瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■瞬間のことば

2004年11月20日 | 瞑想日記
◆「瞬間のことば」
グリーンヒル瞑想研究所のWeb会から『CDブック「瞬間のことば」』が送られてきた。この会が4周年を迎えるのを記念して1年以上継続の会員に送ったとのことだ。サイト「ブッダのヴィパッサナー瞑想」の「今日の一言」コーナーから選りすぐりのことばを収録した本に、同じく「今日の一言」の中の言葉を吹き込んだCDが付いている。

さっそくぺらぺらとめくって読んだ。その中から二つ。
 ☆
集中が悪い‥? だから何なのでしょうか。
ヴィパッサナー瞑想は、冷静に、
事実を事実として見ていく瞑想です。
「集中が悪い」「(心が)散乱している」と、
起きたことを起きたこととして、
その事実だけを確認する瞑想なのです。
これが、無執着の心を育てていく原始仏教のやり方です。
 ☆
厭になったら無理をしないで、
「(サティなんか入れなくない)と思った」とサティを入れて下さい。

◆事実だけを確認する
これがヴィパッサナー瞑想なのだ。このダイアリーでも何度も確認してきたことだ。瞑想合宿レポートにも何度も触れた。にもかかわらず、「起きたことを起きたこととして、その事実だけを確認する」という大切なことをしばしば忘れてしまう。

瞑想をしていて、どんな状態であろうとも、どんなに不満足に感じても、「事実を事実として見ていく」ことが大切なのだと、繰り返し繰り返し「事実の確認」に戻ってこよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■末那識

2004年11月20日 | 読書日誌
竹村牧男の『知の体系・迷いを超える唯識のメカニズム』を読んでいる。これまで唯識関係のかなり多くの入門書や解説書を読んだが、唯識の最も根底となる考え方を分かりやすく解説しているという意味では、これがいちばんかなという感じをもった。

それにしても、どんな解説書を読んでも、これまで一度も接した記憶のない述語の三つや四つにお目にかかるのにはちょっと驚く。この本でも唯識の難解さを「その一つの要因は、すべて述語で構成されているとうことにあると思います。これは、哲学として、一つ一つの言葉の概念を明確に定義して、その言葉のにそって語るからだ」と説明していた。煩瑣で厳密で詳細な多くの述語で体系化されいるから、解説者がそのどこを中心に切るかで、お目にかかる述語にもかなりの違いが出てくるということだろう。

久しぶりに唯識の本を読んで、今回いやに印象に残ったのは、末那識のことだった。意識とちがって、睡眠時もふくめいつも、どんな時でも意識に気づかれずに「我がある、我がある」と自我を執している心、それが末那識だ。意識では、永遠不滅の我とまで考えて執しているわけではないにしても、生まれてから今に至るまで、変わらない自我はあるという前提で日々生きているわけで、よく点検して見ると、結局、常住なるもの、不滅なるもととして、我に執しているようだ。末那識の深層からそのように執している自分。にもかかわらず、永遠不滅の我などとこにもなく、すべては一瞬一瞬生滅を繰り返しているという真実。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする