瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

もう一度始めから

2006年12月02日 | 瞑想日記
起床し、トイレに行き、着替え等々という一連の動作中は、昨日と同じキレのよいサティだった。座禅中のサティは飛びぬけてよいという感じはしなかった。逆に言うと、日常の動作でも座禅中と同じような細かなサティが入っていたということだ。座禅を終え、階下に降りても、サティのキレは変わらなかった。

これを一日続けることは可能だなと思った。今日はこのまま一日サティを続けて、断食もやろうかなと思った。しかし、サティを一日続けるのは面倒くさい、少し疲れるなとも感じた。結局、11時半ごろにパンを食べ、13時過ぎには昼食をとった。

午後は少しだらだらし、退屈紛れにテレビを見たりした。結局サティも持続しなかった。夜になってもサティのキレは回復していない。合宿中は、10日間サティを持続させる。「一日続けるのは面倒くさい」とは、何をたるんでいるんだ。毎日が合宿だと思えばよいのに。

10月23日の、寝ている間ずっとサティしようとする意志が持続した(ように感じた)日の日記や、その後数日の日記を、先ほど読み返した。あの日の感覚を思い出すようにした。

やはり感じるのは、熱意を失わずに取組み続ければ、ある瞬間にふっと変化が訪れるということ。また元に戻ったとしても変わらず続けていれば、また変化がやって来る。そしてその周期がしだいに短くなっていくのだろう。

「心はいつも『満たされない』状態にあります。‥‥『つまらないな』。こう感じているとき、雑誌をめくってみたり、電話でおしゃべりしたり、テレビをみたり、ネットサーフィンしたり、買い物したりすることで、心の飢えを満たすことはできます。」(『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』p47)

退屈という感覚でさえ、サティを入れて気づきを深める大切な要素となる。そう学んで以来、退屈する自分の心を感じ、そこに発見されるものにラベリングしようと思うようになった。

サティがしっかりと入っているときは、退屈紛れにテレビを見たり、必要以上のものを食べたいという「思い」も感じなくなる。食べたい欲求も満たされない状態を代替物で満たそうとする行為だ。今日、昼前に食べた時点で、かなりサティが甘くなっていたのだろう。いや、所詮はこのレベルのサティなのだろう。

明日から、いや今日これから、また取り組み直しだ。
コメント
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