瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

白鶴への憧れ

2006年12月29日 | 瞑想日記
最近いちばん感じるのは、日常の中での想念・思考がもはや「手におえない」ものではないということだ。半ば無自覚な想念の連鎖に埋没して、どうしようもないということはない。気づきが頻繁に入るので、想念の森から顔一つ抜け出て見ている感じが多くなったのだ。これは、私の中でかなり大きな変化だと感じる。

人間関係の中でもその変化を感じる。とくに子供たちの関係だ。自分の想念や感情の流れを少し距離をおいて余裕をもって見ることができるので、それが対人関係での余裕になって現れるのだろう。

今日は、掃除をしたり洗濯物を干したり、買い物をしたり、障子貼りをしたりの一日だった。洗濯物を干したり、歩いたりは、そのために必要な思考がほとんどないのでサティが入りやすい。障子貼りは、紙の張り具合を見ながら糊付けの順序を考えたりするので、雑念と区別がしにくくサティが難しかった。

去年の12月14日に白鶴の夢を見た。これは私にとってかなり大きな意味をもった夢だった。最近、その夢を書いた日記を読み直した。白鶴のイメージを思い出す度に私のなかに「憧れ」が甦る。

白鶴は修行者の象徴だが、それは日常の行為をエゴの動機付けを超え、結果への囚われを超えてひたすらに行う者を意味した。それは、日常の利害を超えた修行であると同時に、それ自体が覚者の行為であった。私の中に、すべてを投げ打って白鶴のように生きたいという「憧れ」がある。

想念の森から少し首を突き出せるようになって、想念・思考に埋没しないあり方が、白鶴のあり方と重なってきた。
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