瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■二つのブログ

2004年11月03日 | サイト更新管理
これまでは、さるさる日記を使って、この前進となる日記と読書日誌を公開してきた。読書日誌の方が、ブログエポケー:精神世界と心理学を中心とした読書日記で公開しはじめた。サイト臨死体験・気功・瞑想のトップにリンクしている。その他にいくつかのブログでで試行錯誤している。ブログによってだいぶ使い勝手が違う。やはり重くてなかなか開かないのは止めた。

エポケーはライブドアで借りている。すぐ開くのはいいが欠点もある。無料だと30Mまでの容量制限があることだ。それで有料で借りることにしたが、それでも100Mまでである。それもあって、従来の読書日誌も残してある。同じ記事をコピーするのはわずかな手間だ。バックアップのつもりである。この日記のさるさる日記版も同じような意味でそのままだ。というよりこちらはまだサイトでリンクしていない。

ブログのすごいことろは、やはりアクセス数のすごさだ。ライブドアは有料でかんたんなアクセス解析がつく。さるさる日記で、毎日100のアクセスを獲得するまでにはずいぶんかかった。それも「臨死体験・気功・瞑想」のトップでリンクしているからだ。ところがブログだと、書けば一時でもPing送信などでウェッブ上に露出することが多いので、すぐ50や100のアクセスがあるので驚く。

ブログによってまた、いろいろな可能性が出てきそうで楽しみだ。
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■怒りへの固執

2004年11月03日 | 普通の日記
最近、ある人間関係で非常に怒っていることがある。人にある依頼を受け、他に引き受け手がいないというので、好意で引き受けたつもりだった。依頼者は、迷惑はかけないとは言っていた。実際は、引き受けることで少しはストレスになることがあるかも知れないが、それはたいしたことはないと思った。

しかし実際には、私が金銭的な問題に対処しなければならなくなった。依頼者が、少しばかりの誠意を見せればそれですむのに、実際はできればそのまましらばっくれていようと考えているかも知れないのだ。

思い出すと怒りと嫌な思いがこみ上げてくるし、どうしてくれようと思ったりする。一時的ではない強い怒りを感じるのは、私にとしてはかなりめずらしいことだ。しかし、だからこそサティのしどころなのだろう。もちろん、そのつもりでサティはしている。

しかし、ゆはり何かに固執しているのを感じる。かんたんにはとらわれの思いから自由にはなれない。私自身のなかにも何か問題を感じる。先ほど感じたのは、怒りと同時に「傷つきやすい心」であった。そういう不誠実な態度をとられたことに、傷ついており、それが強いしつこい怒りになっているような感じがする。

ともあれ、しっかりと心随観をすることを忘れてはなるまい。
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■脳と魂

2004年11月03日 | 読書日誌
◆脳と魂:『脳内現象』2
この本のamazonでの読者のレビューを読むと、かなり辛らつなものが多く、評価が低いのに意外の感をもつ。脳と意識の関係を問うことが、いかに根源的な困難さをかかえているかを、クオリアの概念を中心に解明するのだが、要するに問題の困難さの指摘に終わり、解答が見出せないことへの不満、しかもそれをいろいろな本で繰り返しているばかり、ということへの不満らしい。

しかし逆に言えば、近代科学の方法に内包される限界がもっとも先鋭的に浮かび上がるのが、脳と意識の関係問題においてなのだ。茂木は、この問題に誠実にとどまり続け、そこにどれほど巨大で困難な問題が隠されているかを明らかにしようとする。しかも、脳の研究の最先端の成果を踏まえた上で、意識問題を前にしてのその限界を語っているのだ。私はそこに強い知的興奮を覚える。

近代科学が近代科学であろうとするかぎり、乗り越え不可能と思われるような限界がそこにはある。だからこそ、科学の方法そのものが問われてしまう。それが心-脳問題だ。

昨日も書いたが、私には茂木を読む場合のもう一つの関心がある。いわゆる「魂」の問題だ。

あくまでも同一なるものとして存在し続ける「常一主宰の我」としての霊魂を、釈尊はみとめず、無我を主張した。物質的な脳の機能から意識を説明し切れるのなら、「魂」は存在しないであろう。

茂木はまさに、そういう仕方で説明しきれない根源的な難しさが意識問題にはあると主張している。だとすれば、それは肉体と独立した「魂」なのか。もちろん脳と意識の強い結びつきを考えると、安易にそう主張することもできない。とすると、よくある精神-物質の二元論という図式そのもの変更が必要なのか。そうした様々な問題を考える上でも茂木の本は、刺激と興奮に満ち満ちているのだ。

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