します。ニスカネンを含むコーチたちにとってアベベはすでに“戦力外”だったのです。
1969年に不可解な交通事故。アベベは第7頸椎損傷で、歩けなくなります。しかし翌年、車椅子競技会(パラリンピックの先駆け)でアーチェリーと卓球に参加。エチオピアでの身障者スポーツ連盟結成にも尽力します。72年ミュンヘンオリンピックに貴賓として招待され、観客から総立ちの拍手を浴びました。そして73年脳出血で死亡。74年には
皇帝の廃位。翌年皇帝暗殺。革命当時スウェーデンに戻っていたニスカネンは、自分が人生を賭けてエチオピアに築いたものがすべて無に帰していくのを遠くから見守るしかありませんでした。
こういった歴史の断片を見ていると、「歴史」とは「見る者の編集」によってどのようにも姿を変える、と思えます。ニスカネンのことなど私は知りませんでしたが、本署以降私にとって「アベベがからむ歴史的事実」にはほとんど「ニスカネンの影」が見えることになりますから。それにしても、フィンランドとエチオピアの人間がちょうどのタイミングでその人生を交叉させた、というのは、やはり「運命」と呼ぶしかないのでしょうか?